2022年になった今だからこそまふまふにデケ〜感情を向けるオタクの怪文書を目に焼き付けろ
10年インターネットやってて歌い手の文化に興味持ったこと一度もなかったんですけど、なんか逆にここでまふまふにハマってLIVE見て泣いたんですよね、今更?なぜ思春期の頃にはまったく興味がなかったのに大人になった今……!?と自分でも思うんだけど色々なものを読み取れる今だからこそというのはあります。
紅白に出る少し前からテレビの特集とかを何となく見ていて、曲というより喋ってる内容を見て「この人めちゃくちゃ不憫だな、なんか人気のはずなのに永久に腰が低いし今にも死にそうな雰囲気だけど大丈夫……?」という不安から色々調べていたような気がする。とにかく日常生活がままなっていないのが日々のツイートから伝わってきて、いつもファンに心配されていた
インターネット出身とはいえ歌い手としては超ド級に成功しているのになぜこんなにずっと生きづらそうなんだ。見てて面白くてツイッターとツイキャスを追うようになっていた頃、人に誘われてまふくんの東京ドームLIVEに行くイベントが突然発生した。
私が見てたのはほんの半年ちょっとの間なのに紅白とか某件の大炎上とかあって最後は活動休止、色々ありすぎる、怒涛の半年だって……
私は大きい会場のLIVEを見るのがそもそも初めてだった。東京ドームも初めて行ったんですが、なんかもう圧倒されてしまって LIVEという場の非対称、それはファンとアーティストの関係性という意味でもあるけど、数万もの人間の視線と感情がすべてひとりの人間に向けられているということは恐ろしいなと思った。
まふくんは折れそうなぐらい身体が細くてあんなに対人コミュニケーションにずっと不安を抱いてるのにこの人数の感情の圧を受け止めてステージで歌える人でもあるんだ、と思うとなんとも言えない思いがする。
同時にやはり、その圧倒的な非対称の場にいると「自分たち」と「舞台にいる人」はこんなにも絶望的に断絶しているんだなということを強く感じた。
まふくんが自分の弱味や不憫なエピソードをよく話すのは自分はみんなと同じ存在だよと言いたいからなのだと思う。元々学生時代にはロックバンドやボカロを聴いてすごいなーと憧れていた側であったこと、そういう人が発信者になれる今の時代をよく知っているからこそ、どちら側の意識もあるのかもしれない。
どれだけファンがいてもそのことに自覚がなさげでいつも新鮮に驚いている。「うわ〜、こんなにたくさん人がいて、みんなが僕のこと知ってるって……電車に乗ってたら何千人もいても誰も自分のことを知らないってことが普通にあるのに、今日ここにいる人はみんな僕のことを知ってて、僕の味方って、すごいことだよ……すごいことですよ、これは!!」もう大きい場所でのLIVEもいくつか経験してるのに最後までそう思えるんだな……。
人々が振るペンライトが星の光みたいだと思った。こんなに大勢の人間がいるのに誰もが個ではなく「観客」という概念としてこの場所に存在しているということ。そこにはひとかたまりの観客と、ひとりのアーティストしかいなくて、数万人が異常に不均衡なバランスで二分されているのだということ。そして私は永久にこちら側なんだなあ、と焦がれるように思った。
それはこのステージだけのことではなくてもっと比喩的な話、いつも、どんな場所においても私はこちら側でしか居得なくて、ステージ上の人になることは一生ないんだと思った。人に何かを与えることも何かを成し遂げることもない人生だった。それをしてきた人だけがあそこに立っていて、どれだけ近しく見える人でも、まふくんは完全にそちら側の人間なんだなーと思う。
観客の感情がもし目に見えたらどれくらいの重圧だろう。声援は良いものでもあるけど私には彼がその重みを「背負わされている」ように見えるし、当人はそんなこと一度も言わず毎回毎回まじめに声援に感動しているのだった。
例の炎上があった後の初めての配信で、流れてくるコメントを読みながら「こんなに優しいコメントばかりだと思わなかった」「ずっと一人で引きこもって色々考えてたけどこんなにみんな優しいなんて」と泣きそうな声になっていたことを思い出す。ファンが応援してくれるのは当然でしょう、と思うけどまふくんにとっては全てがいつまでも当然じゃなかったんだろうな。
