イヤサカ 第3章
族長イヌヒコの意識が戻った。しかし彼の回復を素直に喜んだのは次女のテフだけであった。
まだ床から起き上がれないイヌヒコを囲んで、長老たちとイヌヒコの長男のシシヒコ、そしてナホが詰めている。
ナホは今日も女向けの着物を着ていた。正装とは違うが、生前の母、つまり先代の女王が普段着として着ていた高価なものだ。他の村から献上された絹でできている。いつかノジカと二人で暮らす日が来れば彼女に贈ろうと思って大事に保管していた。自分が袖を通す日が来るとは思ってもみなかった。
カンダチ族が海に帰り、見舞いにやって来る他の部族の者たちが引いても、ナホは女王の装いを解くことができなかった。
カンダチの男がいるからだ。
オグマと名乗ったカンダチの男は、族長アラクマの言いつけどおりマオキの村にとどまっている。
一応客人としてそれなりにもてなしてはいる。他部族の、それも自分たちに戦で勝った部族の男を簡単に召し使い扱いするわけにはいかないのだ。最終的な処遇についてはイヌヒコの意識が戻ってからと言って先延ばしにしていたが、とりあえず丁重な扱いをしていた。
オグマは、イヌヒコの言葉を待つと言っておとなしく接待を受け続けてはいるが、機嫌はあまり良さそうではない。客人としてといえど軟禁されたようなものだから、楽しくはないのだろう。それでも基本的には用意された館に滞在しており、時折女たちに連れられて温泉に行くほかは出歩かないでいてくれる。
マオキの一同の方がイヌヒコの目覚めを待てない。今に至るまでの数日間、老若男女があちらこちらでオグマの今後について議論していた。だが誰も意見をまとめられない。本来ならまとめなければならない立場にいるにもかかわらず目を覚まさないイヌヒコに苛立ちを募らせていった。
「ノジカ……」
本日とうとう目が覚めたわけだが、彼はまず長女がいないことを嘆いた。両手で自分の額を押さえ、悲痛な顔をして呻いた。
長老たちの間から、呆れと怒りの溜息が漏れた。
「あの子は死ぬまでマオキの村にいてホカゲ族の繁栄に貢献するのだとばかり――」
「もうおらぬ。死んだものと思え」
もはやマオキの長老会の関心はノジカにはない。けれどイヌヒコはついていけていない。
「その、オグマ殿とやらをカンダチ族に返して、ノジカを取り戻すことはできぬのか」
「ならぬ。カンダチの族長は嫁を望んだのだ。他のおなごを出すならまだしもオグマ殿とノジカは交換できまい」
ナホは拳を握り締めた。
不思議なことに、女の恰好をしていると、意見できない気がしてくる。女王であるナホにはそういう力がないように思えてくる。
母がそうだったからかもしれない。
母はマオキ族をはじめとする山の民の言うことを粛々と聞いていた。聞き終わったあと頷くだけで自分の意見を表に出すことはなかった。
女王というものはそういうものだと刻み込まれているのかもしれない。
長老のうちの一人が言う。
「イヌヒコよ。そなたその体ではもう戦えまい」
右腕が切断手前までいったせいか右手が動かないらしい。腹の傷も深く一時は臓物が露出していた。
「族長の座を息子に譲れ」
イヌヒコはまったく抵抗しなかった。うなだれて頷いた。
「面目ない」
傍に控えていたシシヒコが弾かれたように顔を上げた。
「それは、つまり、僕が族長になるということですか」
「さよう」
「そんな。まだ早すぎます」
「ではいつならばよいと言うのだ。そなたももう二十一ぞ」
「ですが、僕には自信がない」
「嫌だと言うのかえ」
シシヒコもうつむいた。
「いえ。お受けします」
ナホも溜息をついてしまった。この親子は父も息子もこの調子だ。この弱腰のせいでカンダチ族に勝てなかったのではないかと思ってしまう。二人とも娘、妹のノジカに頼りすぎた。だからノジカがいなくなってからこちら話が進まないのではないか。
あれこれ言ってやりたい。怒鳴りつけてやりたい。大きな声で、しっかりしろと、どうにかしろと、叫んでしまいたい。
だが我慢だ。それこそこどものすることだ。自分が今もまだそんな調子だと聞いたらノジカはきっと困る。ノジカが心配しなくてもいいようなおとなになると決めたのだ。
長老たちのうち、神官をしていた翁が一歩歩み出た。
「オグマ殿の今後の件について、わしらが話し合ったことをそなたたちに話す。心して聞け」
イヌヒコとシシヒコが居住まいを正す。
「まず何においても大事なのはナホ様が男児だと知られてはならぬということだ。マオキ族の外に漏らしてはならぬ。カンダチ族だけではない、山の民にも、だ。むしろ、山の民にこそ。ナホ様が本来女王たるべきお方ではないことが知れたら、山の民がまとまらぬことになるやもしれぬ。それだけは断じてあってはならぬ」
「承知」
「あの男がこのままマオキの村に滞在を続けようものならばいつどこでこのことが知れるか分からぬ。否、すぐ傍で暮らしておるのだ、もしかしたらもうすでに知れているやもしれぬ。情報をもって外に出られては困る」
神官の翁は断言した。
「消すしかない。殺すのだ。ひと知れず葬り去れ」
ナホは落胆した。アラクマを殺そうと息巻いていた数日前の自分を思い出した。こいつらに育てられたから自分もこうなのではないか。
「幸いのことあれからカンダチ族より使者はない。族長のあの男も好きにせよと言った。素知らぬ顔をして過ごし、季節の貢ぎ物を渡す時は病で起き上がれぬとでも言って、乗り込んでこられたら病で死んだと言えばよかろう」
