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狼の子と猫の子のアルフライラ 第5夜:帝都ヒザーナにご到着!
1
何の困難もなく二日半で帝都ヒザーナについてしまった。
まだジーライルをいぶかしんでいたギョクハンだったが、こうして事件事故もなくヒザーナに案内してもらうと、警戒して緊張しているのが間違いのような気がしてくる。
騙されてはいけない。まだほだされるには早い。
しかし、ヒザーナの一番大きな隊商宿、中でも追加料金を取られるほどの上等な食堂に案内されて「おごるよ」と言われてしまうと、食べ盛りの少年の心はぐらぐらと揺れた。
絨毯の上に並べられた豪勢な料理――焼きたての香ばしい匂いが漂う麺麩、水分たっぷりの鮮やかな刻み野菜の盛り合わせ、ひよこ豆の温かい汁物、ほうれん草の冷製汁物、川魚の焼き物、香辛料が香り高い炊き込み飯、野菜と羊肉の挽き肉を薄焼き麺麩で巻いた巻き物、磨り潰した豆の練り物、山羊の乾酪《チーズ》――中でもとりわけ炭火の香り漂う肉汁たっぷりの巨大な炭焼き肉の山盛り――
ギョクハンは食べた。とにかく食べた。胃を満たすまでひたすら食べ続けた。喉をひよこ豆で潤しほうれん草で潤し肉汁で潤した。食べるというより飲んだ。次から次へと口に入っていった。
隣のファルザードも、だ。その細い体のどこに入っていくのか黙々と肉を食べ続けた。麺麩もしっかり食べた。刻み野菜の盛り合わせも一人で二人前を平らげた。
「……君たち、よく食べるねぇ」
いつもへらへら笑っていたジーライルが、初めて苦虫を噛み潰したような顔をした。
うまい。
甜瓜もすするように食べ、小麦粉と砕いた開心果を練り込んでかたまりにした焼き菓子も口に放り込んで、ようやくひと息ついた。
「あの……、ギョクくんで三人前、ファルちゃんで二人前――」
「ごちそうさまでした!」
「お腹いっぱいになった……? よ、よかった……ね……」
ジーライルが蒼い顔で「そんなに飢えてたの……」と呟く。
「ひとの金で食う飯はうまいなあ」
「僕、羊、だいすきー!」
「うっそーん……僕めちゃくちゃ軽率なこと言った……」
それでも支払う気はあるらしい。震える手で食後のお茶を飲みつつ、「まあ……いいけど……」と言う。
「こんなことなら五万金貨持って歩けと言うべきだったか」
「ここまで来てシャジャラには戻れないな」
「ヒザーナの宿楽しみだなぁ!」
あぐらをかいたまま、後ろの床に左手をついた。伸びをするように背中をのけぞらせつつ、右手で腹を叩く。満腹だ。だが鍛えられたギョクハンの腹筋はさほど大きく膨れるということはない。
ファルザードも両手を後ろについて背筋を伸ばしていた。その表情は満足そうな笑顔だ。シャジャラを出た時の暗い雰囲気はなかった。
シャジャラを後にした直後は重い沈黙が漂っていた。ギョクハンも口を利く気になれなかったし、ファルザードもおとなしくしていた。
だが、目的地につき、腹いっぱいおいしい料理を食べると、人間は気が緩んでしまうものである。
「で、今後のことなんだけどさぁ」
ジーライルが言う。
「皇帝に口利きをするっていう話」
ギョクハンもファルザードも上半身を起こした。
「とりあえず、まずは、僕の出資者、最初に言っていた皇帝と近しい間柄の高貴な人に会わせるよ」
ファルザードが「待ってました」と手を叩いた。
「このお方もちょっと気まぐれなところがあって今具体的にどこにいらっしゃるのかわからないんだけど、シャジャラにいる間に伝書鳩で連絡を取り合った時にはヒザーナで僕の帰りを待っていてくれると言っていた。すぐに居場所を確認して段取りをつけようと思う。できるだけ急いで、明日か、遅くても明後日にでも二人と面会できるようにする」
「なんだ、待たなきゃいけないのか。ジーライルほどデキる商人だったら僕らが知らない間にとっとと約束取り付けてくれてると思ってた」
「いやね、僕は確かに優秀で有能で完璧で完全な人間だけどね、君たち二人を抱えて砂漠を越えている間に君たち二人にわからないような行動をとることはできないの。君たち二人は自分たちが案外すごいことを理解したほうがいいよ、とても十四、五だとは思えない」
「そうか? ごくごくふつーのその辺にいる傭役軍人だ」
「そうそう、まあ僕は百万金貨のちょー可愛い酒汲み奴隷ですけど」
「砂漠の盗賊を退治してシャジャラの化け物騒動を解決した二人が何を言うか。ここらの商人の間ではすっかり有名人なんだからね」
「どっちもお前が言いふらした事件じゃねーか!」
ギョクハンは肝を冷やした。自分たちがこうして活動していることがナハルのムハッラムに知られたらどうしようと思ったのだ。
