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狼の子と猫の子のアルフライラ 第9夜:おかえりなさい

 投石によって破壊され、内部の壁掛けや絨毯を露出した状態だが、それでもなおワルダ城は城内にいる者たちを守らんとそこに存在する。

 しかし今日も日が昇ってしまった。この地に照りつける太陽は苛酷だ。まして今のワルダ城は一部屋根を失っている。

 ザイナブは、崩れた壁にもたれながら、先日城内で産まれた赤子を抱いていた。城下町から避難してきた庶民の女が産んだのだ。とてもおとなしい子でなかなか声を上げない。

「泣いてもいいのですよ」

 極度の不安と緊張を強いられた母親からは母乳が満足に出ず、城の女たちが交代で山羊の乳を搾って与えている。だが、吸う力はとても弱い。この命は近々儚く消えるだろう。

 ザイナブは空を見上げた。
 蒼穹そうきゅうは高く澄み渡っている。今日も暑くなるだろう。

「ザイナブ様」

 侍女頭が小走りで駆け寄ってくる。

「こちらにいらっしゃいましたか」
「ずっとここにいましたよ」
「ずっと、でございますか」

 鋭い声で問いかけられた。

「昨夜はよくお休みになられませんでしたか」

 ザイナブは微笑むだけで何も言わなかった。

「あなた様が子守り女のようなことをなさらずとも」
「いいえ、私が望んで抱かせてもらったのです」

 左腕で抱えて、右手で頭を撫でる。

「ワルダ城で生まれた子です。このワルダの宝です」

 呟いてから、顔を上げた。その引き締まった表情は『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』の二つ名にたがわぬ力強さと冷静さを備えている。

「すぐに城内にいるすべての武官と文官を集めなさい」

 侍女頭が深く首を垂れ、「かしこまりました」と告げてその場を離れていった。

 大きな岩の転がる中庭、ひしゃげて水がまっすぐ出なくなった噴水の見える列柱の回廊に、多くの人間が詰めている。ワルダ城に仕える書記カーティブたちと傭役軍人マムルークたちだ。急な召集だったが、ザイナブが自分たちを屋根のあるところに集めたことで慈悲を感じたらしく、皆彼女を褒めたたえていた。

「きっと総攻撃だ」

 若い傭役軍人マムルークが逸る声で言う。

「とうとうナハルの連中に目に物を見せてやる日が来たんだ。俺はやるぞ」

 年上の傭役軍人マムルークたちは何も言わなかった。彼らは事情を知っていたからだ。それでも少年たちの希望の芽を自らの独断で摘んではならぬと唇を引き結んだ。

 中庭の奥、前面開放広間イーワーンにザイナブが姿を見せた。いつもと変わらぬ黒い外套マントで、その花のかんばせは外に露出していた。滑らかな肌も輝く黒い瞳も、何ひとつ平和だった頃と変わらない。彼女のそんな様子は、そこにいた皆を安堵させた。

 ザイナブが、前面開放広間イーワーンの奥、かつて城主である国主アミールハサンが座っていた席に腰を下ろした。

「皆の者、私の声が聞こえるところに移動して、各自座りなさい」

 言われるがまま、前のほうにいた面々が広間の中に移動して、ザイナブの正面に座った。後ろのほうにいた面々も広間の中が見えるあたりで立ち止まってザイナブを眺めた。

「前置きは省略します。単刀直入にこれからの話をします」

 全員が、息を呑む。

 ザイナブは、あくまで冷静だった。

「ワルダは本日をもってナハルに降伏します」

 一瞬、時が、止まった。

 後ろのほうで立っていたある年配の書記カーティブがその場に崩れ落ちた。外聞構わず大きな声を上げて子供のように泣き出した。その涙がさざなみのように部屋の中全体へ広がった。