「だが、それではノジカは?」
「あの娘自身のさだめによるであろう。万が一のことがあっても、ナホ様をお守りするために必要なことであったとなれば当人も承知するであろう」
ナホは口を開きかけた。けれどすぐに閉ざした。また、拳を強く握り締めた。
「マオキの村によそ者があってはならぬ」
長老たちの声は力強い。
「排除するのだ」
「最悪もう一度戦になることも辞さぬ」
「いや、もう一度戦をするのだ」
「いつまでも貢ぎ物を贈るようではこちらが支配されているようなもの、マオキ族こそ支配者の一族でなければならぬ」
「そのための族長の代替わり」
「シシヒコのもとで若い戦士たちをまとめ直し、強いマオキ族を取り戻すのだ」
ナホにも他の意見はない。これではだめだと分かっているのに何も思いつかない。何がどうだめだと思うのかもうまく説明できそうにない。長老たちの決定に従うしかない。
ノジカだったらどうしただろう。賢い彼女のことだから、何かは考えついたのではないか。
「それでは、いつにしますか」
シシヒコが震える声で言う。
「殺すのは僕が請け負います、女王のための、大事な仕事ですから。でも、いつ、どのように」
神官の翁が自らのあごひげを撫でる。
「祝言の夜にしようぞ」
「しゅうげん?」
「女王ナホの夫にしてやるとそそのかすのだ。どの部族にも知られぬよう取り計らって形ばかりの祝言を挙げ、夜、おなごと二人きりだと思って油断した時を狙って殺せ」
「ナホ様と結婚させるのですか」
シシヒコがナホの顔を見た。ナホはようやく発言を許された気がして口を開いた。
「どうせ形だけだろう? 床入りする前、シシヒコが来るまでの間、いつもどおりおとなしく女王をやっていればいいんだろう」
翁が「おおせのとおりで」と答える。
「遅れるなよ。脱がされたらバレるからな」
シシヒコが神妙な面持ちで「はい」と頷いた。
「ナホ様」
媼が険しい顔つきで言う。
「また深くお考えにならずに受けられたのではございますまいな。他の部族には祝言の真似事をすることも知られてはなりませぬぞ、女王の御体に蛮族の穢れた手が触れたのではと勘繰られてはならぬのです」
「俺だってそれくらい分かる」
「よいですか、シシヒコが行動するまではけして何もしてはなりませぬ。くれぐれも軽々しい行動は慎まれませ」
「分かってる、分かってる。うるさいな」
「あのぅ」
一同が一斉に戸の方を向いた。
テフが土器の碗ののった盆をもって可愛らしい笑みを見せていた。
「お水をご用意しましたよー! 皆さん飲んでくださいよう。お疲れでしょう?」
「おお、気が利くのう」
長老たちが目を細めて喜んだ。
「ね、ね、何のお話です? テフも交ぜてくださいよう」
シシヒコが溜息をつきながら「お前には関係ない」と言う。テフが眉尻を垂れあからさまに不満を表現した。
「テフはあっちに行ってろ。お子様はいいんだ」
ナホがそう言って手を振ると、テフは身をくねらせて「冷たいです!」と訴えた。しかしナホに続いてイヌヒコまで「あとで教えてあげるから、今は下がりなさい」と言ったので、彼女は唇を尖らせながらもすぐに出ていった。
床より一段高くなるよう重ねて積まれた筵の上、柱四本に支えられている天蓋付きの寝台の縁に腰掛けて、ナホは溜息をついた。
祖先である神の火の山の女神に挨拶をする。神官に祝いの言葉を述べられる。互いに誓いの言葉を述べる。自分の祝言のはずなのに女王として自ら舞って女神に舞を奉納する――半日足らずのことだったがとてつもなく疲れた。
形式はあくまで形式だ。季節の祭りやまつりごとの場で女王を装うのと何ら変わらない、ただ澄ました顔をして決められた手順を滞りなくこなしていけばいいだけのことだった。
それでももう二度とやりたくない。
こんなことが女にとっては一世一代の晴れ舞台らしい。それならノジカのためにやってあげたい。けれどノジカがここにいても彼女との結婚は大々的に披露できない。女王であるナホが男として嫁を迎えるのは本来あってはならないのだ。
女王とはこうも窮屈な身分なのかと思いつつ、ナホはひとり新婚夫婦のためにしつらえられた寝所で待っていた。
介添えとしてずっと傍にいたテフが「すぐに兄さまが参りますからね、早まったことはしないでくださいませね」と念押しをして出ていってから、どれくらいの時が経ったことだろう。もう夜が明けるのではないかと思うくらい待った気がする。
外から声が聞こえてきた。誰か、二人くらいの人間が何かを話している。おそらくオグマとシシヒコだ。その場でどうにかしてくれと念じる。だが馬鹿がつくほど正直で真面目なシシヒコは長老たちに言われた手順を守るだろう。
案の定、向かってくる足音は最終的にひとつになった。
拳を握り締める。手に汗をかいている。
戸が開けられた。
灯台に燈る小さな炎が揺れた。
見覚えのある顔が照らし出された。ナホにとっては、望まぬ祝言を挙げた相手の顔だというだけでなく、ノジカを奪っていったあの男と同じ顔でもある。もう見るだけで腹立たしい顔だ。
このオグマと、自分は、祝言を挙げてしまったのだ。
彼は黙って歩み寄ってきた。寝台に片膝を乗り上げ、うつむいているナホの隣、触れるか触れないかくらいの距離に落ち着いた。