一応ワルダを出た直後に襲われて以来追っ手には会っていないので、ギョクハンとファルザードの姿を見たナハル兵はすべて始末できたのだろう。しかしそもそもの脱出した段階、城門付近で多くのナハル兵が二人の人間がワルダ城を出ていったところを見ている。いつギョクハンとファルザードが特定されるかわからない。
ギョクハンは誰にも自分たちがザイナブの遣いであることを明かしていない。ファルザードも、ワルダから来たことは言ってもワルダ城から来たことまでは話していないようだ。
シャジャラの化け物騒動以来、ギョクハンはファルザードを信用するようになっていた。ファルザードは決して愚かではない。むしろそこそこ――少なくとも脳味噌まで筋肉のギョクハンよりは――賢いとみた。ギョクハンやザイナブを不利にすることは言わないだろう。
「で、そのお方から皇帝へは直結と言ってもいいくらいすぐだから、皇帝の予定さえ合えばいつでもお会いできると思う。何の話だか知らないけど、おしゃべりさせていただくのに丸一日はかからないでしょ。ご公務とご公務の間に滑り込ませていただけないか頼むといい」
そして、「何の話だか知らないけど」の部分を繰り返した。
「ねぇ」
ジーライルが身を乗り出す。
「君たち、どうして皇帝を目指してるんだい?」
ギョクハンは息を呑んだ。隣でファルザードも緊張しているのが伝わってきた。
「ワルダとナハルの騒動と、何か関係があるのかい?」
ジーライルの瞳がいたずらそうに光った。よく見ると、ほんのり緑のまざった琥珀色をしている。
「――そうだよ」
ファルザードがそう答えたので一瞬ひやりとしたが――
「今のワルダは危ないから、逃げてきた。皇帝に何とかしてほしい。――それじゃだめなの?」
ギョクハンは頷いた。
「ジーライルはそれを知ったところでどうするんだ? やめるのか?」
ジーライルが肩をすくめた。
「シャジャラで化け物退治をしたら僕の出資者に会わせると約束した。商人は信用第一だからね、僕は嘘はつかない。その約束だけは守る」
そして「ただし」と続ける。
「僕の出資者がその後どうするかはわからない。かのお方が君たちをどう思うかはわからないんだ。皇帝に取り次ぐまでもないとご判断なさったらそこまでかもしれない。あるいは――君たちが危険だと見たら、ヒザーナから排除しようとするかもしれない。かのお方は帝国の治安の悪化をご心配なさっている、君たちほどの有名人を野放しにはしないだろう」
その声はいつになく真剣だ。
「かのお方には、ちゃんとお話しするんだよ」
気おされて、ギョクハンはつい、「わかった」と答えてしまった。
いずれにせよ、その出資者というのは帝国の立場ある人間だ。もしかしたら、皇帝直属軍の高位の武官かもしれないし、皇帝の書記のような高位の文官かもしれない。そうなったらその人にも援軍の手配をしてもらわなければならなくなる。
「ね、ジーライル」
ファルザードが問いかける。
「その偉い人って、何してる人?」
ジーライルは笑った。
「ナイショ」
2
その日の夕方、ギョクハンはファルザードを公衆浴場に誘った。隊商宿の中にある大きな公衆浴場で、追加料金を払えば揉みほぐしや飲食の提供も受けられるとのことだ。
ギョクハンは楽しみにしていたので、ファルザードも喜ぶだろうと思った。
ところが、ファルザードは最初嫌がった。「僕はいいよ」の一点張りでなかなか動こうとしない。なぜそんなに意固地になるのかわからず、ギョクハンも意地を張って彼を強引に引きずってきてしまった。
脱衣所で服を脱ぎ、蒸し風呂の部屋に入ってから気づいた。
ファルザードが歩くたびに人々が振り向く。
失敗した。一緒にいる時間が長くなって彼の顔を見慣れてきたせいで彼が女の子に見えることを忘れていた。砂漠の盗賊も高値で売り払うと言っていたファルザードを裸にするというのには大きな意味があったのだ。
色白で、豊かな長い黒髪、無駄な肉のない腰、すらりと長い手足、大きな目、ひげの生えぬ顔の輪郭――浴場にいる男たちがさりげなくファルザードを眺めている。
ファルザードは自分がそういう意味で視線を集めてしまうことを知っていたのだろう。思い返せばシャジャラでも大きな公衆浴場には入らず部屋に水だらいを持ってきて体を洗っていた。
知らない男が、ファルザードが通過するのを狙って口笛を吹く。ファルザードが顔を真っ赤にして、知らないふりをして通り過ぎようとする。
やってしまった。
蒸気の噴出口から離れたところにある、体を冷ますための石の長椅子に座った。ファルザードもその隣に腰を下ろした。
「……ごめん」
「いや、逆に気を遣うからやめてよ」
「出るか?」
「やめてってば。僕はここにいるからギョクは好きにしなよ」
せめて洗い場に行くのはやめようと思った。ファルザードは洗い場の係員に洗われるのは嫌なのではないかと思うのだ。ここに一人で置いておくのも少し不安だ。