「いえ、まだです!」

 若い傭役軍人マムルークたちが駆け寄る。

「俺たちはまだやれます!」
「今からでも遅くありません!」
「総攻撃のご命令を!」
「最後まで戦います!」

 ザイナブは決して頷かなかった。厳しい顔と声で「なりません」と言った。

「命を無駄に捨てるような真似は禁じます」
「いえ、負けません! 絶対に生きて帰ってみせます」
「禁じます。何度も言わせるのではありません」

 少年たちもその場で膝を折った。

「ではせめてザイナブ様をお連れしてここを脱出します。おっしゃるとおり、生きてこそです。ザイナブ様が生きていれば俺たちは何度でも立ち上がれます」

 懇願するように言う言葉を、彼女はまたもや拒絶した。

「私はナハルに下ります」

 その瞳には固い決意が見える。

「私がムハッラムのもとに行くまでの間、少しは時間を稼げるでしょう。その隙にお前たちは城内にいる人間をできる限り外に逃がしなさい。一人でも多くを」

 声は確かで悲壮感すら感じさせてくれない。

「私のために戦うと言うのならば、今は生きて逃げて雌伏の時を過ごすのです。やがていずれきたるべき時に結集しましょう。あなたたちさえいればワルダは何度でも復活します」
「ザイナブ様……」
「私がいなくても。土地を離れても。薔薇の都ワルダは、不滅です」

 涙をすする声はさらに広がった。
 ザイナブは決して表情を変えなかった。

「ですが……、ですが――」

 年かさの傭役軍人マムルークが、呟くように言う。

「ギョクハンは……、あやつはいかが致せば。あやつは、今もなお、皇帝スルタンにお会いするために戦っているのではござらぬか」

 そばにいた傭役軍人マムルークの青年が、「そうだ、ギョクハンが」と声を出す。

「ザイナブ様は、ギョクハンが帰ってきた時のために、ここでお待ちくださるのではなかったのですか」

 ザイナブは落ち着いた声で言った。

「今日で一ヵ月が経ちました。その間音沙汰はありませんでした。これ以上待っては城内に死者が出ます。感傷で刻限を引き延ばすわけにはまいりません」
「でも――」
「いいのです」

 彼女は初めて、大きく息を吐いた。そして、少し表情を緩めた。

「生きていてくれれば。あの子たち二人が――ギョクハンとファルザードがどこか遠くで生きて無事に大人になってくれるのならば、私はそれでも構いません」

 年かさの傭役軍人マムルークが声を荒げる。

「ギョクハンはそのような恩知らずではござらぬ」
「知っていますよ。あの二人はいつか必ずここに帰ってきてワルダを再興してくれるでしょう。それが私にとっての希望です。私とて、今もまだ、あの子たちがいつか戻ってくると信じているのです。ただ事実として、今、いない。それだけのことです」

 全員が首を垂れ、沈黙した。

 ザイナブが立ち上がる。

「さあ、皆の者、泣いている場合ではありません。立ちなさい。すぐに支度をするのです。私はこれからムハッラムに手紙を――」

 その時だった。

 玄関のほうから、重い金属がこすれ合う音――鎖帷子をまとったまま走る音が聞こえてきた。
 全員が音のするほうを向いた。
 城壁を守っていた傭役軍人マムルークが、中庭に転がり込んでいた。