「緊張しているのか」
確かにそうだが、おそらくオグマが想像している緊張とは違う。
吐息が耳に触れる。体温が近い。
男の香りがする。ノジカではない。
何もかも気持ちが悪い。
視界から油の灯りの光が消えた。オグマが近づいたからだ。ナホの視界を覆うほど近くにいるのだ。
ナホの肩がオグマの胸に触れた。
太い指が顎をつかんだ。
顔を上げさせられた。
顔と顔が近づく。
あともう少しで唇と唇が触れる。
こんなことならむりやりにでもノジカに口づけておけばよかった。
悔しさと悲しさで歪んだ視界の中、オグマの肩越しに、ようやく、音もなく戸を開け、剣を振りかざしているシシヒコの姿が見えた。
解放される。
そう思ったのに――
「この俺を騙そうなんざ百年早いな」
オグマに襟首をつかまれた。
強い力で下に引かれる。両手と膝を床につく。勢いよく落ちるようについたので膝も手の平も痛んだ。
金属音がした。
顔を上げた。
シシヒコが振り下ろした剣の刃とどこから出てきたのかオグマが掲げた刀の刃がかち合った。
オグマもシシヒコも腕力で相手を出し抜こうとしている。オグマは上へ、シシヒコは下へ刃を押しつける。二人の力は拮抗して見えた。
弾き合う。
オグマの反応は速かった。まるでこうなることを予測していたかのようだ。
ああいう台詞が出るということは、きっと予測していたのだろう。
オグマがシシヒコのふところに跳び込む。オグマが握っている刀は短いがその距離で突き立てれば腹に刺さる。
しかしシシヒコも平生とは打って変わって戦場では一流の戦士だ。
彼はすぐ間合いを詰められたことに気づいて剣の柄を逆手に持ち替えた。オグマの背中に向けて振り下ろそうとした。
オグマがふたたび刀を掲げて受ける。
再度金属音が鳴り響く。
刀を押し上げた。シシヒコの手首を刃がかすめた。けれど大した傷にはならない。
シシヒコが足を振り上げる。あと少しのところで蹴りが決まるはずだったがオグマは後ろに跳びすさった。
一拍間があいた。
オグマは右手に刀を握ったまま腕をまっすぐ伸ばした。刀を地と水平にして突進した。
シシヒコは両手で握り直した剣の刃でその刀を受けた。
防いだ。
そう思ったのも束の間だ。
オグマがわざと刀から手を離した。
反発する力が急になくなった。シシヒコは力の均衡を失って前につんのめった。
オグマの刀が床に刺さる。
けれどオグマは何ら不利にはなっていない。間合いは詰めた。徒手空拳でも攻撃が当たる範囲だ。
体勢を崩したシシヒコの腹に蹴りを決めた。
シシヒコが息を詰まらせて背中を丸めた。
オグマは今度その背に肘を叩き込んだ。シシヒコがかがんだところを、手首を踏みつけるように蹴った。
シシヒコの手から剣が離れた。オグマはその剣を遠くへ蹴り飛ばした。
それでもシシヒコはすぐに体勢を立て直した。オグマを睨みつけてマオキの戦士に代々伝わる武術の構えを取った。
オグマはまっすぐ対峙して言った。
「殺気がぜんぜん隠せてない。すぐに察したぞ、これは今夜殺されるかも、ってな」
余裕綽々の笑顔だ。息もまったく上がっていない。楽しそうですらある。
ナホはまずいと思った。作戦は失敗だ。最初から気づかれていた。その時点で自分たちはもう負けていたのだ。
かと言ってここで折れるわけにもいかない。
シシヒコとオグマは腕力だけなら対等に渡り合えると思う。だがオグマの方が速い。このままではシシヒコが倒されるかもしれない。
見ていられない。
ここには自分と彼らの三人しかいない。
自分が動くしかない。
ナホは立ち上がった。
オグマはナホの動きに気づいているようだ。こちらに視線をよこした。
好都合だ。
灯台に手を伸ばした。
ナホが手をかざすと火が消えた。
「何す――」
反対側の壁際、オグマの背後に火を燈した。
床に光るものが見えた。オグマに弾き飛ばされて転がっていたシシヒコの剣だ。
それを見たシシヒコが走り出した。
オグマがそんなシシヒコに気を取られている間に、ナホはもう一つ炎の玉を出した。炎の玉にオグマの刀が照らし出された。
ナホも駆け出した。オグマの刀に手を伸ばした。
オグマがナホとシシヒコを交互に見てどちらにも視線を定められずにいるうちにナホが刀の柄をつかんだ。
シシヒコがオグマに向かって剣を薙ぐ。オグマが一歩下がって避ける。
その、一歩分ナホの方へ向かってきた背中に、ナホが刀を突き立てる――はずだった。
オグマはさらに一歩引いた。ナホの斜め前に飛び出すように下がってきた。
急な接近に驚いたが勢いがつきすぎて止まることもできない。
まっすぐ前に突進していたナホの体に、オグマが横から手を伸ばした。
腹に腕をまわされた。上半身をきつく抱かれた。
もう片方の手がナホの手をつかんだ。太くたくましい指がナホの細い指をこじ開けるようにして刀を取り上げた。
刃が、ナホの喉元に突きつけられた。
「ナホ様!」
シシヒコが声を上げて止まった。
「動くなよ」
オグマが、今度こそ余裕のなさそうな低い声で言う。
ナホは身動きが取れない。締め上げるつもりではないかと思うほどの力で抱え込まれている。首筋に刃が触れていることもある。切れるかもしれない。暴れたいがほんの小さな抵抗も許されない。
しまった。逆に足手まといになってしまったか。失敗した。
ナホは固く目を閉じた。
「こいつがどうなっても――」
しかし、そこで、だった。
