会話はあるけど対話はない
平田オリザさんが、上記の記事の中で語っていた基準です。
会話=親しい人同士のおしゃべり。
対話=異なる価値観や背景を持った人との価値観のすりあわせや情報の交換。あるいは知っている人同士でも価値観が異なるときに起こるやりとり。
私は、2019年の5月に『Zoomオンライン革命』著者の田原真人さんと出会いました。コミュニティに所属したり、「オンライン講座のひらき方」や「自己組織化ラーニングファシリテーター養成講座」などを学んだあとの卒業生達が所属するコミュニティでは、他愛もないお喋りや、その学び合いのための対話をする時間で日々満たされています。
田原さんは仲間達と一緒にトオラス(旧与贈工房)という組織を主催しています。この周辺にいて、学びを深めているメンバーとは安心してさまざまな葛藤を語り合うことができます。
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西條剛央さんが主催するEMS(エッセンシャルマネージメントスクール)の卒業生のコミュニティにも所属しているので、メンバーが開催してくれるさまざまなイベントに参加しています。
これまで生きてきた人生のなかで、これほどまでに対話ができる環境に所属していた経験がありません。リアルな場で「会話はあったけれど対話はなかった」といっても大方間違いではないような気がします。
これまでの私の人生では「看護師」「妻」「おかあさん」「バイク乗り」「幼稚園教諭」「義母の介護」くらいのカテゴリーしかなかったことに気づかされ続けています。同じ話をしていても、それぞれの視点を聴くと真逆の反応が返ってきたりするので驚きの連続です。
1年間のあいだに私の人生は大きく変容しています。
この経験をたくさんのひとにおすすめしたいなぁと思って学んでいます。
ひとはどんなきっかけがあったら「対話したい」と感じるのでしょうか?
どんな場があったら安心して心を開くのでしょうか?
私が参加している場はなにか特別な仕掛けでもあったのでしょうか?
対話することで得られるものの大きさにどうやったら気づくことができるのでしょうか?
対話により、お互いのわかりあえなさを知る度に生きるのが楽になりました。そのまま受け止める訓練をしているけれど、ネガティブなことが先に思い浮かぶまだまだ駄目な私ですが、死ぬまでにはきっと今よりも進化していると思います。