ファルザードが、長椅子の上で足を揃え、膝を抱える。その膝に顔を埋める。
彼のほうを見た。
長い黒髪の間から、白く細いうなじが見えた。
ギョクハンはつい顔を背けてしまった。
「早く大きくなりたいなあ……どうしたら声変わりしたり毛が生えたりするんだろう。まあ、僕がそんなことになったらみんながっかりすると思うけど……」
シャジャラでの夜のことを思い出してしまう。
「――なあ」
あえて正面を向いたまま問い掛けた。
「お前、いつからハサン様の酒汲み奴隷をやってるんだ?」
ファルザードは、顔こそ上げなかったが、素直な声ですぐ答えた。
「二年くらい前かなあ……十二歳になるちょっと前」
なぜ気がつかなかったのだろう。自分が軍隊という狭い世界の中で生きてきたことを痛感する。
思えば、ハサンが城の奥深くの私室で何をして過ごしていたのか、まったく知らない。昼間の軍事教練を見に来るハサンしか見ていないのだ。
ハサンとファルザードはどんな関係だったのだろうか。
「どういう経緯でハサン様に買われたのか、訊いてもいいか? どこで生まれて、いつ奴隷になったのか、とか」
ファルザードは、小さな声で「うん」と言ってから、語り始めた。
「僕はね、アシュラフ高原のもっと向こう、旧アシュラフ帝国領の北の果てにある大きな湖のほとりで生まれたんだ。その湖は塩水で、対岸が見えないほど大きくて、僕らは小さな海と呼んでた」
小さな海の噂は聞いたことがある。トゥラン平原からすると西の果てだ。ギョクハンの生まれ育った地域からは遠く離れたところで、ギョクハンは行ったことがなかった。
「僕は両親ともアシュラフ人だった。兄弟は僕を入れて四人、一人目の姉、兄、二人目の姉、僕が末っ子。父が礼炎教の神官で。結構、それなりの、由緒あるおうちだったんだよ。アシュラフ帝国時代からのちゃんとした系譜のある……、僕も神官にはなるつもりはなかったけどちゃんと儀式の勉強をしてた」
礼炎教とは、かつてこの大陸を支配したアシュラフ帝国で国教とされていたという、アシュラフ人の宗教だ。善の光の神と悪の闇の神が闘争を繰り返し、やがて闇の邪神が世界を支配する時代が来て、そのあと光の善神が復活して世界を救う、という壮大な世界観をもつ。
アシュラフ帝国が滅亡してカリーム人が覇権を握ると、カリーム人の宗教があっと言う間に世界を席巻して礼炎教を押し退けた。
カリーム人の奉ずる一神教は、唯一絶対の神の他に神と等しい存在を認めていない。善なる光の神を中心に世界を救うために戦う神々を配置した多神教の礼炎教は、古い邪教だ。
どんな出自の人間でも、帰依すればカリーム帝国の宮廷で官僚になる資格を得る。アシュラフ人のほとんどは改宗した。アシュラフ帝国の政治手腕を引き継いだ彼らは、迫害されるどころか、むしろ今やカリーム帝国の高官の地位を独占していると聞いた。
しかし、そんなご時世で神官、というのは苦労するだろう。なにせ邪教の指導者なのだ。どんな目に遭わされるかわかったものではない。
「僕が十歳の時、カリーム人たちがやって来た。小さな海の港町でそこそこの人口規模の町だったけど、街道沿いでもなかったし、カリーム人からしたら辺境だからね、それまでずっと見過ごされてきていたみたい。僕らはその時初めて自分たちが邪教の民だと聞かされて、改宗するか金を払うかを選べと言われた」
そこまではよくある話だ。アシュラフ人に限らず、カリーム帝国に生きる大半の人間が同じ経験をしているはずだ。
「まあ、大半の人たちはそこで改宗するって言ったよね、改宗さえすればカリーム人たちの下で働けるって知ってたし、事実すぐ解放されて普通の暮らしに戻っていったよ。でも、僕の父は神官だったから。父と母と、あと神官の後継者だった兄さんは、帰ってこなかった」
うすら寒くなって自分の腕を撫でた。
「三人の代わりにカリーム人たちが家に来て――」
そこで、ファルザードは顔を上げた。
「僕たち兄弟、四人とも顔すごい似てたんだよね」
その滑らかな頬に血の色が見られない。
「その時上の姉さんは僕の目の前で――察して」
「うん。言わなくていい」
「で、自殺した。カリーム人の妻になるくらいなら、って言って脱走して崖の上から小さな海に向かって飛び込んだんだ。しばらくして遺体は回収された。僕は溺死してぶよぶよになった姉さんの顔を見た。……生きていた時は町で一番の美人って言われていたのに」
細い指が、膝の上で組み合わされる。
「僕と下の姉さんは、顔がよくて、ちゃんと教育を受けていたから、ということで、すごい高値で売られたらしい。……下の姉さんがどこに売られたかは知らない。僕は競売の日を最後に一度も会っていない」
「それで……、ハサン様のところに?」