「ザイナブ様!」
「ここにおります。どうしましたか」

 ザイナブが中庭に歩み出ながら問いかけた。
 入ってきた傭役軍人マムルークが、興奮と歓喜を抑えきれぬ笑顔で叫んだ。

「援軍です! 援軍が見えます!」

 ざわめきが広がった。

「遠くから皇帝スルタン直属軍と思われる集団がものすごい勢いで迫ってきています!」
「確認します」

 ザイナブが走って列柱を行き、階段を駆け上がった。その場にいた全員が後に続いた。

 屋上にたどりつく頃には、すでに人馬の声が城の郊外まで押し寄せてきていた。その数一万騎はあろうかという大軍だ。

 黒い旗がはためいていた。黒地に金の刺繍――皇帝スルタン直属軍の証だ。

 勝鬨かちどきが聞こえる。

「間に合った……!」

 誰かがそう言った。
 途端、緊張の糸が切れたのか、ザイナブが一歩後ろによろめいた。周囲にいた人間が総出で受け止めて彼女を床に座らせた。

「全軍突撃!!」

 アズィーズのその号令を聞き、皇帝スルタン軍――皇帝スルタン直属軍および連合諸国の軍団が動いた。人馬の声が轟く。

 ワルダ城を包囲していたナハル兵を、背後から叩きのめす。

 振り向くようにこちらへ向かってくるナハル兵に、アズィーズの軍隊は雨のごとく矢を注いだ。ナハル兵が次々と倒れていく。地に紅い液体が流れにじみ沁み込んでいく。

 ひづめが舞い上げる猛烈な砂塵が空を覆い尽くす。太陽の光がかすんだ。

 ナハル軍に対して、皇帝スルタン軍は左右から覆いかぶさるように攻め込んだ。

 人の雄叫び、馬のいななく声、剣の金属音、矢が空気を切り裂く音――戦場の音。

 ここが、本物の、自分の舞台だ。

 帰ってきた。血沸き肉躍る。

 ギョクハンは、双刀を、抜いた。

「ギョクハン」

 アズィーズが後ろから声をかける。そのアズィーズも、左手に手綱を握ったまま、右手には槍を持っていた。

「今度こそ。お前の本領発揮だ。まっすぐ行け。そして城門へ向かえ。ワルダ軍と皇帝スルタン軍とでナハル軍を挟み撃ちする、ワルダ軍が出やすいように花道を整えてやれ」
「承知」
「行け!」

 黒い愛馬で駆け出した。

 今、馬とひとつになる。
 自分は走っている。
 風になる。
 頬を裂くように流れる空気が心地よい。

 ナハル兵は、騎馬で猛烈な勢いで突っ込んでくるギョクハンと皇帝スルタン傭役軍人マムルークたちに、恐れをなしたようだ。背を向けて逃げ始めた。
 敵に背を向けて逃げる人間が勇猛果敢な騎馬民族の戦士に敵うわけがない。

 右手の刀を振った。ある歩兵の首を後ろから刎ね飛ばした。
 左手の刀を振った。また別の歩兵の首を後ろから刎ね飛ばした。
 間を置かず次の兵士を狙った。今度は手前へ引くように刀を薙いだ。背中を斬る、というよりは、背骨を叩き折った。

 ナハル軍の濃緑の外套マントをまとった騎馬兵が向かってきた。
 その兵士はギョクハンに向かって矢を放とうとしていた。
 しかし、立ち止まって弓を構えている者の矢がギョクハンを射止めることはない。
 身を低くしてかわして、すぐそばまで飛び込んでから腹を叩き斬った。

