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日和とフィーカ〜0杯目〜
前書きとして
僕はコーヒーを飲むのが好きです。だからといって、コーヒーについて熱く語れるほどの想いや知識があるわけではありません。ただコーヒーが「コーヒー」という記号として好き、なのです。
気に入った豆があれば購入し、自分好みに挽き、ただ自分一人の空間で、自分の一日のうちの何分、何時間かをその香りや風味で満たす。種類が変わっては自分の中でしっくりくる淹れ方を模索し、新たな香りを見つけ出す。そうやって自宅で淹れるコーヒーも非常に楽しいものではありますが、上手くいかなくていじけてしまうこともしばしばあり、もっぱら外で嗜むものとなっています。いや本当に難しいのです…。
なぜコーヒーをこれほど飲むようになったのか、思い返してみるものの、特にこれといったきっかけは思い出せません。思いだせないというよりも、無い、といった方が正しいかもしれません。
ただ記憶している中ではカフェ巡りという洒落込んだ遊びを始めてから、初めは紅茶、そして徐々にコーヒーへとシフトしていったような気がします。そう考えると、僕のコーヒーの歴史はカフェ通いの歴史と等しいものなのでしょうか。自分に問いかけておきながらですが、勝手にしっくりときている自分がいます。
歴史もとい人の記憶というのはそういうものなのでしょう。何かと何かの関係性というものは、それらを寄り添わせていたいという意志をもって作られるものです。例えば、とあるカップルが自分たちのただの出会いを運命と呼ぶようにね。
この「運命」的な僕とカフェとコーヒーと、それに付随するくだらない日常の歴史、さらには口下手な男の小言を、ちょっとしたフィーカとして飲み干していただければこれ幸いです。
日和とフィーカ
フィーカとは、スウェーデンの文化です。
コーヒーと甘いお菓子なんかを用意し、家族や友人と言葉を交わしながら一緒に過ごす時間がそのように呼ばれています。会社でもフィーカの時間は欠かさずに設けられていて、同僚と仕事内容以外の話題でコミュニケーションをとる時間となっています。とても大切にされている文化なのですね。
日本ではそのような文化はなかなか無いように思いますが、似たようなタイミングはいくつもあります。
かつては都市部に集中していたカフェや喫茶店は、近年、地方や郊外でもその数を増やしつつあります。人気のお店へ友人と共に足を運び、華々しいスイーツやドリンクに目を輝かせ、興奮交じりに言葉を交わす。僕を含めそのような人は沢山いることと思います。
ただ○○のスイーツが目的だから写真を撮って食べ終わったらバイバイ!
なんて人はそうそういないとは思います。食事や空間への感動が落ち着いた後、きっと誰しもが他愛もない会話を繰り広げるはずです。
そこで過ごす時間が長いか短いかなんて、また他愛もない会話の中身がどうだったなんて、きっとどうでもいいことなんでしょう。僕がいて、あなたがいて、2人が同じ空間で言葉なんていう曖昧なもので繋がるということが大切なんです。そしてその場所は、中身なんてものは、歴史として積み重なっていくこととなるのでしょう。
これは僕たちにとっては、日常的な行為ではないかもしれませんが、それでもこのフィーカのような時間は同じように大切なものとして思われているはずです。
この「日和とフィーカ」ですが、もしよければ、1杯のコーヒーとちょっとしたお菓子をひろげながら、僕と言葉を交わすように読んでみたらいいんじゃないかなぁと思います。(僕が嬉しい)
〆。