狼の子と猫の子のアルフライラ 第6夜:正義は我にあり
1
ヒザーナはイディグナ河の西岸に築かれた都市だ。
計画的に造られた街中には、運河が網の目状に張り巡らされている。人々はその運河を利用して移動したり物品を運んだりすることができる。目で見て涼むこともできる――今のギョクハンとファルザードのように、だ。
二人は、運河のうちの一本を見下ろす高級飲食店の二階の個室に通されていた。窓から遠くに目をやるとイディグナ河も見える。
これからジーライルの出資者であるアズィーズという男と会うことになっている。
どうやらアズィーズは二人の想像をはるかにしのぐ大金持ちらしい。
入ったことのない高級料理を出す店に連れてこられて、二人は緊張していた。こんなところで腹が満ちるまで食べてもいいのだろうか。
店だけではない。アズィーズに対しても、二人は緊張していた。あのジーライルが様を付けて呼ぶ男だ。しかも皇帝に近しい存在らしい。具体的に何をしているかまではジーライルは説明してくれなかったが、とにかく、偉い人なのだろう。
加えて、ジーライルには、アズィーズに、皇帝に会おうとしている理由を説明するように、と言われていた。
ギョクハンとファルザードは、二人で話し合った結果、アズィーズには援軍のことを話そうと決めた。もしアズィーズが帝国の高官だった場合、遅かれ早かれ知られることになる。それに、ザイナブの手紙をめちゃくちゃにしてしまったので、二人は身分を証明するものを持ち合わせていない。アズィーズの口利きの他に頼れるものはない。
さて、吉と出るか凶と出るか。
「お待たせー」
衝立の向こうからジーライルの能天気な声が聞こえてきた。二人は気を引き締めて絨毯の上に座り直した。
「入るよー」
胸の鼓動が早まる。唾を飲み込む。
衝立をのけてまず入ってきたのはジーライルである。
彼は普段どおりだ。ジョルファ人の派手な民族衣装を着て、あっけらかんとした笑顔で部屋の中に足を進めた。
その後ろから、一人の背の高い男が姿を見せた。
ギョクハンもファルザードも、顔をしかめた。
その男は、蜜色に近く濃い金髪も、同じく剛毛の蜜色のひげも伸ばし放題で、顔がわからなかった。
怪しすぎる。
都市のカリーム人らしく、白い立て襟の襯衣の上に、黒の短い胴着を着て、深緑の上衣を羽織っている。どこででも見掛ける服装で、特別身分の高い男の恰好には見えなかった。唯一腰に下げた短剣だけは柄が金で柄尻に紅玉を埋め込んでいるので高価そうだ。
「やあ、お待たせしたね」
低い声には張りがあるので実年齢はまだ若いと思う。だが、見た目では、まったく、何歳かわからない。
ギョクハンは思わずファルザードの顔を見てしまった。
ファルザードもギョクハンの顔を見ていた。
胡乱なものを見た目をしている。
おそらくギョクハンも今同じ目をしている。
前に向き直った。
毛むくじゃらの男は少年たちの反応を意に介していないらしい。二人の正面に腰を下ろし、あぐらをかいて「ヒザーナにようこそ」と言った。その声は明るい。
「私はアズィーズ。ジーライルの出資者だ」
ジーライルもその毛むくじゃらの男――アズィーズの隣に座った。
「よろしく頼むね」
ギョクハンとファルザードは、力なく、「はあ……」と呟いた。
「……何だい? 元気がないようだ」
「アズィーズ様の見た目が怪しいからでは?」
二人が言ってもいいのかどうか悩んだことを、ジーライルはあっさりと言ってのけた。心臓がつかまれたような不安を感じた。だがアズィーズはさほど深く気にするたちではないようで、声を上げて豪快に笑った。
「いやあ、君たちが急いでいると聞いたものだから。床屋にあれこれしてもらってからこようかと思ったのだが、予定を繰り上げて繰り上げてとしていたら身なりを整えているひまがなくてね。すまない。とりあえず風呂に入って香を焚いたから臭くはないだろう?」
「はー、でもまたどうしてこんなことに。今度は何をしていたんです?」
「ジーライルがヒザーナにいなくてとても寂しかったからね、半年くらいかな? 砂漠を歩き回ってしまった」
言葉遣いは比較的丁寧に感じる。本来はそこそこ上品な男なのかもしれない。しかし、見た目の怪しさがあまりにも強すぎて、相殺できない。まして砂漠を放浪していたとなればなおさらである。
