対話の場を開く責任とは?

オンライン対話の場を創り続けたいと思って学んでいます。
いろんなタイプの対話会やイベントに参加したり、自分で場を開きながらどんな場があると「いい場」になるのだろうと考えながら活動しています。

場を開く人のタイプには両極あるのかもしれませんね。

【Aさん】
①対話の場で何かがおこったら大変。そこでの責任を取れない。だから緻密に設計した計画に基づいて場を創って、「みんなが満遍なく話ができるように」とか「傷つく人が出ないようにグランドルールを作っておかなきゃ」とか色々考えてカチッとした場を開く人。

【Bさん】
②なにがあっても仕方ない。そこで何かが生まれるから成長する。とりあえず開いてみて、どんな場になるかはその時に集まった人次第だろう。安心して話せる場さえあればいいのではないか?

AさんBさん両極の人が開いた場だとしたら、どちらの場に参加したいと思いますか?

私はどちらかというとBさんタイプなのです。でもそれには危険が伴います。Bさんのような場を開くのならば、そこで生まれている何かをキャッチして参加者に提示できるとか、成長の種を拾えるとか、場をホールドできるファシリテーターが必要だろうと思います。

私が開く場は危なっかしくて、まだまだよちよち歩きなのですが、経験のなかから少しずつ学びを深めていってます。

対話の先にあるのは、「自分の想いを誰かに伝えることができる場が自由に選べること」なのです。

困りごとを抱えている人が声を出せる場
生きづらさを話してもらうことで学び合う場
違う考え、違う感情を話してもらうことこそが宝物になると思える社会

会の目的というよりも、全体を通した自分自身のビジョンを練り上げなきゃなぁ・・・ついつい毎日の楽しいことに流されてしまいます。

人が私の活動をみて「真似したい」「やってみたい」と思ってもらえるようになるまで動いたか?という問いに「まだまだだなぁ。。」と改めて気づきました。私は私のやり方で挑戦しながら、Aさんにも色々意見を聞いて、得意なことをお願いしたり、協力し合ったりしたいなぁと思っています。

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