ジャスミン
小さい頃、山で遊んでいると、ふっと甘い香りにつつまれることがあった。食べたことのない果物のような、かいだことのないお花のような。あれに似ている、と例えられない、優しい気持ちになれる香り。
そっと風が吹いたときに、ほのかに香って消えていく。どこからくるのか探してみても、山のなかには無数の樹木や草が茂っていて、それらしい植物は見つけられない。ただ思いがけずその香りに出会えたときは、立ちどまって目をつむり、甘い香りがいなくなってしまうまで、めいっぱい深呼吸をして身体の中に取り込んだ。
ずっと長い間、何の香りかわからなかった。けれど、大人になって、東京で、ようやくその主に出会った。初夏に、歩道にあふれるように咲くジャスミン。目の前の、黄色がかった白い小さな花と、身体が覚えていてくれた香りがつながったときは、涙が出るくらい嬉しかった。
タヒチアンダンスで、「hiirere」という踊りがある。今はもういない母を思う歌で、忘れられない香りがするよ、という振付がくりかえされる。タヒチアンにとってお花は小さな頃から親しいものであり、母が糸でつなげてレイにしたり、オイルにお花を漬けたりする光景を見て育つ。いつでも家の中にあった、懐かしい甘い香りが風にのってふっと鼻をかすめていくときは、まるで母が近くにきてくれているようだ、というストーリーの、少しかなしい曲になっている。
この振付を習っているあいだ、私はいつもジャスミンの香りと一緒だった。小さい頃の記憶。野生児で、山でもどこでもひとりで遊びにいっていたこと。家に帰れば、大好きな祖母が待っていてくれるのを知っているから勇敢でいられた頃の思い出。
名前を知らなかった香りに名前が付いたあのとき、心強い味方がひとり増えたような気がした。