「砂漠で何をなさってたんですか」
「冒険だ」
「はー、アズィーズ様はバカでいらっしゃる。その間にナハルが大暴れしていますよ」
アズィーズがまた大声で笑って「すまん!」と言った。あのジーライルですら真面目な人間に見えてきた。
食事が運ばれてきた。まずは前菜で磨り潰したひよこ豆の練り物と山羊の乾酪、刻み野菜の盛り合わせだ。
「さ、食べたまえ。君たちが育ち盛りの大喰らいであることはジーライルから聞いている。ここのお代はすべて私が払うから気にしなくていい」
ギョクハンはこわごわ乾酪を手に取った。ファルザードも野菜に手を伸ばしたが、手に取るまではしない。アズィーズの顔色を窺ってしまうのだ。といっても表情が見えるわけではない。
ただ――長い蜜色の前髪の合間から碧色の瞳が見えた。おそらく西方系の血が混ざっている。母親が西方系の高価な女奴隷である可能性が高い。つまり高貴で裕福な身分のカリーム人の息子なのだ。
いったい、何者だろう。
「あの」
ファルザードが口を開く。
「ジーライルに、アズィーズ様は皇帝に近しい、高貴な身分のお方だとお聞きしています。具体的に、何をなさっておいでなんですか?」
アズィーズは「ナイショだ」と答えた。
「だが難しい手続きなしに皇帝とお会いできる身分であることは本当だ。こんな姿では信用してもらえないかもしれないが、私は宮廷でそれなりの力を持っている。軍事も、内政も。私にはある程度のことができるよ」
軍事にも内政にも干渉できるということは、武官でも文官でもあるか、もしくは、どちらでもない。何なのかまったくわからなくなった。
「食べたまえ、少年たち」
前髪の下の目が細められた気がした。
「腹が減っては戦はできぬ、だよ」
「僕たち本気で困ってるんです。あなた様がどちらのお方なのかわからないと、僕たちも本当のことを話せません」
ファルザードが毅然とした態度で言う。
「子供だと思って侮られてはかないませんね」
アズィーズがまた笑った。
「すまない、君たちを愚弄しているつもりではないんだ。私も私なりに急いでがんばっているつもりなんだよ」
そして、こう続ける。
「ワルダから来たそうだね」
ギョクハンは背筋を正した。
「ワルダには私にとっても大事なひとがいて、そのひとを救いたいと思っている。だが私には情報がない。ジーライルを忍び込ませようかとも考えたが、さすがのジーライルも三千のナハル兵が囲んでいるところに単身で放り出すのは危険だと考えてやめた。君たちが私に情報をくれたらとても助かるし、君たちも私を頼ったほうが帰宅の日が早くなると思う」
あのよくしゃべるジーライルが黙ってアズィーズの隣に座っている。真面目な話をしているのだ。緊張が高まる。
「そのひとって、ワルダのどこにお住まいの何さんですか」
ファルザードが問いかけると、アズィーズは片目を閉じてまた「ナイショだ」と答えた。
「具体的には言えないが、とても美しい女性だ――と、聞いている。直接お会いしたことがないのでわからなくてね。でも真剣に妻に迎えたいと思って何度も面会を依頼する手紙を送っているんだ。それが残念ながらお父上のところで止まってご本人のお手元に届いていないと見える、返事が返ってきたことはない」
「ご本人が読んだら返事を書くと思ってるんです?」
「私と結婚したくない女性など世界のどこを探してもいやしないよ!」
また、大きな声で笑った。ファルザードがとうとう「うさんくさい!」と言ってしまった。
「ワルダの女性を守るためにも俺はあなたを斬って捨てなきゃならないのでは」
「物騒な子だ。よしなさい。食べたまえ」
四人が手をつける前に次の料理が運ばれてきてしまった。炭焼き肉だ。熱いうちに食べたほうがおいしいが、今は食事どころではない。
「ひとつ試験をさせてくれないか」
アズィーズが身を乗り出す。
「試験?」
「君たちを皇帝に会わせても大丈夫な人間かどうかの試験だ。その試験を通ったら、私は君たちに自分の正体を明かしてすべての流れを解説しよう」
アズィーズの碧眼は、今度こそ、真剣に見えた。
「何ですか。とりあえず、聞きますよ。受けるかどうかはわかりませんけど」
ファルザードがそう答えると、アズィーズが、人差し指を立てた。
