頭の中でご陽気に
少し疲れている時に起きる現象なのだけれど、頭の中がおしゃべりになる。
自分の声で話し続けている時もあれば、自分ではない別の人が話していることもある。
私は特に何も感じていなくて、無機質というか無感動なのだけれど、陽気な人の声が、「あなた石みたいに固くなってじっとしてるね。動かない石像だね。まぁ石像ってそもそも動かないんだけど」と、まくしたてて楽しそうに笑ったりする。
普段から感情と自分自身が割と切り離されていることが多い。喋っているのは多分感情のうちのひとつで、喜怒哀楽のどれかなのだろう。
時には、軽口を叩く人がいて、なにやら「今のってどうなんだろうねぇ?」と笑いながら言うので、「私は今人から言われたことがどうやら不愉快だったらしい」と認識したりする。
私自身が陽気な人と同じテンションで試しに周りの人に話し掛けると、「シラフなのに酔っ払ってるの?」と怪訝な顔をされるので、普段の私とはテンションが随分違うようだ。
頭の中では時に私の声が不満をぶつくさ言っている。そういう時は、多分感情と私自身がひとかたまりになっている。
私と感情とにつながりは時々希薄になる。ただ、私の根本にある感情は中学生の頃からずっとあり続けているもので、おそらくこの先もずっと持って生きていくものだ。
まるで朝に生まれて夜に死ぬ、1日限りの命から見る世界のように、目に映る全てが悲しいほど美しく光り輝いていた時期もあった。自分と世界はとうに切り離されていて、すでにさようならを告げている。ここにいていいと約束されていなくて、どこにも行き場所がなかった。目に映るものは木の葉一枚ですらは儚くまばゆかった。日が落ちて一日が終わるのが辛く、空が白んで朝が訪れるのが辛かった。
その頃に比べるとずいぶん感覚が鈍くなった。あまり泣かなくなったし、笑うようにもなった。
ただ物事への物差しというか、指針というか、価値基準が壊れてしまっているので、そこはこれから再度積み上げ直す必要がある。基準がないと身動きが取れない。
ずっとじっとしているだけでも構わないと思うのならそれでもいいし、もう少し建設的に考えたいのならそれでもいい。正解などどこにもないし、どうしたいのかという目的意識もまだ羅針盤になれるほど強固じゃない。だから今は三日坊主でいいから気になったことを随時やってみている。
浮き沈みがなるべくないようにと努めて暮らす日々の中で、時折ご陽気に話す声がする。なかなか平坦にというのは難しいようだ。とりあえず淡々とやっていくのが目標なのだけれど、そうは言っても時間は有限なので、行きたいところには今のうちに行っておいたほうがよさそうだと最近ひしひしと痛感している。
この文章は推敲がなされていないし骨組みもないのだけれど、書き残しておきたいので、素のままここに残します。
本来は別の大きな塊の文章の途中に差し込まれる一部分としての文章なのかもしれないけれど、今は掘り下げずに第一稿の形で置いておきます。
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