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14.私が泣いてしまうものと、その理由

土日の朝はゆっくりするのがコロナ以降の私の楽しみです。朝は掃除をして朝食を作ってYouTubeを見ながら朝食を摂るのですが、先週から2週連続で泣いてしまいました。先週はアニメ“ポケットモンスター”で、サトシがリザードンをリザフィックバレーに置いて行く回の「弱いリザードンなんかいらない」というシーン、今日は“ONE PEACE”でゴーイングメリー号が燃える中、メリー号の妖精がクルーに語り掛けてくるシーンです。

私は基本的に涙腺が枯れておりますので感動モノを見ても泣かないのですが、何度見てもこれは泣いてしまうという固定のものがあり、前述のリザードンとメリー号のそれは数少ない固定号泣モノです。なぜ涙もろくない私が、これらについては泣いてしまうのか。ふと疑問に思ったので考えてみました。

考えるにあたって、涙が出そうになるけれども結局出ないものもいくつかあるなと気づきました。例えば、NARUTOの映画“ROAD TO NINJA”の中でナルトがトビ(オビト)の限定月読の世界の中で、幻術にいるので現実とは違うと認識しながらも、死んだはずの両親であるミナトとクシナがいる世界に居たいと心情が変化してしまうシーン(何ならNARUTOは私の一番好きな作品の一つであり感動ポイントもたくさんあるのに、本編で泣きそうになったことは一度もありません)。ZOIDS(無印)の最終回も終始そうです。ゲームでもACECOMBAT5の終盤で、序盤から出てくるお伽話の”ラーズグリーズ“という魔女の逸話が、まさに今の自分たちと重なるという描写がなされた時には涙が出そうになりました。

※正直言いまして私はあまりアニメも漫画も映画もゲームも人並みくらいしか見たりしたりしませんので、限定的なサンプルの中でのお話になる点、ご容赦いただければと思います。また、ここに書かれていることは私の価値観でしかなく、万人に共通認識されるものでもないため、学びは多くないかもしれません。それでもいいよという方は、ぜひ続きをお読みください。

私は“終わるもの”と“本人の話”には感動しない

ただ、この差は何なのか。考えてみると、この5つの例には共通するものと、泣く2つにはあるが泣きそうで泣かない3つにはないものがあることに気づきました。
共通してあるものは、物語の中で長く醸成されたものが、主人公などの重要人物に影響を与えるという点違う点としては、前者2つにはまだ続きがあり、後者には続きがないということと、主人公自体の話ではなく、主人公を取り巻く重要な存在の話であるということです。
リザードンはどうでしょうか。序盤で他のトレーナーに捨てられたのを助けてからサトシの一線級として活躍していました。リザードになってからは言うことを聞かなくなりましたが、ある出来事で言うことを聞くようになり、ますます強くなりました。そんな中でリザフィックバレーで出会ったどのリザードンにも勝てないという屈辱的な状況になってしまいます。サトシはリザードンに強くなってほしい一心でこの谷に置いて行く決心をしますが、その時にいうセリフが「弱いリザードンなんかいらない」なのです。その後のリザードンは強くなり、ここぞというバトルには飛んできてくれるようになります。逆にこれが永遠のお別れ会だったら泣かなかったと思います。物語の中での醸成期間は違いますが、バタフリーと別れる回など全く涙は出ません。
続いてメリー号。正直このシーンは超有名ですし泣いてしまう人が多いと思うので細かい説明は省きますが、この時は新しい船で冒険を続けるという話で物語が進んでいたので、メリー号はここまででも、その続きがあることをわかった状態でメリー号の妖精の話を聞くことになるわけです。極論ですが、最終回でラフテルに着いたところで壊れて同じ描写をされたとしても、私は泣かないかもしれません。
ではそれ以外はどうなのか。ナルトは私が小学生の時からずっと見ています。ナルトが幼少期に両親がいないことでどんな目にあったか、どんな気持ちだったかを知っているので、NARUTOの映画“ROAD TO NINJA”で両親がいることに惹かれてしまうのは共感の嵐で、感情が動きました。ただ、これはあくまで幻術の中。終わりがあります。また、主人公の話なので「何とかするでしょ」という気持ちになって見てしまっていました。ZOIDSの最終回、ACECOMBAT5については、書き出すとものすごく長くなるので割愛しますが、要は”最終盤で序盤からみた主人公の成長や変化が感動的“ということです。
結局、一元論で絶対こうだ!とはなりませんが、疑問に思った自分の感情について深く考えてみるのはいい機会になりました。
皆さんも自分の感情が動いたときに、なぜそう感じたのかを考えてみると面白い発見があるかもしれませんね。

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