「いいや、しばらくあちこちいろんな人に買われて過ごしたよ」
思わず自分の手で口元を押さえた。
ファルザードは淡々と続けた。
「ハサン様と出会ったのはヒザーナの城下町。僕は病気になって、すごい安値で別の奴隷商人のところに転売された。痩せちゃって、動けなくて――」
今でもギョクハンよりひと回りもふた回りも細い。
「ハサン様は……、僕は最初、病気でタダ同然で取り引きされている僕を憐れんでくださったのかと思ったんだよね。ワルダ城に引き取られてからしばらくは優しかったし。僕専用の部屋を用意して、自力で動けるようになるまでお腹に優しい麺麩粥を食べさせてくれた。でも――」
繰り返した「でも」という声は、今までで一番苦しそうだ。
「アシュラフ人の男の子が欲しかったみたい」
ギョクハンはつい「そんなことないだろ」と声を荒げてしまった。
「ハサン様がお優しいからだ、お前が最初に思ったとおり、弱っているお前を憐れんで――」
「うーん、ごめん」
うつむいて、自分の足の指をつつきながら、小さな声で話す。
「そういう、理想、かな。なんか、ぶち壊したら嫌だから、ずっと、言わないほうがいいかな、って思ってた」
「冗談だろ、ハサン様ほどの人格者はそういないぞ」
「まあ、そうなのかもしれないよ。ハサン様は昼間はちゃんとした方だった。お酒も飲まなかったしね、敬虔で。でもお酒を飲まない人がなんで酒汲み奴隷を買うのかってちょっとあれじゃない?」
「それは……、酒以外にいろいろあるだろ。身の回りのお世話とか――」
「うん。だから、そうだよ。お世話。お仕事の合間に、口でしたりとか」
「やめろ」
ギョクハンは頭を抱えた。
「やめろよ……」
3
ハサンは、誰よりも、ギョクハンに優しかったのだ。優しく、頭を撫でてくれた。優しく、肩を撫でてくれた。
しかし、今思えば、あの近い距離感は何だったのだろう。
言い知れぬ不快感が込み上げてくる。
ハサンは何のために少年を買い揃えていたのだろう。何のために、何を基準に傭役軍人の少年を集めたのか。
誰も、何も、言わなかった。黙っていただけで、何かはあったかもしれない。たまたまギョクハンはなかっただけかもしれない。
「嘘だろ……?」
ファルザードが「いいよ嘘で」と呟く。
「ギョクが信じたくないなら信じなくていいよ。それくらいの自由はあるよ。ギョクが知らなかったらそれはギョクの世界では起こらなかったことなんだ。それでもいい。僕の世界では起こったことだった。けど、僕一人が黙って耐えて済むなら、それでもいいんだよ。僕は今日ここで何も話さなかったことにするよ」
そして「亡くなったしね」と続ける。
「もうハサン様とお会いすることはない。僕はすごく気が楽になったけど……、僕を可愛がってくださる寛大なハサン様に感謝しなくてもよくなったんだと思うとほっとしたけど。でもギョクはハサン様がお好きだったならつらいよね。それに目の前で亡くなったんでしょう? 悲しかったよね。悔しかったよね」
「やめてくれ」
「うん、わかった。やめよう。ごめん、ぶち壊して」
ファルザードの顔を見ることができなかった。ギョクハンもうつむいて拳を握り締めた。
ギョクハンとファルザードは同じ城の中にいたはずなのにどうして面識がなかったのだろう。ハサンはファルザードをどこで飼っていたのだろう。
ファルザードはハサンにとって何だったのだろう。
何をもって、ファルザードは、自分を百万金貨だと言っているのか。百万金貨のアシュラフ猫か。
発狂しそうだ。気持ちが悪い。
「でも、ザイナブ様は?」
救いを求めて問いかけた。
「ザイナブ様は、お優しいだろう?」
それは、ファルザードは素直に「うん」と肯定した。
「ザイナブ様は僕にとっても女神みたいな存在だよ。何度も何度も助けてくださった。何度も死んでやろうと思ったけど、ザイナブ様がいてくださったからもうちょっと生きようってがんばった。ザイナブ様のお役に立てれば――」
泣きそうな声で「僕は本当に嬉しかったんだ」と言う。
「僕の汚れた体を拭いてくださった」
ザイナブは知っていたのだ。自分の父親が年端も行かぬ少年に何を強要していたのか理解した上で、あの振る舞いだったのだ。
「だから僕は、ザイナブ様のためなら、また売られても構わない」
身を引きちぎられている気分だった。
ギョクハンの世界が、音を立てて崩れていく。
「ねえ、ギョクは?」
ファルザードが明るい声で問いかけてくる。だがギョクハンは知っている。ファルザードは時々わざとそういう声を出すのだ。
「ギョクはどうしてハサン様の傭役軍人になったの?」
「俺はそんな重い理由はない」
小さな声で答えた。
「俺のいなかではそれが当たり前だったんだ。子供の頃から馬と弓をやっていて、軍人に向いているから。カリーム人はトゥラン人を大量に傭役軍人として仕入れてる。みんなずっとそういうものだと思ってた」