「――あ?」
オグマの言葉が止まった。
次の時腹にまわされていたオグマの手が離れた。
解放された。
何が起こったのだろう。
状況を確認しようと思って目を開けた。
オグマに胸をまさぐられた。
「ちょっと待て、ちょっと待てよ」
そこにあるのは女性の柔らかな乳房ではない。硬く薄い少年の胸筋であり、握ってもつかめる部位はない。
戸惑っているうちに襟をつかまれた。着物の前を割り開くように広げられた。胸がはだけて素肌に冷たい空気が触れた。
「女じゃない」
ナホは舌打ちをした。
こうして唖然としている間に討ち取ればいいものを、先ほどの炎の玉に照らし出されているシシヒコの体も硬直していた。その顔は驚愕と絶望の色をしていた。
最悪の展開だ。
とはいえオグマも戦意を失ったらしい。
「おい、どういうことだ、説明しろ」
彼は、刀を下ろした。
「俺は何と結婚させられたんだ?」
ナホはその場に両膝をついた。これ以上の抵抗は無駄だと悟ったからだ。
「もういい、シシ」
先ほどの祝言の場で聞かせていた高く作った声ではなく、素の、少年であるところのナホの地の声で、そう告げた。
「俺たちの負けだ。説明してやれ」
オグマが目を丸くして、あからさまに驚いた顔でナホをまじまじと見つめた。彼が動揺しているところを見るのはこれが初めてだ。しかし何にも嬉しくなかった。
「ばっかじゃねーの!」
吐き出すように言った。
あちこちに炎の玉を浮かべて明るくなった部屋の中、あぐらをかいているオグマの前で、ナホとシシヒコは二人並んで正座をしていた。二人揃ってうなだれていた。
「そんなのナホを男の王として立てればよかっただけの話じゃねえか。ただでさえ神の力とかいう面倒臭いもんを背負ってんのに、なんでさらに話をややこしくすんだよ」
「その神の力という重いものを背負っているからこそ女王として――」
シシヒコは説明を再開しようとしたが、ナホが止めた。
「よせ、もういい、バカで。オグマの言うとおりだ。マオキ族、というか、山の民はみんなバカなのかもしれない。だから戦に負けたのかもしれない」
「いやいやいや、そこまで結論づけちまうのはちょっと早いぜナホちゃん」
オグマが手を振る。
「どっちにしろカンダチ族は冬になる前に山を攻略したいと思っていた。ナホが男だろうが女だろうが戦にはなったはずだ。カンダチの戦士が戦に負けるわけがない。戦ったあとも、ホカゲの他のお姫様、いないんならマオキのお姫様を、って言うところまでは一緒だっただろうな。そう、ここまではもうお前らのあらかじめさだめられていた運命ってやつだ」
思いの外饒舌だ。マオキの村に来てから祝言を挙げるまでのおとなしさはすべて演技だったと見える。
しかしナホはそんなオグマの語り口調に惹かれるところがあって素直に聞き入っていた。自分に対してへりくだらない人間と話すのが初めてだからかもしれない。しかもオグマには気取ったところがない。
「問題はそのあとだ。なぜわざわざ俺を殺す? 強くて賢くてかっこよくて使い道もいろいろあるだろ。最初から俺にナホは男だから結婚はできませんと言っておけば、何にも、これっぽっちも、微塵も争うことなく、俺ははいそうですかと言ったのに。苦労してすごく強い俺を倒す必要はない」
「お前自己評価めちゃくちゃ高いな」
オグマの彼自身の捉え方については置いておいて、質問する。
「仮に俺が男の王だったとして。その場合も、カンダチ族からマオキ族に送られたのはお前だったと思うか?」
「ナホ様、何のお話ですか。余計なことをおっしゃるのはおやめください」
「正直なことを言う」
シシヒコの制止を無視して、ナホが打ち明ける。
「俺は今オグマはすごく話しやすいと思っている。こんなことならオグマの言うとおり最初から全部説明しておけばよかったと思うくらいだ。だがカンダチの他の人間ともこういうふうに会話できるんだろうか? 今でこそ――お前だからこそ、俺が男だという話ができるんであって、話の通じない奴に女王が男だとバレたら困るんだ」
「そうだな」
オグマが肩をすくめた。
「カンダチの他の人間がどんな反応をするかはさておき。ナホが男だと知れ渡っていたとしてもここにいるのが俺だったか、という話なら、そうだ」
「なぜ? アラクマはお前を俺の夫として使ってくれと言っていた、俺を女だと思ったからだろう?」
「お前らが手の内を明かしてくれたから、俺もカンダチ族の弱点をひとつ教えてやろう」
人差し指を立てる。
「カンダチ族は今部族全体が二つに割れている。今は一応落ち着いたが、一時は内戦状態だった」
「仲間割れか。なぜ」
「ざっくり言うと、アラクマ派とオグマ派でどちらを族長として認めるかどうかで仲が悪かった」
「そういうことか」
ナホは溜息をついた。
「つまり、アラクマはどこかで身内にいる敵のお前を追い出したかったんだな」
「そう、それで、マオキ族に送り込むなら、カンダチの民みんなも納得する格好がつくと思った」
「俺たちはお前を押しつけられたということか」
「そうともとれるな」
シシヒコが自分の額を押さえた。
「じゃあ、僕らはただ飯食らいを一人抱え込んだだけなんじゃ――」
「そのとおり。殺したかったら殺しても大丈夫だ」
オグマが笑う。