 次の騎兵は剣を抜いて突進してきた。
 やっと気骨のある者に出会ったようだ。

 だがギョクハンの敵ではない。

 敵の剣と右手の刀がぶつかり合った。剣が弾け飛んだ。左手の刀を斜め下から振り上げた。首が飛び、宙に紅い噴水が上がった。

 ワルダ城の裏手に、ワルダ城の裏門から城内の人間が出てこないよう見張っている数人のナハル兵が立っていた。

 ジーライルは音もなくある一人の兵士の背後に立った。

 腕を伸ばす。
 首に肘を絡ませる。
 後ろに引いて、締め上げる。

 窒息した兵士が倒れた。

「貴様何奴!?」
「絨毯商人です!」

 向かってきた一人の兵士の顎に掌底を叩きつける。昏倒する。後ろに崩れ落ちる。

 別の兵士には首を狙って蹴りを入れる。兜を吹っ飛ばして倒れる。

 さらに別の兵士には腹に突進した。骨盤をつかまえると担ぎ上げるようにして持ち上げ、後ろに投げ飛ばした。頭から落ち、首が曲がった。

 短剣を握って叫びながら突っ込んできた兵士の手首を横から手刀で打つ。短剣が落ちたところで、金的に向かって思い切り蹴りをくらわせた。

 転がり落ちていた兜を拾い、他の兵士の顔面に向かって投げつけた。見事ぶつかり、その兵士も目を押さえてしゃがみ込んだ。低い位置に来た腹を前から蹴る。

「おい、ジーライルに手柄を全部取られるぞ!」
「行け行け! 俺らもできることを示せ!」

 アズィーズの私兵である傭役軍人マムルークたちが慌てて飛び出した。そして、ジーライルがしているように兵士たちと取っ組み合い始めた。

 その様子を岩陰から見ていたファルザードは、ここまで一緒に来た白馬の首を撫でつつ、「むちゃくちゃだよお」と呟いた。

 あと二、三人で片づく、というところで、ジーライルがファルザードに駆け寄ってきた。

「さぁ行こう! 裏門の兵士たちに僕らを通すよう言っておくれ!」

 ファルザードは頷いた。

 白馬にまたがった。裏門へ続く狭い坂道を駆け上がった。その後ろをジーライルも栗毛の馬で追いかけてきた。

 様子を見下ろしていたワルダ兵たちが「おい!」と叫んだ。

「ファルザード!? ファルザードじゃないか!」
「お久しぶりです! 開けてください! 戻ってきました、ザイナブ様に会わせてください!」

 ワルダ兵たちが「後ろの方々は!?」と問いかける。

「我々はアズィーズ皇太子殿下の遣いの者! 皆さんをお助けに来た、敵ではない!」

 ジーライルがそう答えると、ワルダ兵たちは顔を見合わせて頷いた。

 裏の城門が開く。
 ファルザードとアズィーズの私兵たちは門をくぐり、ワルダ城内に到達した。

 一万騎の皇帝スルタン軍に蹴散らされ、ナハル兵は壊滅的な打撃を受けた。

「開門! 開門!」

 それまで固く閉ざされていたワルダ城の正門が開く。城壁の中、無人になった街並みは寒々しかったが、ギョクハンは目をくれずにまっすぐ城へ向かった。

 もう少しで、ザイナブに、会える。

 忘れもしない、ワルダ城の回廊を行く。破壊された城は痛々しく、転がる大岩には不安が募る。

 それでもワルダ城はまだワルダ城だ。自分たちはここで暮らしていたのだ。たったひと月だったのに懐かしく感じられる。そして満たされる。

 ファルザードは振り向かなかった。一目散に走った。

 あと少しで、ザイナブに、会える。

 二階の、大広間の前に辿り着いた。

 ギョクハンも、ファルザードも、だ。二人が同時に到着したことに気づいて、二人とも立ち止まり、顔を見合わせて、笑ってしまった。

 左の扉をファルザードが、右の扉をギョクハンが、押した。扉が、ゆっくり、開いた。

 部屋の中央、窓掛けがたなびき、露台バルコニーの向こう側に見える蒼穹を背景にして、ザイナブが、立っていた。

 やっと、会えた。

 ザイナブは、別れた時と何ら変わらぬ笑顔で、微笑んでいた。

「ギョクハン、ファルザード」

 間に合った。

「おかえりなさい」

 ザイナブが両腕を広げた。

 ギョクハンもファルザードも飛びついた。ザイナブの左腕にギョクハンが、ザイナブの右腕にファルザードが抱かれた。

 ザイナブの香のいい匂いがする。柔らかい。温かい。

 生きている。

 嬉しい。

「ただいま戻りました」

「よく帰ってきましたね」

 ザイナブが二人の耳元で囁くように言う。二人がそれぞれに「はい」と答える。

「お会いしたかったです」

 ファルザードの声に涙がにじんでいる。

「お会いしたかったです……!」

 ギョクハンは言葉が出なかった。口を開いたら泣いてしまいそうな気がしたからだ。自分は強い軍人の男だから、人前で涙を見せてはいけない。奥歯を噛み締めて耐えた。

 でも嬉しかった。

 ザイナブが、元気で、生きて、ワルダ城にいてくれる。

 彼女は自分たちの帰りを待っていてくれたのだ。

 今までのすべてが報われた気がした。

 たくさんのことがあった。
 ワルダを出てすぐナハル兵に襲われたこと、砂漠で盗賊に遭遇したこと、シャジャラで逃亡奴隷と戦わされたこと、ヒザーナで怒風組からアブー・アリーを守ったこと、同じく怒風組の組長であるケレベクと取っ組み合ったこと、大宰相ワズィールウスマーンを捕まえたこと――大変だと思ったこともあったが、何もかも今日この瞬間のためにあったのだと思えば何のこともなかった。

「顔を見せてください」

 そう言って、ザイナブが少し身を離した。ギョクハンもファルザードもまっすぐ立ち、ザイナブと向き合った。

 ザイナブの華奢な手、細く長い指が、伸ばされる。右手でファルザードの左頬を、左手でファルザードの右頬を包む。

「よかった。無事ですね」

 ファルザードが「はい」と頷いた。彼の目から大粒の涙が次から次へとしたたり落ちていった。

「怪我はしませんでしたか」
「はい」
「病気は? 風邪などひきませんでしたか」
「はい」
「自分のからだを安売りしたりなどしていませんね」
「はい」
「ギョクとは仲良くなれましたか」
「はい!」