「任侠退治だ」
2
その日の午後、隊商宿の厩舎にて、ギョクハンとファルザードはようやく馬たちと過ごす時間を持てた。
馬房の中に入ったギョクハンは、黒馬を撫でさすりながらうめいた。
「ああーもうワルダに帰りたい」
その向かい、通路を挟んだ反対側の馬房で、ファルザードが白馬を刷毛で手入れしながら「とうとう本音を言ったね」と言う。
「城下町の郊外で一日じゅう訓練だと言い張って鷹狩りをしていた生活に戻りたい……」
「ないから。ワルダの今の状況で鷹狩りとか、むりだから。ワルダ城三千のナハル兵に包囲されてるから」
「ヒザーナはだめだ、ごみごみしててめちゃくちゃ窮屈。ワルダの城下町もきつきつだったけど、ヒザーナはもっとすごい人口密度だ」
「なんてったって帝都ですから。その昔アシュラフ帝国があった時代からある街で、カリーム帝国の首都になってから三百年かけて巨大化した都市なんだとさ。三百年だよ?」
知らなかった。ファルザードは意外と物知りだ。一方ギョクハンは歴史にも疎い。
「それに一説によると百万人も住んでるらしい。帝国どころか世界で最大級の都だね」
「ひゃくまんにん……どうりで……もうむり……かえる……」
後ろから急に話しかけられた。
「ギョクくんが弱音とは珍しいね」
振り向くと、ジーライルが紙切れ一枚を持って近づいてきているところだった。
「やっぱり草原育ちだと広いところがいい?」
「まあそれもあるけどな、お前とアズィーズ様は俺のことを何だと思っているのかしらねーが、本業は騎士なのに徒歩で行って乱闘騒ぎをしてこいって言われたら気が滅入るに決まってるだろうが。カラはまたお留守番だ、お前らは俺とカラを引き離そうとしてる」
黒馬の首を抱き締めて呟く。
「俺はお前と離れたくないのに」
黒馬はわかっているのだろう、ギョクハンの肩に顎をのせておとなしくしている。
「ずっとこんな感じなの?」
「そうだよ、アズィーズ様とジーライルと別れてからずっとこんな感じだよ」
「この半月で、ナハル兵と戦って砂漠の盗賊と戦って悪い精霊と戦って……。たぶんそろそろ放牧しなきゃいけないんじゃないかと思う」
「可哀想に。シャジャラで稼いだ五万金貨で自分を買い戻して草原に帰りなよ」
「その前にザイナブ様にお会いしたい……ザイナブ様にお会いしてお前には五万金貨以上の価値がありますよって言われたい……」
「えっ!? ワルダのザイナブ様って『勇敢なる月』のことだよねっ!? 君の身分でザイナブ様にお会いしたいってかなり無茶なんじゃ!? いや、でも、がんばれ少年!? それはすごい挑戦だと思うよ、いや本気ならお兄さん応援するけど!?」
はっとした。自分にとってのザイナブは城の中に入ればいつでも会って話ができる存在だったが、ワルダ城における彼女がどんな立ち位置か知らない外部からしたら、一介の軍人が城主の娘に会って会話をするのはとんでもなく不埒なことである。なんとなく慰めてもらいたいという程度の気持ちで言ったことだったが、ジーライルは求婚でもする気かと解釈したかもしれない。
顔を上げた。ファルザードが眉間にしわを寄せていた。その顔には、余計なことを言うな、と書かれている。彼が気をつけて一生懸命ごまかしていることを自分は軽々しく口にしようとしていたわけだ。ギョクハンは黙った。
ジーライルはそれ以上根掘り葉掘り訊いてこなかった。
「それで、今夜のことなんだけどね」
ファルザードに紙片を渡す。ファルザードが刷毛を地面に置いてからそれを受け取る。
「今宵アブー・アリー邸に参上いたす。肥え太った豚を成敗し広く民衆にその財を分け与えんとす――怒風組。……何これ?」
「怒風組の犯行声明の写しさ」
怒風組――昼間アズィーズが討伐してほしいと言っていた任侠集団だ。
任侠とは、都市に根を張る無頼の徒のことである。己が力を頼みとして、強きをくじき弱きを助ける。公的権力である帝国政府を嫌悪し、時として法を犯してでも彼らを頼ってきた貧しい民を守る。
正直なところ、ギョクハンは任侠と戦うのに気が進まなかった。
任侠がそんなに悪いものだと思えないからだ。