「アラクマは俺が殺されても痛くも痒くもない。むしろ好都合だ。俺をこの世から消せて万々歳だろ。カンダチ族の中にいる俺の味方もあらかたねじ伏せられたところで、しかも強引にマオキ族との戦に駆り出されたから、もう一度アラクマたちとやり合う気力はない。俺を駆逐し山を攻略し今のカンダチ族は平和だ、めでたしめでたしだ」
「なんてことだ……」
「もともと俺は人質として機能しちゃいなかった。悪かったな」
ノジカとオグマは対等な交換ではなかった。マオキ族は、ノジカを奪われた上に、オグマを押しつけられたのだ。カンダチ族にいいように使われているということだ。
腕組みをして唸ったナホへ、オグマが言う。
「ここでひとつ提案だ。さすがの俺もただ飯食らいは申し訳ない。それに、さっきも言ったとおり、俺は強くて賢くてかっこいい、使い道のある男だ。お前たちのために働ける」
「何をして?」
「俺はアラクマが嫌いだ。あいつには恨みこそあれ恩なんてひとつもない。あいつに束ねられた今のカンダチ族には反吐が出る、俺はカンダチ族を作り直したい。――そして、ナホ。お前も、アラクマが嫌いだ」
ナホの心臓が跳ね上がった。
「大事ないいなずけを奪われた。取り返したいとは思わねーか?」
「思う……」
「俺とお前の利害が一致した。俺とお前は協力関係になれる。――手を組んで、やることと言ったら、ひとつだろ」
ナホは目を丸くして呟いた。
「アラクマを倒す……」
「そういうことだ」
「ちょっと待って」
そこで我に返ったのかシシヒコが割って入ってきた。
「分かった、オグマとナホ様の気持ちが同じなのは分かったよ。でも僕はマオキの族長として頷くことはできないな。マオキ族は山の民の筆頭で、そんな簡単に動いたりはできない」
「おっと、そいつはどうかな」
オグマの目が輝く。
「山の民の筆頭であるマオキ族だからこそ、だろ」
「どういうこと?」
「マオキ族の敗北は山の民の敗北だ。マオキ族は筆頭でありながらカンダチ族に女や季節の収穫を差し出すはめになった。このままでいけば頻繁に貢ぎ物を求められむしり取られるはめになる。言うなればマオキ族はカンダチ族の下に転落してるんだぞ。ここはカンダチ族ともう一戦交えてマオキ族の威信を取り戻したい、そう思わないか?」
シシヒコが黙った。考えているようだ。戦士とは言えもとは温厚な彼のことなので、すぐに戦うとは言えないのだろう。ましてマオキ族は本当に山の民でもっとも大きな部族だから、族長として軽々しく民を動かすとは言えないに違いない。だがオグマの言うことには一理ある。マオキ族の名誉はアラクマに傷つけられたのだ。
ややあって、シシヒコも頷いた。
「そうだ……今のままじゃマオキ族はカンダチ族の奴隷みたいなものだ。他の民にも示しがつかない。何とかして、もとの強いマオキ族を取り戻して、みんなに力を見せつけなければ……」
「決まりだな」
オグマが手を打った。
「三人で手を組むぞ」
ナホは大きく頷いた。
「俺はカンダチ族の情報なら何でも話すし、戦のためにマオキ族が有利になる策を考えるし、マオキの戦士どもをカンダチの戦士たちに立ち向かえる強い一団に育て上げてやる。だが俺は今はまだ部外者だ、神であるナホと族長であるシシヒコの協力が絶対に必要だ」
オグマの言葉は信頼するに足ると思えるほど力強い。
ノジカを取り戻せるかもしれない。
「アラクマを倒そう」
オグマが手を出した。
ナホも手を出してオグマの手の上に重ねた。
少し遅れて、シシヒコも手を出した。
三人の手が重なった。
「次こそ勝つんだ」
冬がすぐそこに迫っている。昼がひととせでもっとも短い季節を迎える。
ナホは、拝殿の床に座って、大きく深呼吸をしていた。
秋の終わりの空気は冷たい。部屋の四隅に火を燈したが暖まるにはまだ時間がかかりそうだ。けれどナホにとって寒さは大きな問題ではない。肺腑を満たす空気が頭を冴えさせる。感覚が研ぎ澄まされる。
ゆっくり、まぶたを持ち上げた。
正面にしつらえた祭壇の中央、銅の鏡が窓から差し入る西日を弾いてまぶしく輝いている。
黄昏時、逢魔が時――あちら側とこちら側が交差する。
深く、首を垂れた。
「かしこみかしこみもうす」
そして、右手に携えていた笹葉を掲げた。
腰を持ち上げる。右足を一歩前に出し、床を踏み締める。
笹葉の茎を、指先を使って回した。笹葉の先端がくるりと円を描いた。それに合わせて火が燃えた。宙に炎の輪ができた。
ナホの笹葉が動くたびに炎が散る。
あちら側とこちら側の境目が、なくなっていく。
――ナホ。
あたたかさを感じる。部屋の空気が暖まってきたからでも、体を動かしているからでもない。
誰かが背中を抱き締めている。
――可愛いわらわの子。
声が、聞こえる。
亡き母曰く、この声はどうやら毎朝毎夕にこの拝殿で舞うことを義務付けられた代々の女王だけに聞こえるものらしい。母亡き今、当代ではナホにしか聞こえないものだ。
この拝殿の裏にはかつて神の火の山の女神が怒りに任せて人間を焼き殺そうとした時に降り注いだ巨大な炎の岩がある。人々は女神の怒りを忘れぬようその岩を女神の現身として祀った。そしてその前にこの拝殿を建てた。
拝殿で毎日二度女王に舞うよう言ったのは女神自身だと聞く。岩に祈りを捧げていた最初の女王がここでその言葉を聞いて以来の伝統らしい。
女神がなぜ舞を所望したのか、それもどうして日に二度も行なうよう指示したのかは、分からない。しかし代々の女王は忠実にそれを守ってきた。女神の本意を解体するようなことがあってはならないのだ。