私は邦ロックバンドが好きだったから売れて暗い歌詞を書かなくなったアーティストをたくさん見てきたけど、まふくんはいつまでも虚しい、寂しい、痛い、満たされない、足りない、と書き続けている。「命に嫌われている。」の歌ってみたが一番知られてて、紅白でも歌ったけど、まふくんの精神性に本当に合致していたからこそあれほど何かが憑依したみたいに歌えるんだろうなと思う。
紅白でマイクを包帯で手に巻き付けて、握ったまま離せないようにしていた衣装(演出?)は本当に良かった、なんかあの日はいつにも増して今にも倒れそうで死にそうな感じで、その有様で「夢も明日も何も要らない、君が生きていたならそれでいい、そうだ、本当はそういう歌が歌いたい」と叫ぶんだから、その包帯はたとえ倒れても歌うための道具だけは手放さないという自己犠牲的な決意の可視化じゃんと思ったね……違いますか?そう……
今回のLIVEではやらないのかなと思っていたら本当に一番ラストの曲に命に嫌われている。を持ってきていて、なんか普通に泣いてしまいましたね。活動休止する前の最後、自分の物語の終わりに歌う言葉が「それでも僕らは必死に生きて 命を抱えて必死に生きて 殺して足掻いて笑って抱えて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きろ」なのってメッセージ性が強すぎて、そういう歌が歌いたかった彼のアーティストとしての生涯の幕を閉じるのにふさわしすぎて、呆然としてしまった。
この最後の一曲は小説の最後の一行と同じだと思うから。まふくんの書く歌詞は暗いものが多いけど、それでも最後には必ず世界と人間への愛が滲んでいて、虐げられた末のその言葉は健気な博愛のようにも見えるのだった。
この、世界に虚無感と苦痛を抱きながらも愛を捨きれない善性の自己矛盾仕草がまふくんの真骨頂だと思います。あの高音の歌い方は人によって好き嫌いがあると思うんだけどそれも段々悲鳴のようで彼の歌に合っているんだよなと思えてきた。こういう微かな希望と期待に終着する歌詞を見ていると、救われているのは歌詞にじゃなくてそういう在り方をしているまふくんの善性にだなと思う。心配になるくらい本当に優しい人です。
だけどこれほど大勢の観客の存在も、結局彼の救いにはなり得なかったんだなあと活動休止のことを思うと考えてしまう。東京ドームのような大きい会場でLIVEをしてすら「これが終わったら死のう」と考えていたこともあったという。多分みんなそういうまふくんのことを守ってあげたいみたいな母性本能が働いてるんだと思うけど、ツイッターのリプ欄はいつも「今日もツイートしてくれてありがとう」「ちゃんとごはんを食べててすごい!生きててくれてありがとう」みたいなベタ褒めで埋まっていてすごかった。
一方でまふくんは歌い手という性質もあってインターネットのどこかで何年もずっと茶化されたり叩かれ続けていたから、そういうひどい風当たりの中で舞台に立っていること自体がずっと自己犠牲的であるように思えてならない。いや深刻なストーカー被害のせいで顔出しを控えていたとか、諸々の可哀想すぎるエピソードがあって、実際我々の前に姿を晒してくれること自体彼にとっては身を削る行為であるに違いないんですけど。
アンコールのラストが「輪廻転生」だったこと、湿っぽい終わり方にならないように色々工夫してくれたのであろうセトリを見るとまったく私たちばかりが彼に何かを強いてきてしまったなと思う。いちファンの人間にできることなんか何ひとつないんですけどそれでもしてあげたいと思わせるような何かがまふくんにはあった。
怪文書になってきたのでそろそろ閉じようと思います。初めてのLIVEほんとうに良かったし美しかったです。それなのにこれからはもう無いのめちゃくちゃ苦しいよ。
まふくんに詳しくない人はぜひこれから「ハローディストピア」を聴いてください。
ボカロPとしての才能。
とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?