何も成し遂げられない自覚があるから誰かと関わってその世界のなかで揺れたり沈んだりして生きていきたい
ひとりの時間のなかで、何かを作って満足したり嘆いたり推敲したり褒めてあげられるなら、その時間を大切にしたらいい。その時間をずーっと生きられるなら、本当に誰にも迷惑をかけずに、誰にもなんの影響も与えずに生きていける。そうなれば周りも自分もずっと幸せを維持できて、心底有意義な人生だと思う。でもわたしにはそれは向いていない
毎日予定があるのが本当は理想で、一部はそれが自分のための、例えばわたしなら映画、ネイル、美容室、料理だとかなんとかの、ひとりで完結できる予定でもいい。それでもそれがずっと続いて、他には何もなくて、が続いた時には、きっとメンタル不調を起こして誰かに迷惑をかけると思う(ひとりで酔っ払って誰かと話したくなって友達に連絡するとか)
忙しく仕事をして、会いたい人にあって、家の最低限のことをして、それでもできた隙間の時間に自分を満たす行動を取るのが好きだ。みんなが好きなワードを使うと、わたしの自己肯定感はこうした時間の使い方から生まれる。自分を幸せにする最大限の時間の有効活用ができて、そのうえで自分だけのための時間も作れるんだから、それは褒めるしかなくて、だから自己肯定感が少し上がる。わたしは自分の自分で醸成する自己肯定感の2割くらいはこれでできている
なんでこう考えるようになったか、遡ればたぶん大学時代、もっというと高校時代になる。バイトをして塾にいって大事な友達と何時間も話すのが好きで、成人したらお酒が加わって、もちろんママとキッチンドランカーになる時間も、家族との会話も好きで、当たり前に自分の時間がなかった。それでもバイト代のおかげで同世代の人よりはお金があったから、それを趣味に使うのも好きで、ひとりで買い物も行くし映画も見るし、大学生の頃は駅から大学までの間の焼肉屋さんでひとりランチするのも好きだった。誰よりもバイトしているのにずっとお金がなかったけどそれが幸せだった。いまでは一人でバーにも居酒屋にも行くしどこにでも行こうと思えばいける。でも、それは能動的にやっているのももちろんなんだけど、誰かとたくさんかかわらないと自分が嫌になるなんて、自分のかわいくもかなしい性質に気づくのは、入社とともにコロナが流行ったことからだった
神奈川の実家と、神奈川よりの都内の就職先を往復して仕事をするつもりだった。コンサルだから、海外はなくても日本全国どこでも行く可能性があった。心構えをしなきゃいけないとずっと思ってて、寂しさと、不安とで大学4年の終盤を過ごした。でも3月には、コロナが流行りだした
あっという間にリモートに切り替わった。1日しか出社しなかった。コンビニの夜勤も夜のバイトもないから社会人としての規則正しい生活が待っていて、しかも家から出られなくなった
9時に研修が始まって、18時ぴったりに終わる。最初は昼休憩の1時間で時短ダイエットランチを作るのにハマって、ママがいるときはそれに巻き込んで楽しく忙しなく過ごした。でもそれは日中だけの話だった
夜はママと料理してお酒を飲んで家族にご飯をあげて、としていればいいのだけど学生の頃より明らかに使える時間がふえた。隙間時間の家トレも、時間がありすぎてメニューが増えた。いいことだけど、わたしの精神衛生上はまったく良い影響がなかった
1年目のうちに都内で一人暮らしを始めて、しばらくしてコロナが落ち着いて、それでも自分の時間が余りすぎていた。冒頭の幸せな暮らしができる人なら、それなりにお金を稼いで好きなことに没頭して、そうしていれば時間と人生が過ぎていくんだからいいと思う。本当に羨ましいし尊敬もする
でもわたしの場合はそうじゃない。誰かとの関わりで感情が動いて、人に話したいことができて、そうやって時間が過ぎていくのが気持ちよかった