いずれにせよ、ここにいれば女王と女神の気持ちは通じるように思われた。こうして舞えば女神の機嫌は良いのだと思えた。
現に彼女は楽しそうだ。
――今日も来た、わらわの愛い子。
忘れはしないと、ナホは心の中で囁く。ここで舞っている時間はナホにとっても大事な時間だ。この世の憂いを忘れ、自分自身や女神と向き合う。心を落ち着けつつ、同時に、冬の寒さに固まりつつある体をほぐす。そして女神に守られていることを感じる――自分が女神の系譜に連なる者であることを確信する。
神は、そこに在る。
手首を返す。一歩を踏み出す。炎の玉が踊る。
幽玄。閑雅。あはれにしてをかし。
――可愛いナホ。わらわのすべてを。この火の山の何もかもをそなたに。愚かな人間どもを束ね頂に立つ者としてのそなたを。わらわが。可愛いナホ。ナホ――
しかし静寂は打ち破られた。
両腕を広げ、左手の指先に視線を動かした時、空気が震えた。
ナホは動きを止めて両目を見開いた。
――この、愚かな人間め――
そう言い残して、気配が、消えた。
何が起こったのだろうか。
ナホは舞うのをやめて腕を下ろした。
次の時戸の方から音がした。
誰かが戸を開けようとしている。
驚いて振り向いた。今の今までこんなことはなかった。ナホと女神の清浄な舞の時間を妨害する人間など、この山には存在しないはずなのだ。
山の人間ではなかった。
戸の隙間から顔を見せたのはオグマだった。
ナホは祭壇に手を伸ばした。鏡の横に据えられていた鉄の剣を手に取った。
剣の切っ先を向けると、オグマはすぐに両手を上げた。
「なんでまたそんな物騒な」
「何しに来た」
「お前が毎日朝夕に舞ってると聞いて、見せてもらいたいな、って思っただけだけど。村の人間に訊いたら、ここだ、って言うから」
「誰がここに来ていいと言った」
「誰も。長老会のババアは行くなと言った」
「行くなと言われたら来るな」
宙に浮いていた無数の炎の玉が、ナホの言葉に反応するかのように大きく燃え上がった。オグマが頬を引きつらせた。
「あっつ」
「ここは神聖な場だ。ホカゲの娘にしか入れない場所なんだ。異民族どころか、マオキの者ですら選ばれた人間が念入りに禊をしてからでないと許されない」
炎が、燃え上がる。女神の警告だ。
「出ていけ。神が本格的にお怒りになる前に」
剣を突きつけた。オグマは両手を上げたまま一歩ずつ後ろに下がり、やがて後ろ手に戸を開けて、拝殿の外に出た。
ナホも一緒に外へ出た。途端部屋の中の宙に浮いていた炎が消えた。宵闇の中、祭壇の小さな炎だけが揺れた。
階に立ったまま、オグマが問う。
「そこまでやることか? お前らの神が怒ったら何がどうなるってんだ」
「山から炎の波が噴き出して炎の岩が降り注ぐ」
山の民なら誰でも知っていることだが、オグマは「何だそれ」と眉根を寄せた。
「炎の波? 岩? って、どういう――」
「そのまんまの意味だ。山が火を噴く、そしてふもとのすべてを焼き払う。母上や長老たちが言うには、この世の終わりらしいぞ」
薄暗い中だが、オグマの身なりを確かめる。丸腰のようだ。さして抵抗する雰囲気でもない。
ナホは剣を下ろした。それでも念のため右手で柄を固く握り締めたままだが、おそらく使う機会はないだろう。
「迷信じゃないのか? だってそんなもん過去に来てたら今ここにお前らの村はないだろ」
「ところがそのこの世の終わりを止められる者がある。それが、ホカゲの女王だ。ホカゲの女王が舞を舞うと、女神の怒りが静まって、炎の波が止まるらしい。だから、ホカゲの娘は山の民の長として大事にされている」
母は常々語っていた。
――この力は人を守るためにあるもの。火の山の神がお怒りになり、炎が荒ぶる時にこそ、この力を使うのだ。穢れを祓いこそすれ、穢れが増すようなことをしてはならぬぞ。
口を酸っぱくして言っていたので覚えてしまった。今もナホの心に沁みついてけして離れない。
「なるほどな。山の民にとっての女王はまつりごとをする存在じゃあないということか」
「まあ、そうだな。女王の一番の仕事は、女神のために舞を舞うことだから」
「つまりお前は、毎日朝晩二回も女神様のご機嫌窺いをするために女王をしているというわけだ」
言われてから気づいた。彼の言うとおりだ。女神は毎日顔を見せれば機嫌を良くしてくれるということなのかもしれない。
「そんな恰好で本当に女王の務めを果たしていると言えるのかどうかは疑問だけど」
自分の体を見下ろす。男物の着物の上に女物の着物を羽織っただけの恰好だ。当然化粧もしていないし、髪もひとつにまとめた状態である。生前の母が、日課なので無理なく続けられる恰好でよろしい、と言ってくれたのに甘えてのことだ。
「女神様は俺の顔が見られればいい、可愛い息子の顔を見られれば服装なんて何だっていいんだ、たぶん。だめならきっと怒るんだろう、今のところ怒られたことはないから大丈夫だ」
「薄々感じてたけど、お前も大した自信家というか、王子様なんだな」
彼は階を下り始めた。
「軽々しく来て悪かったな。さすがにお前らの神を愚弄するつもりはない。そこまでちゃんと説明してくれれば遠慮したのに」
ナホは拍子抜けした。オグマは話せば分かる男らしい。そう思うと、秘密主義的なところのあるマオキ族の方がどこか閉鎖的で乱暴な気がしてくる。