 額と額を重ねるように軽くぶつけて、「よろしい」と言った。

 次に、ザイナブはギョクハンのほうを向いた。右手でギョクハンの左頬を、左手でギョクハンの右頬を包んだ。

「お前も無事ですね。本当によかった」

 ギョクハンはしばらくの間黙って、間を置いてから「はい」と頷いた。目の奥が熱い。

「怪我はしませんでしたか」
「はい」
「ちゃんと食事や睡眠はとれましたか」
「はい」
「無茶な喧嘩などしていませんね」
「それは……、いや、でも、全部勝ったので大丈夫です」
「こら!」

 ザイナブが笑う。

「ファルとは仲良くなれましたか」
「はい!」

 ギョクハンとも、額と額を重ねるようにして軽くぶつけ合ってから、「よろしい」と言った。

 手を離して、また、二人とまっすぐ向き合う。

「信じていました。お前たちは必ずやってくれると。ギョクハンの武勇、ファルザードの知恵。そのふたつがひとつになれば何事も解決できると私は確信していました」

 そして、「でも」と言って、自分の腹の前で両手の指と指を組んだ。

「心配はしていました。お前たちに無理をさせていないかと。必ず帰ってくるとは思っていましたが、いつ、どんな形で帰ってくるかはわからない。そういうことは、考えていました」
「ザイナブ様……!」
「そんなこと!」
「すべて杞憂に終わりましたね。よかったです。――手を出しなさい」

 ギョクハンもファルザードも、右腕を伸ばし、右手をザイナブに差し出した。ザイナブは二人の手をまとめて取って、自分の両手を重ねて、三人分、よっつの手をひとつにした。

「ありがとうございます」

 胸の奥に温かいものが広がる。

「私は、お前たちによって、救われました」

 歓喜が波のように押し寄せる。

「これからも。二人とも、元気で。二人で、協力して。ワルダで、がんばりなさい」
「はい!」

 後ろから声をかけられた。

「そろそろよろしいか」

 我に返って振り向くと、そこにアズィーズとジーライルが立っていた。
 ギョクハンは左に、ファルザードは右に、一歩ずつ引いた。
 アズィーズが前に進み出てくる。
 アズィーズとザイナブが、向き合う。

「貴女が『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』ザイナブ姫か」

 ザイナブは「はい」と頷いた。

「お初にお目にかかります、アズィーズ皇子。私がザイナブ・ビント・ハサンでございます。勇敢などと畏れ多い、ただ強情なだけの女でございますれば」
「貴女の活躍は多数お聞きしている」
「お耳に入れるほどのことでもございませんでしたでしょう。私はただ、ワルダにいる者を安心させるために耐えていただけです」

 アズィーズが、「だが」と言って、穏やかな表情でギョクハンとファルザードを見る。

「このように立派な従者が尊崇する主というものはなべて大人物なんだ」

 胸が高鳴った。

「畏れ入ります。この子たちは、私にとっては、百万金貨ディナールでもかえがたい宝物でございます」
「まとめて引き取りたい」

 アズィーズが自分の鎧と襟の間に手を突っ込んだ。そして、胸元から薄い小さな箱を取り出した。
 自らの手で開ける。
 箱の中では、磨き抜かれた大きな金剛石ダイヤモンドがぶら下がっている金の鎖が輝いていた。女性向けの首飾りだ。

「父からの押しつけではなく、改めて、私の口から言わせてくれ。結婚してほしい」

 ファルザードが「ザイナブ様の婚約者ってアズィーズ様だったのかよ!」と声を荒げた。ギョクハンも「おい待てよふざけんな」と叫んだ。ジーライルが人差し指を自分の唇の前で立てて「しーっ!」とたしなめた。

 ザイナブはしばらく黙っていた。光り輝く金剛石ダイヤモンドを見つめていた。
 ややして、顔を上げ、まっすぐアズィーズを見つめた。

「そうご命令なさるならば」

 その声は、挑むようだ。

「このたびは派兵、まことにありがとうございます。ここに貴方様がこうしていらっしゃるということは、外はもう鎮火するところなのでしょう。じきにワルダに平和が戻ります。貴方様の、そして皇帝スルタンサラーフ陛下のおかげです。深く感謝いたします」