本来ギョクハンははワルダの正規軍に属しているので口が裂けても言えないが、自分たちの目の届かない裏路地を取り仕切って戦う彼らを、かっこいいと思っていた。彼らには、独自の美学、独自の正義があり、自分たちとは違う形で己を貫いている。
「怒風組っていわゆる怪盗ってやつなの?」
「似たようなもんだね。義賊気取りなのさ」
「うっわー迷惑。しかもアブー・アリーって帝国の偉い書記でしょ? 成敗ってなに、殺すの?」
「それがわかんないんだよねー。今までもこういうことあったけど、ひとによって、単に門の前に逆さ吊りにされているだけの人もいたり、殺されちゃった人もいたり、まちまちなんだよね」
「どういう基準?」
「ここだけの話、下町で評判が悪い人ほど酷い目に遭ってる」
ファルザードが唸った。
「ひょっとして、下町の皆さんは怒風組が大好きだったりしない?」
ジーライルが「正解」と指を鳴らした。
「それを討伐してほしいってさ、アズィーズ様さあ……」
「まあまあまあ! 最終的にはワルダに帰る君たちにはそんな影響ないよ!」
ファルザードが紙をにらみつける。
「ジーライル調べではアブー・アリーは殺されそう?」
「五分五分」
ジーライルも目を細めて紙片を覗き込みながら答えた。
「そこまですごくあくどいことをしている印象はないけど、もっと酷い奴がいっぱいいるってだけで、相対評価だよね。ヒザーナの宮中や街中で悪さをしたことはないから、まあ殺しはしないんじゃないかな、とふんでいる。でも自分の領地から毎年がっぽがっぽ税金集めをしてふところを肥やしているのは確かだ、そしてなかなか喜捨しないことも」
「ふうん」
紙をたたんで、ふところにしまった。
「で、僕らは具体的に何をすればいいって?」
ジーライルが「頼もしいね」と笑った。
「アブー・アリー邸に行って侵入してきた賊を生け捕りにしてほしい」
ギョクハンも馬から体を起こした。
「まずは情報の入手だ。そしてその情報をもとに明日以降組長の確保に乗り出してもらう」
「その、組長の確保までが仕事か」
「そうだね……、とりあえず今晩の事件だけ解決して賊を生け捕りにするところまでやってくれたら当局に引き継いでもいい。いや当局って僕役人じゃないけど。――最終的に、組長を押さえて潰すことができればいいんだから」
ジーライルは念押しして言った。
「アズィーズ様は寛大なお方だ。君たちにそこまでの無茶はさせないさ」
それが侮られているように感じたので、ギョクハンは言い切ってしまった。
「最後までやる」
ジーライルが「頼もしいよ!」と言う。
「まあ、何はともあれアブー・アリー邸だ。場所を教えるよ、今から向かってほしい」
「はーい」
「おう」
ファルザードが「で」と顔をしかめた。
「アズィーズ様は今何してるの?」
「なんと! お屋敷に帰って床屋を呼びました!」
「……そうだね、それは、そうしてください」
3
イディグナ河西岸、ヒザーナの北側の高台に、円城、という旧市街がある。文字どおり円形の城壁が巡らされていて、内側は城塞であり高級住宅街でもある。緊急時に円城の中心の宮殿へ召集される上級の武官や文官の住まいが軒を連ねているのだ。
その一角、財務に関わる上級書記アブー・アリーの住まいに、ギョクハンとファルザードはいた。
二階の奥の宝物庫である。
ここに、アブー・アリーが俸禄や領地からの税でこつこつと貯蓄して作った金塊の山と、いつどこで手に入れたのかファルザードの握り拳より大きい金剛石、彼の妻たちの所有物である数々の宝飾品が積まれていた。
そして、それを、アブー・アリーが部屋の隅から見つめている。
怒風組は財宝とアブー・アリーの命を狙ってこの部屋にやって来る――一同はそう確信していた。
室内には、アブー・アリーの他に、アズィーズの紹介で来た――というだけでなぜか通してもらえた、アズィーズが何者なのかますます怪しくなったがそれは今は脇に置いておいて――ギョクハンとファルザード、アブー・アリーの私兵の傭役軍人四人が待機している。ギョクハンと傭役軍人四人が力を合わせれば難なく迎撃できるだろうとふんでいた。
誰がいても、正々堂々略奪することにこだわる怒風組は、アブー・アリーがいる上に財宝が積まれているここにまっすぐ突っ込んでくるだろう。
読みどおり、その時はまるで待ち合わせの約束をしていたかのように訪れた。
