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こころのことなど。

心はどこにあるのかを指し示すとなると迷う。頭にあるとか胸にあるとか、バビロニアでは肝にあると言われていたとか、或いは、体の中にはないだとか、様々な見解があるけれど、見えるとしたら、どんな姿でどんな色をしているのだろう。

これを読んでいるあなたの心の中は、どんな風だろう。ティーカップの乗ったテーブルや、ビロード張りの椅子が置かれているだろうか。新緑の木々が生い茂って、優しい風が木立を揺らしているだろうか。

心の中に佇むと、そこには調度品も庭もなにもなく、内側は海のように広がる。広いのではなく、ごく限られた狭い空間に感じられるのに、手を伸ばしても壁に触れない。行き止まりや境界線がなく、窒息するような閉塞感もない。
頭上も側面も足元も全て同じ色で、ベタ塗りだ。単色が背景に流し込まれている。足元に差す影もない。空気遠近法による広さは感じられなくて、黒か、白か、或いは透けていると感じる。

時に、激しい風が渦を描いて吹きすさんだ。嵐の中に佇むと、芯から凍てつく。
ある時期には、なにもない黒い空間に、ワァンと、シンバルか何かを叩き続けて喧しく鳴らしている気配があった。気配だけで音はしない。耳を塞ぎたくなる無音の騒音が、頭上から責めたるように降ってきた。

25歳の頃から二三年ほど、パニック障害を持っていた。発作時には、動悸、震え、離人感、過呼吸と恐怖心が湧く。このまま死ぬんじゃないか、自分のコントロールを失ってしまうのではないかと、竦み上がる。実際のところ、パニック発作で命を落とすことはないのだけれど、凄まじく怖い。
きっかけは、仕事と私用の度重なる疲労とストレスで自律神経が崩れたためだった。
ある日、ふと夜中に目を覚ました。窓の外の街灯がやけに眩しく感じて目眩がした。昔から疲れが溜まってくると蛍光灯の光が眩しく感じて辛かったのだけれど、キィンと耳鳴りがしたあと、不意にその場から切り離されたみたいに現実感がなくなった。離人感、というらしい。
真っ黒な場所にいきなりストンと落とされたような感覚だった。手足が震え、呼吸が急激に浅くなる。心臓が早鐘を打って、体が冷たくなる。

その日を境に、疲労と光の刺激が重なると、パニック発作が度々起きるようになった。
ゆっくりと、時間を掛けて少しずつ、恐怖心を消していった。「死にそうに怖いけど、大丈夫、死なないから」と発作の度に淡々と唱えた。
午後に会社でパソコンに向かっている時や、蛍光灯が一つ灯った薄暗くて狭い通路を歩いている時や、帰りの地下鉄のホームでよく起きたので、トイレへそっと向かって個室にこもったり、ベンチにじっと座って、努めてゆっくり呼吸をしながら、発作の波が引くのを待った。

今はもうパニック障害自体はきれいに消えた。けれどたまに、離人感を感じる。
周囲にある様々な物や人が遠く感じる。自分が何かを感じているとか考えているという現実感がない。よく見ている景色を初めて見たように感じたこともあった。ジャメヴ、未視感と呼ぶそうだ。

こんなこともあった。

ある寒い冬の夜、部屋で蹲って奥歯を噛み締めて涙をこぼした。泣いている自分の背中を、少し離れたところからぼんやり佇んで眺めた。
素朴な疑問なのだけれど、泣いている自分とそれを見ている自分が心の中にいて、そのどちらかが自分自身なのだとしたら、もう片方は何者なのだろう。何かを投影したものだろうか。
そのどちらともが自分自身だとしたら、私の中には、悲しみを感じる心と、それを見ている心が、一つずつある。

ただ、まぁ、実際のところは、よくわからない。

規模の小さな二人会議みたいなものも、頭の中で時々起こる。

「これってさぁ、どういうことなわけ?」

「そうだねぇ、なんだろうねぇ」

みたいなやりとり。

一人なのに、何処かに話し掛けていて、相槌を打っている。私の頭の中には勝手に喋りだす自分がもう一人いる。ただ、片方は自分自身という感じがあまりしない。陽炎みたいに朧気だ。「自分」と「感情」を別々に用意して、切り分けて話している気もする。会話形式の自問自答とも言える。

不愉快を感じた時にも、たまに感情が自分から離れる。

元々、怒りや苛立ちの感情の処理があまり上手くなくて、不愉快を感じても、怒りとして表に出る前に消える。そうして、ろうそくの炎を吹き消した時に立ち上る白い煙のように、或いは、芯が燃えて黒い焦げが残るように、感情の起伏はないまま、不愉快を感じた跡だけが淡々と残る。

そういう時、

「あぁ、この感じは多分、怒ってるんだな」

と、他人事みたいに思う。

どこか、心が一つにまとまりきれていない。喜怒哀楽、様々な感情が私と繋がっている。手を繋いでいる。その繋がりが、いまひとつ弱い。手の握り方がゆるい。結束力が足りない。

心のことは謎が多い。それから、特性も。

昔の私は今よりも、もっと、耳から入ってくる人の言葉が理解できなかった。国語の授業は理解できるのに、会話がてんで駄目だった。言葉は耳に残るのだけれど、何を言っているのか解読できない。その上、自分の気持ちの言語化も苦手だった。それは意思疎通の弊害となり、人間関係に溝を作った。
会社で働くようになってからは会議の度にひたすらメモを取って、文字に落とし込んで、頭の中で反芻して、どうにか内容を頭に叩き込んだ。
今は随分マシになったのだけれど、うっかりすると聞き逃すので、テレビを見る時は字幕を表示している。
先日、図書館で聴覚情報処理障害を扱った本を読んだ。その本によると、聴力が正常値だけれど言葉の処理が苦手な、聞こえているのに聞こえない人が一定数いるのだそうだ。私がそこに該当するかは、調べていないのでわからないけれど、読み進めると思い当たるフシがいくつかあって、少し納得がいった。

皆が出来ている普通のことが満足に出来なくて、自己否定でまっ黒焦げになりながら日々を重ねていた。あの頃の私は、多分、ずっと心の中で喚いていた。声にならない声で、自分を責めて、怒りをぶつけていた。
今の私はそれに比べると随分静かで、淡々としている。それでも時折、ふとした拍子に感情が駆け上がる。かすかな刺々しさを含んだその小さな高揚感は、私がこの先も、持って生きてゆくものだ。時には、寂しさで胸が刺すように痛む。それもまた、抱えてゆく。

緩やかな感情の波間で、ウトウトとまどろむように心地良く過ごせたならば、幸せだろうか。将来は、陽だまりの中に座りながら、膝に猫を、傍らに孫を座らせて、まどろみながら往生したいものである。

人は儚くなる時、魂が抜けた分だけ体重が軽くなるという話もある。魂が心の在り処なら、それが心の重さとも言えるだろう。頭か。胸か。心がどこにあるのかは知らないけれど、何かを感じて、受け止め、思考している。それをとても、不思議に思う。

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もちだみわ
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