 ザイナブは、力強い声で言った。

「その謝礼として私をお求めならば。いざ。参りましょう」

 アズィーズが苦笑した。

「戦に行くみたいだ」
「戦です。女にとっては」

 アズィーズは箱のふたを閉じた。右手で箱を持ったまま、左手でザイナブの細い右手首を持ち、ゆっくり、優しく、引いた。そして、ザイナブの手に、箱を押しつけた。

「そうしたら、貴女の身柄は手に入るかもしれないが、貴女の心は永遠に手に入らないだろう。私は家族には精神的なつながりも求めている。だから、今日は、ここで、帰ってもいい」

 すると、ザイナブは少しだけ表情を緩めて、箱を――金剛石ダイヤモンドの首飾りを、受け取った。

「貴女を諦めるつもりはない。貴女ほど次期皇妃にふさわしい女性はいないと思っているからね。だが、きっと、今はまだ早いんだ」

 アズィーズは、ザイナブから手を離した。

「結婚を前提に交際しよう。私は帝都から貴女に手紙を書く。これからは貴女に届くだろう。読んでくれるね? 私たちには互いを知る時間が必要だ」

 ザイナブは、今度こそ、頷いた。

「お受けします。お手紙を受け取るたびにお返事をしたためましょう」

 ジーライルが「よし!」と拳を握り締めた。

 アズィーズが振り向く。ギョクハンとファルザードの顔を見て、「君たち、おもしろくなさそうだね」と言う。二人そろって「ぜんぜんおもしろくねーよ」と言ってしまった。

「王子様がお姫様を助けて、城は平和を取り戻した。めでたしめでたしだ!」
「何にもめでたくねぇよ!」
「勝手にシメないでよ! うわあん!」



 総崩れになったナハル軍の本陣、中央の椅子に座っていたムハッラムが、地面に酒杯を叩きつけた。地面に葡萄酒の紅い色が広がった。

「アズィーズめ……! 何から何まで私の邪魔をしてくれよって!」

 無様に怒鳴る。

「大宰相ワズィールからの連絡はないのか!?」

 周りにいた兵士たちは首を垂れて沈黙を続けた。

「逃げましょう、国主アミール。じきにここにも敵兵が押し寄せてきます」
「うむ、うむ……やむを得まい」

 ある兵士が問うた。

「撤兵はいかがいたしましょう」
「捨て置け」

 ムハッラムは血走った目で答えた。

「最後の一兵たりとも戦い続けさせる。名もない一介の兵士と私の命を天秤にかけるようなことがあってはならん」
「しかし――」
「将とは生きてこそだ。私が生きていればナハルは不滅なのだ、いいな!?」
「残念だなぁ」

 声をかけてきた兵士が、兜を捨てた。

「そーいうこと言う人間はアズィーズ様はお好きでないよ」

 兜の下から見えた顔を見て、ムハッラムは目を丸くした。

「貴様、アズィーズの奴隷の――」
「覚えててもらえて光栄でーっす」

 大きく一歩を踏み込んだ。
 周りの兵士たちは何の対応も取れなかった。
 右手を広げてムハッラムの顔に向かって突き出した。ムハッラムの右目に親指が、左目に小指が突き刺さった。
 ムハッラムの絶叫が響いた。

「ここで死んでもらうね。あんたが戦死してナハル軍が解体されたら僕らはナハルの都を包囲しなくてもよくなるんで。無駄な人死にはアズィーズ様は望まれない」

 彼が「ねぇみんな」と問いかけると、周囲で唖然としていた兵士たちが息を呑んだ。

「こいつが死ねば、アズィーズ皇子は俺たちの家族には手を出さないんだな」
「やっちまうか……! こんな奴にこれ以上ついていけない!」
「負けるとわかってて兵士を戦わせ続けるような奴だぞ! 殺せ!」

 ムハッラムが「やめろ、やめろ!」と叫んだが、兵士たちはムハッラムに向けて槍を構えた。

 今朝、初夏にしては珍しく雨が降った。イディグナ河の水かさが増すのは氾濫の心配があって少しだけ気にかかったが、残虐な太陽がなりを潜め穏やかな日を過ごせるのは実にありがたいことだ。城下町の子供ははしゃいで通りを転げ回った。