部屋の外、正門の方から、非常事態を告げる警笛の音が聞こえてきた。怒風組が現れたのだ。なんと、正面玄関から入ってこようというのである。私兵だけを残してアブー・アリーの家族や女奴隷たちを避難させておいてよかった。
怒鳴り合う声が聞こえてくる。部屋の外で警護に当たっていた私兵たちと怒風組の刺客が乱闘騒ぎを起こしている証拠だ。しかし私兵たちには刺客を殺さずこの部屋に誘導するよう言いつけてある。
音がどんどん近づいてくる。
階段を駆け上がる足音がする。
こちらに迫ってくる。
ギョクハンと傭役軍人たちは棒を構えた。剣では斬り殺してしまうからだ。棒で撲殺してしまう可能性もなくはないが、使いようによっては昏倒させるだけで捕まえることもできる。
部屋の隅で、アブー・アリーとファルザードが身を寄せ合った。
あちらは大丈夫そうだ。
来た。
部屋の戸が蹴り開けられた。
突入してきたのは、黒い服をまとい、膝丈の筒袴をはいていて、黒い巻き布を巻いた、体格のいい男たちだった。
黒服の男たちが野太い声で怒鳴る。
「アブー・アリーを出せ」
傭役軍人たちが怒鳴り返す。
「そう簡単にやれるか」
黒服の男たちが部屋の奥、隅のほうを見やる。
「その豚がアブー・アリーだな」
恰幅のいいアブー・アリーの太い指のついた手が、ファルザードの華奢な体を抱き寄せた。ファルザードは真剣な顔をして黒服の男たちをにらみながらおとなしくしている。
「引き渡せ」
「やってみろ。力ずくでな!」
「望むところだ!」
入ってきた男は全部で七人だった。
彼らはいずれも短剣を手にしていた。
切っ先が黒く濡れている。何か毒物を塗っているのだろう。触れたらどういう症状が出るかわからない。あの刃に触れることなく倒さなければならない。
だが、向こうは刃渡りの短い剣で、こちらは腕より長い棒だ。長さ、つまり間合いなら分がある。
男たちが叫びながら突進してきた。
ギョクハンと四人の傭役軍人も駆け出した。
金塊が窓から差し入る月光で怪しい光を放つ中、両者が激突した。
ギョクハンの棒がぶつかってきた男の腹を打つ。
男がひるんだところで棒の尻で男の脇腹を突く。
男が倒れる。
油断はならない。
棒を大きく振って側頭部を思い切り叩いた。
派手な音がした。頭蓋骨が割れたかもしれないが一人ぐらいならいいだろう。
そのまま、隣の傭役軍人に襲いかかった男の背中を打つ。
男が硬直する。
そこを前から傭役軍人が踏むように蹴る。
胸を突かれて男が倒れた。
うめき声が聞こえてきた。そちらのほうを見ると、傭役軍人のうちの一人が左腕に刃を受けたようだ。その傷は浅そうだったが、左手が痙攣している。
黒服の男が、短剣の柄を両手で握って、傭役軍人の背中に突き立てようとする――
「させるか!」
ギョクハンは棒を床について軸にして、両足で横から黒服の男を蹴った。
黒服の男が吹っ飛んだ。
壁にぶち当たる。
あまりの衝撃だったためかゆっくり起き上がってきたところを、棒で胸を突いて黙らせた。男が床に崩れ落ちた。
傭役軍人たちが苦戦している。相手もそれなりの手練れらしい。私兵とはいえ職業軍人である傭役軍人たちとほぼ互角に戦えるとは、となると、怒風組とはいったい何者なのだろう。
考えているうちに、脇から黒い刃が突き出された。ギョクハンは身を引き、すんでのところでかわした。
黒服の男の蹴りが繰り出される。一瞬棒から右手を離し、右腕で受ける。なかなか重い。相手は訓練を受けた人間のように思える。
だからといって負ける気はしない。
棒を両手で握り締めた。槍を回旋させる要領で棒を振る。男が一歩後ろに跳びすさってかわす。
「アブー・アリーめ!」
怒鳴り声が聞こえてきた。
部屋の隅にいるアブー・アリーに向かって一人の男が刃を振りかざしながら突進してきていた。
あともう少しでアブー・アリーにたどりつく。
アブー・アリーが、抱えていたファルザードを後ろに放り出すかのように押し退けた。
そして、ファルザードをかばうように両足で立ち、身を低くして、黒服の男のふところに突っ込んだ。
黒服の男が後ろに突き飛ばされてよろめいた。
アブー・アリーの張り手が黒服の男の顔にめり込む。月明かりに白く小さなもの――歯が飛んでいった。