誰も疑問を持たなかった。
「むしろ俺の親なんかは俺が高値で買われていくのをすごく喜んでた。帝国へ行けばいい俸禄でそれなりの暮らしができるってわかってたからな」
なつかしい、故郷の果てなき蒼穹、見渡す限りの地平線が頭の中に浮かぶ。その真ん中に建てられた幕家も忘れられない。
「それに弟がいっぱいいた」
ギョクハンはそんな中で育った。
「トゥラン平原では、家を継ぐのは、末っ子なんだ。弟が生まれたら、兄貴は、出ていかなきゃいけない。たいていの親は、そういう息子が遠くで出世していい暮らしができるんなら、って思う。俺の家もそうだ。親父もお袋も笑顔で俺を送り出した」
「……そっか」
「実際言われていたとおりで、俺は帝国に来てから嫌な思いをしたことはない。そりゃ、訓練は厳しくてきついけど、死にたいとか思ったことは一回もない。帰りたいと思ったことはあるけど、一時的にいなかに帰って休んで、少ししたらまた働きにワルダに戻る、みたいな人生でいいと思ってた」
蒸気が噴出口から噴き出した。部屋の中が暑い。汗をかく。
「それってさ……、お金があったらずっと草原にいられたんだ、とは、思わない?」
ギョクハンは一瞬黙った。何と答えようか悩んだ。
ファルザードが包み隠さず全部話してくれたのに自分が黙っているのは卑怯だろうかと思ったので、口を開いた。
「俺のいなかは、田舎なんだ」
初めて、悔しい、と思った。
「街中のほうが……、便利なんだ」
今の今まで、先輩たちの誰も、言わなかった。トゥラン人たちの間では当たり前のことだったからだ。
「何もない草原で暮らすのが、きつかった。嫌じゃなかった、今でも遊牧生活に戻りたいと思う時もある、けど……、一回、生活が保障されてて家畜が死んだ時の心配をしなくてもいい、でっかい市場があって何でもすぐに手に入る、万が一怪我や病気をしても給料の貯金で暮らせる――っていう暮らしを、すると。こっちのが、楽かな、って思っちまう」
「……そっか」
二人とも、互いの顔を見なかった。
「そうだよね。ギョクがそのほうがいいって思うなら、それが正解なんだよ。ギョクくらい強かったら、軍人としてやっていけるんだし、天職かもしれない。ハサン様がいなくなっても、ザイナブ様がいらっしゃったらザイナブ様がギョクを相続するんだしさ。ザイナブ様の下で自分が得意なやり方で働くって思ったら、まあ、僕でもそのほうがいいと思うかもしれない」
耐え切れなかった。
ファルザードの手首をつかんだ。その手首はあまりにも細く、丸めるようにつかむとギョクハンの指は余った。少しでも手に込める力を間違えたら折れてしまいそうだった。
「俺、お前を信じる」
ファルザードが振り向いた。大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど丸くなっていた。
「お前が言うこと、全部信じる。お前のこと、受け止める」
ギョクハンは宣言した。
「これからは俺が守ってやる。だから、嫌な仕事は嫌って言え。ザイナブ様がそういうことをやらせるとは思わないけど、万が一誰かに何かやらされそうになった時は、絶対、俺を呼べ」
黒真珠の瞳が、潤んでいく。
やがて、ぽたり、と。透明なしずくが、伝い落ちた。
「ありがとう」
世界が広がっていくのを感じた。この世の中には、まだまだ知らなければならないことがたくさんある。
右手で手首をつかんだまま、左腕でファルザードを抱き締めた。ファルザードが声を上げて泣き出した。
4
風呂から出たあとは寝室でのんびり過ごしていた。
ギョクハンはひたすら矢を作っている。
ファルザードは借りてきた聖典を読んでいる。彼からすると異教の書物のはずだが、問いかけると、文章を読めれば何でもいいと答えた。どうやら書物を読むことが好きらしい。城にいた時はザイナブ所蔵の本を読み漁っていたと言う。ギョクハンにはわからない感覚だった。
ファルザードが急に何かを思い立って出ていく。用便かと思ったが、さほど間を置かず茶器と硝子の茶碗ふたつを持って帰ってきた。少し蒸らしてから茶碗に茶を注ぐ。いい香りがした。そのへんの所作は綺麗だ。だてに酒汲み奴隷をやっていたわけではないらしい。
「どうぞ」
「どうも」
二人で茶をすする。穏やかな時間だ。
こんな時間が続くのも、悪くない。
ファルザードが茶を飲みながら読書を再開した。
その横顔を眺める。
高い鼻にぽってりした唇の紅顔の美少年である。やはり美少女にも見える。
ギョクハンは、ザイナブは何のためにファルザードを連れていくよう指示したのだろう、と考えた。
もう足手まといだとは思っていない。だが、ファルザードに戦闘能力がなく、危険な局面になった時ギョクハン一人で戦わなければならない、という事実はいかんともしがたい。