 すでに乾燥したワルダ城の柱廊、列柱と列柱の間に座り込んで、ギョクハンとファルザードは並んで巻き物シュワルマを食べていた。羊肉の挽き肉と野菜を薄焼き麺麩パンで巻いたものだ。おやつである。

「いやー、なんか、平和になったね」

 飲み込んでから、ファルザードが言う。

「そうだな。俺、今、平和ボケしてる」

 言ってから、ギョクハンは巻き物シュワルマをかじった。

「ずーっとばたばたしてたから、何をしたらいいのかわからなくて、二、三日ずっと寝てたよ」
「俺は用もなくカラと砂漠を走り回ってた。何も考えず、行き先も決めず、適当に」
「よかったね、やっと野に解き放たれたんだ」
「お前俺のこと何だと思ってるんだ?」

 二人で空を見上げる。高いところは風が強いのか雲がどんどん流れていく。夕方には快晴に戻るだろう。

 あれから一週間が過ぎた。

 ワルダ城はナハル軍に破壊されてしまったが、跡形もなく砕け散ったわけでもなかった。ザイナブと城に住まう使用人たちは城の中で一時的な引っ越しをして生活を続けていた。
 再建工事もすでに昨日始まったところだ。ギョクハンとファルザードが皇帝《スルタン》から賜った百万金貨ディナールずつ合計二百万金貨ディナールが役に立った。これで人夫を掻き集めて急がせている。見積もりだと冬には間に合うらしい。
 夏の酷暑をどうやってしのぐかが目下の問題だが、アズィーズがザイナブにはヒザーナの郊外の離宮を提供してくれると言っている。ちなみにギョクハンとファルザードは「行ったら何をされるかわかりません」と大反対しているが、アズィーズが聞くわけがない。

 ナハル軍は皇帝スルタン軍によって壊滅した。叩き潰されたナハル軍は、しばらくは復活しなさそうである。

 アズィーズはあのあとナハルの都にも向かったようだ。しかし、ナハルの住民はほぼ丸ごと保護され、皇帝スルタンの名において生活がもとに戻るまでの施しを受けることになった。全部アズィーズの采配だ。

 アズィーズといえば、皇帝スルタン軍が一万騎の大軍に膨れ上がったのも、彼が周辺諸国を漫遊して国主アミールたちを口説き落としていたかららしい。本当はただ砂漠を放浪していたわけではなかったのだ。有能であることに腹が立つ。

 だが、彼が皇帝スルタンになれば世は確実に変わるだろう。

 昨日、ザイナブあてに初めての手紙が届いた。鬱金香チューリップの押し花が入っていたそうだ。ギョクハンとファルザードはあまりの気障きざさが恥ずかしくてのたうち回った。

 ギョクハンもファルザードも、顔を合わせることはあったが、なんとなく時間が取れず、今になるまで二人きりになることはなかった。ギョクハンは傭役軍人マムルークとしての日常に戻ろうとしている。ファルザードはザイナブが彼のための新しい職場を探して城内を連れ回しているらしい。やっと今日、こうして二人で午後を過ごせることになった。

「ナハルのことだけどさ」

 麺麩パンでできた皮から葉を引っ張り出し、食べてから、ファルザードが言う。

「ムハッラム、聞いた?」

 ギョクハンは頷いた。

「ああ。死んだんだってな」
「一応、戦の中での負傷がもとで、っていう、戦死みたいな扱いになってるらしいけど――僕、心当たりがあるんだよね」
「俺も、なんとなく、わかる」

 声を揃えて「ジーライルだ」と言う。

「アズィーズ様にとって邪魔だったから、あいつが始末したんだ」
「やっぱりギョクもそう思う?」
「それがアズィーズ様の命令なのかジーライルの独断なのかはわからないけどな。あいつ、なんとなく、それくらい、やりそう。ナハル軍の陣中に忍び込むなんて簡単だと思う」
「僕もそんな気がしてる。もういいけどね。ナハルは皇帝スルタン直轄領になるってさ。ワルダの――帝国の脅威じゃなくなった。結果としてそういうことになったんだから、深追いする必要ないかな、って」