「テメエ、アブー・アリーじゃねぇな」
黒服の男の一人が言うと、アブー・アリー――になりすましていた、アブー・アリーとよく似た体格の男が、顔を覆っていた巻き布を取り去った。きれいに剃り上げられたひげのない顎、編み込まれた黒髪、鋭い目元――トゥラン人だ。
「気づくのが遅いぞ」
実は、彼はアブー・アリーの私兵の軍人奴隷の隊長なのだ。その服の下にある肉は本物のアブー・アリーと違って脂肪だけではない。分厚い脂の下に鎧のような筋肉がひしめいている。
「いつ入れ替わった!?」
「むざむざ貴様らの餌食になると思っておったのか」
私兵の隊長が足を肩幅に開いて床を踏み締めた。彼だけは素手だがトゥラン相撲の達人だ。両腕を広げたさまは翼を広げた猛禽のようだった。
待つことなく、黒服の男の左頬に張り手を喰らわせた。間を置かずに、右頬に張り手を叩き込んだ。黒服の男が昏倒した。
「主とそのご家族には昼間のうちに円城の外、イディグナ河の東岸の安全なところへ避難していただいた。貴様らがお会いすることはない」
「テメエ……っ」
「我々は自ら主を選んだ軍人だ。貴様らはどう思っているのか知らんが、我々にとってアブー・アリー様は互いに利用価値のある存在なのだ」
私兵の隊長の張り手が、別の黒服の男の顔面を突き飛ばした。
「義賊だと? 笑わせてくれるわ。犯罪者集団が正義を気取ってくれるな。我々には我々の道理があるのだ」
4
倒した黒服の男たちを傭役軍人たちが次々と捕縛していく。いまだに意識のない者がほとんどだが、意識を取り戻してもすでに遅い。両腕をきつく縛り上げられ、身動きが取れない。
「助かった。感謝する」
隊長がそう言ってギョクハンの肩を叩いた。それから、ファルザードの頭を撫でた。ファルザードが目を細めて上機嫌で笑う。
アブー・アリーをこの屋敷に残しているふりをして一室におびき出す作戦は、実は、ファルザードが考案したものだった。
曰く、こうである。
「宝物とアブー・アリー氏が別々だったら向こうも二手に分かれようとするんじゃない? 屋敷中荒らされ回るのも困るし、こちら側もあっちこっちに警備の人員を割かないといけなくなるし、全部一ヶ所にまとめておいて、アブー・アリー氏を囮にして返り討ちにするほうが楽じゃないかな。むしろ声高に、アブー・アリーここにあり、って言ったほうがいいよ」
すべて彼の言うとおりになったのだ。
「テメエらこんなことをして組長が黙ってると思うなよ」
意識を取り戻した黒服の男が言う。
「俺たち怒風組の結束はテメエらなんかよりずっと固い」
「何を根拠にそのようなことを言うのかね」
「テメエらしょせん飼い馴らされた狗じゃねぇか! 俺たちは自由だ! 俺たちは自分の意思で組長の下に集まってる」
「我々も自分の意思でアブー・アリー様の下にいるのだとは思わんかね」
隊長の眼光は鋭い。
「我々にも本気になればアブー・アリー様を殺す技術があることを忘れていないかね。我々が黙って従っているだけのように見えると?」
黒服の男は一瞬たじろいだ。けれどそれでも叫ぶところは威勢がよく、もはやあっぱれと言いたいくらいである。
「鎖につながれて餌を貰って生きることをよしとするのかよ。草原に帰りたいとか、気に入った仲間とつるみたいとか、そういうことは思わねぇのか」
「思わんな」
隊長の言葉に迷いやためらいはない。
「大切なのはきっかけではない。結果どうなったか、だ」
そして、「いいか」と言いながら、黒服の男の胸倉をつかんだ。
「自由とは何のために生きるかを自らの意思で選ぶことだ。任侠であり続ける貴様らと傭役軍人であり続ける我々の間に大きな違いはない。我々は傭役軍人を続けるという選択をしたのだ」
男はまだめげなかった。その粘り強さは称賛に値する。
「弱者から金を巻き上げ、弱者に配る気配はない。私腹を肥やして、富を独り占めする」
顎をしゃくって「見やがれこの金塊の数」と並べられた金塊の山を指す。
「このうちの一個でもありゃ飯が食える人間がいる。貴族のアブー・アリーにとっての一金貨と貧民窟の人間にとっての一金貨の重みは違ぇんだ。明日の食い物にも困っている人間がこの世の中にはいるんだよ」
彼の言うことも事実だ。これだけの金塊を屋敷の中に積める人間がほんの少しだと思う金を出すだけで明日の食事ができる貧民はたくさんいる。