戦闘だけではない。騎馬民族の出で軍人のギョクハンのほうが圧倒的に速く、ファルザードに合わせての旅程は少しゆっくりしている。
いくらギョクハンがずぼらだからといっても、ギョクハン一人に手紙を持たせて馬を飛ばすように言ったら、もっと早くヒザーナについていたと思う。
歩く百万金貨、という言葉を思い出した。
ザイナブは本当にファルザードを路銀にするつもりだったのだろうか。
ハサンは死んだ。ファルザードを求める人間はいなくなった。用済み、ということだろうか。
そんなはずはない。彼女はハサンよりさらに寛大で慈悲深い人間だ。ましてファルザードは彼女には全幅の信頼を寄せているようだった。そのファルザードを裏切るような真似はしないだろう。
二人で行け、と言った。二人であることに何か意味があるのだろうか。
戸を叩く音がした。ギョクハンもファルザードも顔を上げて戸のほうを見た。
「はい、だぁれ?」
能天気な声がする。
「僕だよーん。ジーライル! 入っていーいー?」
ファルザードがギョクハンの顔を見た。ギョクハンが「俺はいいけど」と言うと、ファルザードは大きな声で「どうぞー!」と呼び掛けた。
戸を開け、ジーライルが入ってきた。
「おこんばんはぁ」
彼は両手で大小ふたつの箱を抱えていた。下にしている大きいほうは白く、上にのせている小さいほうは黒い。
部屋に入ってくると、床の真ん中に箱を置いた。
黒い箱は見事な象嵌細工だった。
黒い箱をのける。
下の白いものは箱ではなかった。長方形の分厚い板だった。上部には黒く細い溝が格子模様を作っている。ます目はいずれも正方形、縦八つの横八つだった。
ジーライルが黒い箱を開けた。中から、緑の石が十六個、赤い石が十六個出てきた。石はいずれも格子模様のます目に納まる大きさだ。
「将棋。やったことある?」
ギョクハンは「ない」と答えた。嘘だ。経験があると言ったらやらされそうな気がしたのだ。頭を使う盤上遊戯で、軍事教練の一環でやったことがあったが、ギョクハンは苦手だった。遊びでまでやりたいとは思わない。
ファルザードは元気よく「あるー!」と答えた。
「ご主人様のお姫様とよくやってたんだ。やりたい!」
「よーし、やろう。僕とファルちゃんで勝負だ」
ジーライルが盤の上に石――駒を並べ始める。ファルザードもその向かいに座ってジーライルの手伝いを始めた。
「まずは僕が後攻でいいよ。緑ね。ファルちゃんが赤」
「うん」
「こてんぱんにしちゃうのは気が引けるからね、ちょっと手加減しようか。僕は馬なしにする」
「いいの? ぼっこぼこにしちゃうよ?」
「やれるもんならやってみろー」
二人が向かい合って、頭を下げ合った。
「よろしくお願いします」
ファルザードが赤くて丸く小さな駒をつまんだ。確か歩兵だ。なんとなくおぼえている。
駒は、歩兵、戦車、馬、象、宰相、そして王の六種類ある。
真ん中にいた赤い歩兵が一歩前に進んだ。
ジーライルもすぐに緑の歩兵を動かした。
端にいた歩兵が一歩前に出た。
別の赤い歩兵がひとます進む。
次にまた別の緑の歩兵が進む。
ギョクハンはその様子をぼんやり眺めていた。
ジーライルもファルザードも楽しそうだった。夢中で盤の上を見つめている。二人の手の動きに迷いはない。
赤い戦車が右に進む。
緑の象が斜めに進む。
最初に相手の駒を取ったのはジーライルだった。緑の戦車が赤い歩兵を食べた。
直後、赤い象がその緑の戦車を屠った。
ジーライルがまたたいた。
緑の歩兵が進む。あわやあと一歩敵陣の最終列にたどりつく直前で赤い馬に食われる。
緑の別の歩兵が動いた。
そこから先は赤い馬の独壇場だった。
もうひとつの緑の戦車、緑の象、そしてふたつの歩兵を食い散らかした。
ジーライルが自分の顎を撫でた。
緑の宰相が動き始めた。
その途端だった。
「王手!」
ファルザードが、緑の王の真ん前に赤い象を置いた。
「ふむ」
ジーライルが、人差し指で自分の鼻の頭を押す。
「……ふむ」
彼は「もう一回やろう」と提案した。
「今度は僕も全力でやるね」
ファルザードは心底楽しそうな笑顔で答えた。
「そうこなくっちゃー」
また、赤い駒と緑の駒を並べ始める。配置は先ほどの開始時点のものと同じだったが、緑の馬がふたつ増えた。
「よろしくお願いします」
今度は赤い馬がいきなり前進した。ギョクハンまで思わず「おっ」と言ってしまった。
ジーライルは無難に歩兵を動かした。
赤い歩兵が進む。戦車と象もどんどん進む。後ろは振り返らない。
緑の歩兵が進む。緑は王と宰相を守ってなかなか進まない。歩兵で歩兵の動きを抑えている。その間にも赤い馬が緑の歩兵を屠る。
ジーライルの表情がどんどん険しくなっていく。