 ワルダに帰ってきたのだ。ワルダの外のことはそんなに興味がない。

 勉強しなければならない、とは、思う。今回の旅で自分は知らないことがたくさんあるのを学んだ。もっと学んでいかなければならない。もっと外に目を向けねばならない。

 しかし、今は、帰ってきたばかりなのだ。

 世界は広い。まだまだ多くの正義と悪が眠っている。

 知らなければならない。

 ただ、今は、ファルザードとのんびり巻き物シュワルマを食べていたい。

「ギョクはこれからどうするの?」
「今までと変わらない」

 ギョクハンは答えた。
「俺は傭役軍人マムルークを続けたい。傭役軍人マムルークはただ金で売り買いされるだけじゃない、誇り高い戦士の仕事だからな。体を鍛えて、腕を磨いて、有事に備える。それから交代で城壁を見張る。ザイナブ様がお出かけの時は護衛をする。そういう毎日に戻る」
「そっか」
「でも今回の件の褒美としてちょっと昇進するらしい。部下ができて給金が増える。まあ、その部下もみんな俺より年上だから、部下というよりお目付け役みたいな感じでちょっともやもやするけど」
「よかったね。やっぱり強い傭役軍人マムルークって出世するんだなあ、十年後には高級武官になってそう」
「どうだか。ザイナブ様がヒザーナの宮殿に行くことになったら護衛としてついていくかもしれないし。俺はワルダというよりザイナブ様をお守りしたいからな」
「それだけど」

 一度口の中のものを飲み込む。

「ザイナブ様、ずっとワルダ城にいらっしゃるかもしれないよ」
「どういうことだ?」
「アズィーズ様はハサン様の死後も本領を安堵すると手紙に書いていたらしい。ワルダ城城主はザイナブ様になる。女国主アミールの誕生だ」
「って言ったって、じゃあ、結婚の話はどうなるんだよ」
「それも並行して進めるらしいから、どうなるんだろうね。アズィーズ様の通い婚? 夫婦関係ってよくわからないなあ。いずれにしてもワルダ城城主と皇妃を兼任なさるお考えみたいだ」

 ギョクハンは「へー」と言いながら巻き物シュワルマをかじった。とてつもなく安心してしまったが、口には出さなかった。戦士の男はそういうことは言わないのである。

「お前は?」

 ファルザードが振り向く。

「お前は、これから先、何をやるんだ?」

 ハサンは、死んだのだ。ファルザードは重い務めから解放された。しかしそれは同時に仕事がなくなったということでもある。最悪城の外に出されるかもしれない――そう思っていたのだ。

 ファルザードが、微笑んだ。

「当面はザイナブ様の小姓をするよ。一、二年くらいかな? とりあえず十五まではザイナブ様がお手元で保護してくださるとのことだよ」

 ギョクハンはファルザードに悟られないよう息を吐いた。

「それで……、それから」

 目を細める。

「ザイナブ様は、僕を書記カーティブにするとおっしゃった」

 ギョクハンも心が沸き立った。

「解放奴隷になって、ザイナブ様のおそばで文官として働けるんだ。勉強して、試験に通らなきゃ、だけどね。いずれにせよ僕はもう奴隷ではなくなる。僕は自由人の身分を得て、僕の意思でザイナブ様にお仕えするんだ」
「お前なら余裕だろ」
「そうだといいんだけどなあ」

 しかし異教徒の身で書記カーティブになるなら改宗か人頭税ジズヤの支払いが求められるだろう。それはファルザードにとって過酷なことかもしれない。

 だが、彼なら乗り切る気がした。彼は強い。加えて、ザイナブが導いてくれるはずだ。ギョクハンはもう心配しない。

 この城で、ずっと、ザイナブとファルザードと、生きていくことができる。ギョクハンにとっては、それは何よりもの褒美だった。

 今、幸せだ。

「シャジャラの五万金貨ディナール、いつ取りに行く?」
「どうしようかな。ジーライルに預けて増やしてもらうっていう手もあるよね」
「あいつに渡すのかよ……俺ちょっと不安だな」
「まあ、いいさ。何にも急いじゃいないんだし、ゆっくり考えようよ」
「そうだな。急いでない。これからゆっくり考えるか」

 雲の隙間から日の光が下りてきた。その神々しさと言ったら、ギョクハンの語彙力では言い尽くせない。美しいワルダの午後、平和なひと時だ。
 何よりも尊い。

 この平和が、とこしえに続きますように。

<完>

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第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
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第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3


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