「また今度見せてやる」
「そりゃどうも」
地面に辿り着いてから、オグマはナホを振り返った。
「それ」
顎でナホの手元を指し示した。そこには鉄の剣が握られていた。
「いつも持って歩いてんのか」
ナホは首を横に振った、
「祭壇に供えてある。こういう高価で貴重なものはまず女神にお見せするのが習わしなんだ。これだけじゃなくて、塩や絹なんかも仕入れたらまずは祭壇に――」
「鉄は銅より強い」
薄闇の中、オグマの目が光ったような気がした。
「カンダチ族には、今のところ、ない。山には、どれくらいある?」
唾を飲んだ。
「でも、確か、今回の戦でカンダチ族に贈るという取り決めが――」
「馬鹿正直に全部渡すな。もしくは贈るのの倍の量蓄えておけ」
「鉄の交易は、舞を舞うだけの女王には口を出せないぞ」
オグマが肩をすくめた。
けれどナホは続けた。
「シシヒコだったら、マオキ族にこういうものを献上してくる部族に指示を飛ばせるけどな」
「……よーし、そうこなくっちゃな」
太陽が空の低いところで輝く。早朝の森の冴えた空気はひえびえとして胸の奥の深いところまで染み渡った。
夜明けの奉納舞が終わるとナホは自由時間だ。
森の中を走る。地に落ちた黄金や紅の葉を刻むように踏んでゆく。
森はそろそろ色を失う。人間が少し息をついている間に最後の命を散らす。あともう少しですべてが白銀の雪に閉ざされる。
その前に始めないといけないことがある。
やがて視界が晴れた。
広い空間に暗い色をした巨大な岩がいくつも転がっている。そしてその間を縫うように水が流れている。神の火の山の雪解け水だ。この川の行く先が例の大河となる。
水は透きとおっている。錦の木の葉を呑み込みつつも川底の小石を隠すことはない。けれど周囲の岩に打ちつけられるしぶきは大きな音を立てて激しく飛び跳ねている。この水は冷たく厳しく時として人を翻弄する。
だが今はシシヒコがひとりぼんやりと日課の沐浴をしている。
ナホは木の陰に身を隠しながらシシヒコの様子を窺った。
隆起した肩の筋肉はたくましく、引き締まった背中の筋肉は勇ましい。全体的に肉の鎧をまとっているようで細身のナホにとってはうらやましい。自分があの鋼の肉体をもっていればできることは格段に増えるだろう。これでいて普段は活用せずナホや妹の顔色を見ておどおどしているばかりなのがもったいないことこの上ない。
あの体が欲しい。
シシヒコが振り向いた。気づかれたようだ。
「なにか?」
目が合ってしまった。
木の陰から太陽の光の当たる川岸へ移動する。水の中に突っ立ったままのシシヒコと向き合う。
「頼みがある」
「何ですか、急に、改まって。いつものようにご下命くださっていいんですよ」
「いつも俺がお前に命令しているみたいなことを言うな、俺がいつそんな偉そうな態度を取ったと?」
「はいはい。で?」
「強くなりたい。武術を教えてほしい」
シシヒコが目を丸くした。
「つまり、僕らマオキの守り人一族をお払い箱に――」
「お前後ろ向きすぎるぞ。別にお前がいらないとは言っていない」
「では、なぜ。ナホ様が強くならなくても、僕が全力でお守り致しますのに」
一度拳を握り締めた。
アラクマと対峙した時のことを思い出した。といっても自分の有り様は情けないもので、とてもアラクマにまっすぐ向き合えたとは言えない。しかも独断で山の民を不利な状況に陥れかねないことをしたので、ひとに話せることではない。
けれどナホは一生忘れられそうにない。
圧倒的な力でノジカを奪われた記憶だ。
「俺が、この手で、守りたいから」
兄であるシシヒコの前でその名を口にすることはためらわれたが、
「お前が、いなくても。俺が、自分で。大切な人、誰か一人だけでも、守れるようになれたら。と、思ったから」
シシヒコは分かっているのだろう。静かに息を吐いて頷いてくれた。
「じじばばには内緒ですよ。ナホ様は女神なんですから、血なまぐさいことをと思われたらまたお小言です。ましてや今はオグマの件でみんなかんかんなんですからね」
「もちろんだ、だから今ここにこっそり来たんだろう」
「分かりました。僕も、今回の戦でいつでもナホ様のお傍にいられるわけではないんだと気づいて落ち込んでいたところですから。ナホ様がご自身でできることが少しでも増えれば安心します」
川から上がってきた。水を滴らせつつ裸足で岩を踏んだ。
「――という前に――」
「話は聞かせてもらった」
第三者の声がした。
シシヒコの目線がナホの後方少し遠くへ移動した。ナホも目を移した。
ナホが先ほど身を隠していた木陰で、オグマが一人腕組みをして笑いながらこちらを眺めていた。
「盗み聞きは感心しないなあ」
「お前ら二人の会話を邪魔しないでやったんだろ」
川岸へ出てくる。ナホのすぐ傍に立つ。
「お前、明るいところで化粧を落とした顔を見ると普通の少年って感じだな」
「そんな用事かよ」
「いやいや。お前が冬至祭りの舞の練習をしてるって聞いて、今度こそ覗きに行けないかと思ったんだが、また長老会のババアに止められてな。女王様に直談判すれば見られるかと」
「祭は準備の手順も全部決められているんだ、俺にどうこうできると思うな。俺はじじばばにわがまま言いたい放題の王子様だと思われたくない」
シシヒコが「えっ、いまさら?」と呟いた。ナホはシシヒコを睨んだ。