「俺たちの帰りを待ってる人間がいる……! 俺たちはこんなところで挫けるわけにはいかねぇ! 日々を必死に生きてる人々の味方なんだ! この国に救いが必要な人間がいる限り俺たちは負けられねぇんだよ!」
「――アブー・アリー氏は」
半分隊長の後ろに隠れた状態で、ファルザードが口を開く。
「ここにある財産、ざっくり数えて百万金貨分を手放すことに決めたそうだよ。この金銀財宝がなくなっても、屋敷も土地もあるし、秋が来たら小麦や米の収入が、年が明けたら俸禄が手に入るからね。あんたたちの言うとおり、アブー・アリー氏は豊かで、少しぐらいお金を明け渡しても生活には困らないんだ」
黒服の男が「いまさら!」と声を荒げる。
「だからといって今までの罪が消えるわけじゃねぇんだ!」
「その罪ってなに? 正攻法でお金を稼ぐことが罪なの? 違法な手段で、ていうか冷静に考えてさ、殺人や強盗でお金を稼ぐあんたたちは本当に正義なの?」
ファルザードの問いかけに、彼は答えなかった。
「なんでわざわざ一介の文官から奪おうとするの。自分たちより弱そうだからでしょ。なんだったら武官や宰相を――もっと言えば、国で一番のお金持ちである皇帝を狙えば? しないでしょ? わかってるんでしょ、できないって」
「それは……っ」
「あるいは武器を取って戦わない文官は努力してないとでも思ってるの? どうして彼らが財産を築いたのか想像したことはない?」
男が押し黙る。
「楽をしてそうに見えるお金持ちがうらやましいならそう言いなよ」
ファルザードが一歩前に出た。黒服の男はうつむいた。
「どうせ配るなら……、俺たちにくれてもいいじゃねぇか……」
「ただの民間団体が困ってる人全員に平等に配れると思ってる?」
冷静な声で「思い上がらないで」と言う。
「富を民のみんなに平等に再配分できるのは公的機関である皇帝だけだよ。自分の身の回りの人間だけ助けて気持ちよくなるのは自己満足だ。なんであんたたちの自慰にお金を払わなきゃいけないんだ」
うつむいた。小声で続けた。
「それでも……、現状、今の皇帝はやってないからな……」
それ以上はもう誰も何も言わなかった。ギョクハンは溜息をついた。
5
かがり火がこうこうと燃えている。時折爆ぜる音がする。夜の闇の中は静かで他に何の音も聞こえてこない――はずだった。
金属のこすれ合う音が聞こえてくる。
その音はやがて足音をともない、かがり火の並ぶ中庭、その脇に続く列柱を抜け、彼が待つ前面開放広間の奥へ辿り着いた。
「申し上げます!」
首を垂れたのは若い兵士だ。鎖帷子の上に濃緑の外套をまとっている、ナハルの兵である。
若い兵士の視線の先に、彼が座っていた。
中年の男だ。巻き布で覆った褐色の髪にはわずかに白髪が交じり始めていて、伸ばして整えた顎ひげにも霜が降りている。眼光はぬらぬらと輝いており、ひげの中の薄い唇は嘲笑うように端を釣り上げていた。しかし体躯は筋骨隆々としており、彼がいまだカリーム騎士として衰えていないことを暗に示している。
彼は金で縁取った布張りの椅子に深く腰掛けている。右手には紅い葡萄酒の入った酒杯を持ち、左手で膝の上に眠る長毛のアシュラフ猫を撫でている。
「三機目の投石機の手配が完了いたしました! ムハッラム様のご指示を頂戴し次第投石を開始いたします!」
「大きな声を出すな。猫が起きてしまう」
男――ムハッラムが、背もたれに預けていた上体を起こした。兵士の声ではなく、ムハッラムが起きたことに反応したようだ。膝の上の猫が顔を上げた。そして我関せずの顔で床に下り、四肢を踏ん張ったまま背中を丸め尾を立てて伸びをして、そのうち夜の闇に消えていってしまった。ムハッラムが名残惜しそうに「ああ、かわい子ちゃん」と呟いた。
「ワルダ城からは何の音沙汰もないのかね」
そう言うと、別の兵士が前に進み出てきた。
「申し上げます! ございません! ですがワルダ城内における別の情報を入手いたしました!」
「ほう。聞こうか」
「城主、国主ハサンは確かに死亡した模様です! ワルダ城から逃亡した奴隷を捕獲して詰問したところ、ハサンの埋葬に立ち会ったとの情報を吐きました」