ファルザードは変わらず楽しそうだ。その目はいつになく輝いていて生き生きとしている。
邪魔はしないでおこうと思い、ギョクハンはそっと油灯に油を足した。
赤い宰相が動き出した頃には、緑の歩兵はいなくなっていた。
緑側は馬と象もひとつずつ失っている。赤側は王が裸になってしまったように見えるが、こちらは馬も象も両方生き残っているからか、ファルザードは意に介していないようだ。
攻める。
戦車はひとつくれてやったようだ。
ギョクハンには、何が起こっているのか、わからなかった。
赤い象が進む。
緑の戦車が下がる。
赤い馬が進む。
緑の戦車が一歩進む。
赤い象がさらに一歩進む。
緑の戦車が赤い馬に近づいた。
赤い馬はさらに進もうとした。
緑の戦車が赤い馬を踏みつけた。
直後、赤い宰相が緑の戦車を押し退けた。
「あっ」
ジーライルが呟いた。
その次の時、ファルザードの華奢な手は、赤い象で緑の陣地に踏み込んだ。
緑の宰相《ワズィール》が動いた。赤い|象の行く手を阻もうとした。
緑の王がひとりぼっちになった。
もうひとつの赤い馬が、緑の王のふところに跳び込んだ。
「王手」
ジーライルは完全に顔をしかめていた。ファルザードは可愛らしい笑顔だ。
「もう一回やる?」
そんなファルザードの問いかけに、ジーライルはしばらく答えなかった。間を置いて、ためて、ためて、ためて――
「――わかった」
彼は、大きく、息を吐いた。
「明日のお昼、君たちと、僕と、僕の出資者――アズィーズ様と、四人で食べよう」
ファルザードがきょとんとする。
「何がわかってそういう話になったの?」
「いや」
ジーライルは彼らしくなく真剣な表情で言った。
「試して悪かったね。やっぱり、ちゃんと二人ともアズィーズ様のところに連れていくよ」
5
大きな衝撃が城を揺るがした。当初は皆地震かと思ったという。
壁が突き破られた。部屋の中に巨大な岩が転がった。飛んできた岩に押し潰され、一人の侍女が事切れた。周囲にいた侍女たちが悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
すぐさま第二撃が城を襲った。城が震え、壁が崩れる音がした。
「落ち着きなさい!」
ザイナブの声が響く。その声を聞いた人々が一瞬動きを止め、ザイナブのほうを見る。
ザイナブは寝室から出てきたばかりなのだろう、男を魅了してやまない曲線美もあらわの薄衣の上に外套を羽織ったままの姿で階段をのぼってきていた。長く豊かな黒髪が乱れて滑らかな頬にかかる。
「大丈夫です、騒ぐのではありません。落ち着いて城の中心に移動するのです。第三の中庭に天幕《テント》を張らせています、女たちはそこへ行きなさい」
年かさの侍女が布を持ってきてザイナブの頭に掛ける。ザイナブは巻くのすら手間だと考えているのか「ありがとうございます」とだけ言うとそのままの状態で歩き出した。
列柱を早足で歩いていく。
城の南側にも大きな岩がめり込んでいた。
ナハル軍が投石機を使い始めたのだ。
今は一時的にやんでいるが、間を置いてそのうち再開されるだろう。
ザイナブは城の玄関にたどりついた。
玄関に傭役軍人たちが詰めている。城の正門や城壁を守る者たちだ。彼らは交代制で休憩を取っている。今いる面子は朝の交代で戻ってきたばかりのようだった。休憩場所に玄関を選んだのは、それでも万が一敵が侵入してきた場合に最後の決戦の場として玄関で食い止めるという意図があるからだ。
「状況を説明なさい」
ザイナブの姿を見ると、その場にいた傭役軍人たちが全員起立した。
「ナハル軍が投石機を使い始めました。城壁の見張り役の報告によると投石機は全部でふたつ」
「さようですか」
「歩兵は城壁で食い止めております。城壁の上から弓を放つ、油や石を蒔くなどの対応をしております。しかし――」
「さすがに堀の外からあの大きさの岩を投げつけられては敵いませんね」
ザイナブは少し考えたようだった。この隙にも侍女たちが腕を伸ばして彼女に服を着せているが、彼女はお構いなしだ。しかし、周囲の傭役軍人の男たちもわきまえて何も言わない。今はただ真剣な目で彼女の反応を見ている。
「食糧自体はまだあと半年以上こもれるだけの備蓄がありますが、これでは城に詰めている者たちの士気が下がってしまいますね。心が折れれば人間はたやすく死にます。城本体が破壊される懸念もあります。今の投石で一人の侍女が死にました」
傭役軍人たちがうつむく。
「不甲斐ない。申し訳ございません」
「かくなる上は打って出てご覧に入れましょう」
「およしなさい。たとえ我が家の傭役軍人たちが一騎当千の戦士たちといえど相手は三千、しかも侵略した各地で接収した最新の兵器を用意しています。みすみす命を落とさせるわけにはまいりません」