「別に、どうしても見たいなら今ここで舞ってやってもいいけど。清浄なお社の中だからだめなんだ。というかそもそも本当は大事なのは女王であってホカゲの男なんか一般の山の民なんだからな、外じゃあ何をどうしたところで何も言われない」
「俺のために舞いたいって言うならぜひとも」
「貴様が。俺に。どうしても舞ってくださいと言うなら。舞ってやってもいいけど」
「けちけちするな、減るものじゃないだろ」
「遠慮しろよ、穢れを祓う舞だぞ。先祖代々ホカゲの娘だけが舞ってきた舞なんだぞ」
「えー、見たい見たい。舞ってくださいお願いしますう」
オグマはどうもアラクマに比べて軽い。調子を崩されたナホは深く溜息をついた。
「ちょっとだけだからな」
数歩分後ろに下がって二人と距離を取った。
本来なら笹葉を持ってやることだ。常に携帯しているわけではないので今は手元になく少々やりにくいものを感じるが、とりあえず、ナホは持っているつもりで右手を軽く握った。
大きく息を吸った。
深く礼をした。
「かしこみかしこみもうす」
掲げるように両腕を前へ差し出す。肘をまっすぐ伸ばして大地と水平にする。
一歩を前に踏み出す。地を擦るように足を運んで踵で砂利を踏み締める。小石が音を立てる。足元が悪い。簡単に許してやるのではなかったと後悔したが、だからといって自分で言ったことをすぐ撤回するのもナホの性分ではない。
息が静まる。川の音が遠くなる。笛の音が聞こえてくる気がする。
目線を遠くに移す。笹葉の先を見つめる。さらにその先にいるのは母なる山の女神だ。
左手を斜めに持ち上げて胸を開く。同時に、一歩斜め前に踏み出す。
目を左手に移した。
爪の先まで気を張って伸ばした指に火が燈った。
左手を移すと炎の玉もついてくる。今は朝なので分かりにくいが、夜だと空に光の弧を描ける。
幽玄。閑雅。あはれにしてをかし。
見えぬ笹葉の先に目をやる。笹葉の先にも火が燈る。
笹葉の向こう側にオグマの顔が見えた。
ナホは彼に向かって微笑みかけた。
オグマが唇を引き結んだ。
さらに一歩、斜め前に足を運んだ。
左手の指先から離れた炎の玉が宙に浮かぶ。
左手を斜め下に。そこにまた火が。止まる。浮かぶ。燃える。祓う。願う、祈る、平安を、とこしえの栄えを。神の火の山の母に変わらぬ忠節を。
笹葉を薙ぐ。小さな炎の玉が連なる。
血潮の息吹を感じる。
またもうひとつ、前へ進んだ。
足がその場で大地に小さな円を描いた。
開始地点に辿り着いたところで、両足を揃えた。
「かしこみかしこみもうす」
首を垂れ、まぶたを閉ざし、閉めの言葉を口にした。
炎が消えた。
顔を起こし、目を開けた。
オグマが呆けた顔でこちらを見つめている。
「……なんだよ。お前が見たいって言ったんだ、やってやったんだから感想ぐらい言え」
「もう終わりか。ずっと見ていられると思ったのに」
「冬至祭の晩に大勢の前でちゃんとした恰好で一晩中やるから楽しみにしていてくれてもいいぞ」
「それまで俺はここにいるのか」
ナホは一瞬言葉を詰まらせた。
そんなに早く帰りたいのだろうか。
次の反応に悩んでいるうちにオグマが自ら続きを言った。
「まあ、その辺はこれから作戦会議だ。いろいろ準備をしていればひと月ふた月なんてあっと言う間だろうし、それくらいは待ってやってもいいか。だいたい長というものは気が長くなきゃ務まらない」
そして、「案外早く済みそうだしな」と笑う。
「祝言の時も思ったんだが――やっぱり、これだな」
「何が」
「体の芯がまっすぐだ。体幹ができてる。足腰もしっかりしている。毎日そういう動作をしてきたかいがあったな」
一本だけ立てた人差し指を上下させ、ナホの体幹をなぞるように宙へ線を引く。
「いいか、ナホ。喧嘩に勝てる奴っていうのはな、何も腕力がある奴を言うんじゃない。自分の体の動かし方を知っている奴のことだ。お前はその基礎がもうできてる」
ナホは思わず笑みを浮かべた。
「俺、強くなれる?」
「俺が勝てるようにしてやろう」
胸の中に温かいものが広がった。体が熱くなった。
今度こそノジカのために戦える。
しかし、ナホはその笑みをすぐさま消した。
「それに、お前のその神の力というものが強力な武器になる」
オグマも笑っていなかった。彼もいたって真剣だ。
「その炎、お前が自由に出し入れできるんだろ。それでいてお前だけが火傷しない」
唾を飲み込んだ。
「それで人間を焼き殺せる」
母の言葉が心の中によみがえってきた。
――この力は人を守るためにあるもの。穢れを祓いこそすれ、穢れが増すようなことをしてはならぬぞ。
喉が震えた。
「この力は――」
母から授かった、清らかな力だ。
「舞の時に使うもので、戦のために使うものじゃない。誰かを傷つけるためにあるものじゃない」
ナホは、それだけは頷かなかった。
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
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第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
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