「ふむ。哀れな男だ、大事にしていた奴隷に逃げられてそんなことを言われるとは。古い友人として悲しく思う」
口ではそう言うが、ムハッラムは表情ひとつ変えなかった。
「ワルダ城の危機を察した者が数名逃げ出しております。逃げたのはいずれも国主ハサンに仕えていた若い男の家内奴隷です」
彼は声を上げて笑った。
「こういうのを、東方の宗教では因果応報と言うそうだ。ハサンめが、可愛がってきたツケを支払わされている。――その者たちはどうした?」
兵士がまた深く首を垂れ、ムハッラムの顔を見ずに答える。
「全員捕獲して別の棟に収容しております。拷問などせずとも情報をべらべらしゃべります」
「それで、城の中の状況はどうなっているかわかったかね」
「女国主が取り仕切っている模様です。女国主のもと、傭役軍人たちは団結して籠城戦を乗り切ろうと士気を高くしているとのよし」
「おお」
ムハッラムが恍惚とした表情を浮かべる。
「『勇敢なる月』……! なんとできた娘だ。何としてでも欲しい」
右手の酒杯を持ち上げて振った。
「あの娘は皇妃の器だ。必ず私のものにする」
二人の兵士がさらに深く首を垂れる。額が床につく。
「『勇敢なる月』に送った恋文の返事はまだか」
「破り捨てたとの情報が」
「生意気な!」
酒杯を床に叩きつけた。
「だが、いいだろう。私は寛大な男だ。それに女は少し生意気なところが可愛い。その花が散る時に泣くのを見るのが男の生きがいなのだ。大事に大事にしつけるのだ……」
そこで、三人目の兵士が入ってきました。
「ムハッラム様に申し上げます!」
「何だ」
「城を最初に抜け出した二人の情報がわかりました!」
それを聞くと、ムハッラムは「おっ」と呟いて三人目の兵士の顔を見た。
「一人目は傭役軍人のトゥラン人はギョクハンと申す者。年は十五、吊り目の少年で、細かく編み込んだ髪をひとつにまとめているそうです」
「十五とは、そんなに若いのか」
「それがどの逃亡奴隷も口を揃えて申します――ワルダでもっとも優秀な戦士、騎射では並ぶ者のない名手、近接戦でも二振りの刀を振るって敵兵を薙ぎ倒す猛者である、と」
ムハッラムは顎ひげを撫でた。
「その小僧が追わせていた兵士たちを返り討ちにしたのかね」
「おそらくは」
「気に食わん」
次に「もう一人は」と問う。三人目の兵士が首を垂れる。
「二人目は酒汲み奴隷のアシュラフ人はファルザードと申す者。年は十四、大きなあんず形の目の少年で、少し癖のある長い黒髪をしているそうです。なんでも、ハサンが一番可愛がっていた寵童とかで」
「おお、可哀想に。その子はどうしたかね、さぞかし恐ろしい思いをしていることであろう」
「それがどの逃亡奴隷も口を揃えて申します――ワルダでもっとも優秀な賢者、将棋では並ぶ者のない名手、ワルダ城の書物を読み尽くし異教徒ながら聖典をすべて暗唱する猛者である、と」
「おもしろくない」
ムハッラムは椅子に深く腰掛け直した。
「その坊やたちの足取りはつかめたのかね」
「申し訳ございません。ですがヒザーナに向かったことは判明しております」
「ヒザーナか。まずいぞ」
両手の指と指とを組み合わせる。
「腰抜けの皇帝はともかく、皇帝の息子にお目通りしようものならば厄介なことになる。奴は私が『勇敢なる月』を欲していると知ったら兵を率いて突っ込んでくるかもわからないからな。なにせ奴にとったら自分の嫁が狙われていることになる、面目を潰されたと思って怒るに違いないのだ。そうなればあの皇帝では息子を止められん」
かがり火の爆ぜる音がする。
「先回りしよう。皇帝にたどりつく前に始末する」
三人の兵士が深く深く礼をする。
「文箱を持て」
「お手紙をしたためられますか」
「皇帝の動きを止める最大の難関を押さえるのだ」
唇の端を、片方だけ、持ち上げた。
「大宰相にこのムハッラムを助けていただくことにしよう」
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第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
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