もっと昔の学生時代は創作をするのが好きだった。小説を書いて、どこかに投稿して、それなりにリアクションをもらうのが好きだった。自分で自分のためだけに時間を使って満足しているといっても、多少はいいねの数が気になるし、リアクションがあればあれだけ嬉しい。結局は自分の趣味を通じて、他者と関わり、他者からの評価で楽しむってことだと思う
でも社会人になるとそういうことは仕事じゃなくなることの方が多い。自分で資料を作ってお客さんに提案してプロジェクトを進めて、はい円満に終わりました、なんてない
チームのひとと仕事の話や他愛無い話をして楽しいけれど、本当に心を開いて、なんのつながりも持たなくてもいい人とつながりを持ち続けられる会話や時間に価値を見出してることに、その時になってようやく気づいた
わたしが隙間時間でやっていることは、それこそが自分を自分たらしめていると思っていたのに、本質は必ずしもそこだけではなかったと気づいた
社会人になったら地元や大学やどこかで知り合った人なんて、別に重大な用事があるわけでもなければあえてかかわらずに生きていける。でも会社や家族は違う。そういう、制約のある関係のひとたちとの時間ももちろん大切だけど、きっといまの自分の人生を動かす不可欠な要素であって、プラスアルファではない
重大なことはないけれど、大人になっても会いたい、話したいと思い続けられる人との関係性は、おそらく「必ずしもいらないけど追加したい」ものであって、それこそがわたしにとって必要不可欠なんだと思う。その関係によって感情が揺り動かされて、悩んで、感動して、悲しくなって、嬉しくなる、自分というひとりの人間のなかにこの気持ちが造られることがすごく幸せなことなんだと気づいた
そうして今の歳になって、子供の頃から人が大好きだったなと思い返して、しかも今も全く変わっていない。別に恋愛対象の人とだけじゃない、どうでもいい話ができて、でもそのなかに大事な話もできて、という人と、お互いに話したいと思えることがどれだけ大切なことかと思う。お酒とタバコは大好きだけど、どこかの歌詞みたくセックスしなくても浮気しなくても大切な時間だ
0から1を作るのにはそれなりのインプットがいる。わたしは創作はもうしないけど、今の時代、何かを作ろうとすればすべて何かのオマージュやインスパイアを受けたものでしかなくなるのは仕方ないことだと思う。自分の感情が芽生える瞬間も同じだと思う。わたしはただひとりで生きているだけでは0から1を考えたり感じたりするのはきっと苦手だから、だからこそ誰かとの時間のなかで自分の価値観や考え方を触発されたりそれを変えたりする時間に価値を見出している
「成し遂げる」というのは、仕事を生み出すとか、世にインパクトのあるものを届けるとかじゃなくて、自分で自分を幸せにしてあげられるか、だと思っている
前者の意味で言うと、わたしには野心がない。今のところわたしの幸せは、自分で0から作れるものが少し、人とのかかわりのなかでつくられるものが半分、あとは無償で人から与えてもらう分が少し。(愛情とか予期せぬサプライズとかだから、今のところほぼこれは家族からしか受け取れていない)
だから悪く言うと人に依存しているといってもいいかもしれないけど、でもわたしなんかでも、誰かの幸せを少しは作る手伝いになっていたいと思うし、そうできる自信が多少はあるし、大事なひとにはそう接することを心底、意識している
いま、自分で自分のご機嫌をとるとか、誰にも期待しないことがいいとか、そういう「教え」がたくさんあるし、それには同意するけど、もう少し人に頼って生きてもいいと思う。ひとこと何か言うだけでどんな関係を作っていけるか、何か行動するだけで関係性がどうなるか、とか
わたしは、生きているんだから、その結果で苦しんでも幸せになっても、自分で選んだ選択のうえで、そんな気持ちを感じられていること自体が素晴らしいって思ってるの