ますます申し訳なさそうな顔をして、並ぶ男たちが皆歯を食いしばった。
「援軍を待つしかないのですか」
「ええ」
ザイナブは即答した。
「生きるために戦うことを回避するのです。卑怯者と、弱虫とそしられようとも、自らが一日でも長く生きながらえると思われる行動をとりなさい」
「ザイナブ様……」
「案ずることはありません、食べ物と水はあります。あなたたちがそのような顔をしていたら女たちが不安がるでしょう、しゃんとしていなさい」
彼女の声はあくまで冷静だ。
一人の傭役軍人が一歩前に出た。
「逃げましょう」
彼の目も真剣そのものだ。
「お連れします。お逃げになってください」
ザイナブが彼の名を呼ぶ。彼がその場でひざまずき、深く首を垂れる。
「生きるためです。ザイナブ様さえ生き延びればワルダは何度でもよみがえります。この城を捨てましょう」
「城には城下町の民も避難しています。私がここを出るわけにはまいりません」
「生きよとおっしゃったのはあなた様ではございますまいか」
力強い声で言う。
「突破口は我々が作ります。ご決断を」
ザイナブは決して頷かなかった。
「私がここを離れたら、あの子たちはどうなるのですか」
「あの子たち、とは?」
「ギョクハンとファルザードです。私はあの子たちの帰る場所でなければなりません」
男たちがざわついた。
「あの子たちはきっとやり遂げるでしょう。援軍を連れて帰ってくるでしょう。私はそれを出迎えて褒めてやらねばなりません。私はあの子たちの家です」
一人が首を横に振る。
「これだけ時間がかかっていては、さすがに……」
「もはや生きているのかさえわからないのです。何の連絡もなく今日になってしまった」
「ナハル兵の追っ手もあっては、やはり二人だけでは……」
はっきりと、ザイナブは「いいえ」と言った。
「あの子たちは必ずやってくれます。私は信じます。あなたたちも信じて待ちなさい」
「でも――」
「ワルダ城を明け渡すことによってあの子たちのやる気を殺ぎたくありません。希望を失わなければ人間は生きていけます」
また、城が揺れた。しかしその場にいた人間は誰も動じなかった。まっすぐ向かい合っていた。
扉が開いた。若い伝令兵が一人玄関に転がり込んできた。
「ザイナブ様!」
「ここにおります。どうしました?」
彼はザイナブに一本の矢を差し出した。正確には、矢にくくりつけられた手紙を、だろう。矢文だ。
ザイナブの手が矢を取った。そして結ばれていた紙片を取り、広げた。
「ナハルからですか」
「ええ。ムハッラム本人が直接書いたもののようです、手に見おぼえがあります」
ザイナブはすぐにたたんだ。
「ムハッラムは何と……?」
ひとつ、息を吐く。
「私がムハッラムのもとにくだると約束するなら投石をやめてもいいとのことです」
場がざわついた。
「なりません姫様! あの強欲で冷酷な男のものになるなどあってはならないことです!」
侍女が悲鳴のような声で訴える。ザイナブが「わかっています」と答える。
「それは皆のやる気を一番殺いでしまうやり方ですね」
また、轟音が響いた。
「ですが――時間を稼ぐためならば、必ずしも悪い手段ではありません。しばらく回答せずにおきましょう」
今度は傭役軍人たちも「つけあがらせてはなりません」「すぐさまお断りください」と叫んだ。
「――あと、半月」
一度唇を引き結んでから言う。
「あと、半月、待ちましょう。それであの子たちが出ていってから一ヵ月になります。一ヵ月何の音沙汰もなかったら、私はムハッラムのものになると回答します」
そして遠く窓の外を見やった。雲ひとつない快晴が広がっていた。今日も暑くなりそうだ。
「大丈夫です。あの二人がお互いの本当の良さに気づいて手を取り合うことができたら、乗り越えられないことなど何ひとつないでしょうから」
続きへのリンク
第1話:https://note.com/hizaki2820/n/n89f5265cb651
第2話:https://note.com/hizaki2820/n/na259090eced5
第3話:https://note.com/hizaki2820/n/n96ac939f9f93
第4話:https://note.com/hizaki2820/n/nbf0442a02e54
第6話:https://note.com/hizaki2820/n/nae52720cea71
第7話:https://note.com/hizaki2820/n/nbdef5e931cf1
第8話:https://note.com/hizaki2820/n/ne2429db3aba3
第9話:https://note.com/hizaki2820/n/n3b8d92fa23e6