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フランス経済史について解説
フランスの経済情報
通貨:ユーロ(EUR)
会計年度:暦年
貿易機関:EU、WTO、OECD
GDP(ドル): 3兆1300億ドル(第7位、2024年)
一人あたりGDP(ドル):47359ドル(2024年)
GDP(ユーロ):2兆9030億ユーロ(2024年)
一人あたりGDP(ユーロ):43,917ユーロ(2024年)
実質経済成長率(%):+0.7%
物価上昇度(%):+1.8%
失業率(%):7.4%
輸出総貿易額:6,073億ユーロ
輸入総貿易額:7,069億ユーロ
輸出品:機械及び輸送用機械、飛行機、プラスチック、化学製品、医薬品、鉄鋼、飲料
輸入品:機械、輸送用機器、原油、飛行機、プラスチック、化学製品
貿易相手国:ドイツ、イタリア、スペイン、英国、アメリカ、オランダ、ベルギー
国防予算:472億ユーロ
はじめに
フランスの人口は6,716万人(2023年1月1日時点)と、EUの中ではドイツに次いで人口が多い国である。IMF(国際通貨基金)によると、2020年のフランスの名目GDPは世界で7番目になっており、アメリカ、中国、ドイツ、日本、イギリス、インドに次ぐ経済大国である。独英両国に次いで欧州3番目で、1人当たり名目GDPは世界の23位でEUの平均をに上回り、購買力平価ベースのGDPは世界9番目である。現代のフランス共和国は農業、観光業、ブランド産業、軍需産業、宇宙空間工業を重点的に発展させていて、「指導主義経済」と呼ばれる独自の経済体制を採用している。1789年革命以来の人権尊重と人道主義の伝統から、資本主義陣営の中ではとくに貧困層への救済措置を充実しており、国民全員が平等に高い福祉を享受することができる。このため、フランスの経済はほかの先進国と比べると、左翼寄りの特徴が強い。フランス経済は第3次産業を中心としており、2022年には労働人口の80.1%が第3次産業に従事している。第1次産業(主に小麦粉製品・ワイン・チーズ・観賞や香水用花など)はわずか2.1%、第2次産業(主に原子力発電・交通機械・武器など)は17.9%である。フランスはほかのヨーロッパの国より、国内の需給を極めて重視しているが、それでもグローバルや新自由主義の時代(1900年以降)で国際貿易にやや依存していて、世界全体輸出の第6位、輸入の第5位を占める。対欧州の貿易は最大の割合を占め、輸出は全国GDPの35%、輸入は39%を占めている。関税とサービスを含む貿易収支は2004年から赤字で、2011年まで拡大していたが、そのあとの2020年からはコロナ禍の影響の下で逆転され、2022年には1023億ユーロの黒字を達成していた。
しかし2024年、フランスの政局は混迷していた。2025年度予算が緊縮的な内容であったことから審議が難航し、12月上旬には内閣不信任案が可決するというニュースが流れてきた。9月に発足したばかりのバルニエ内閣は早くも総辞職に追い込まれる事態になっている。これを受け、12月13日にマクロン大統領が中道派のフランソワ・バイル氏を首相に任命した。もっとも、議席の過半数を占める政党が不在である議会構成は変わらないうえに、フランスの政治制度では、前回選挙から1年経過するまで総選挙を実施できないことから、当面は議会が膠着状態に陥る公算は大きい。政局の混乱はフランス経済の回復を阻害した。具体的なルートは次の2つである。第1に、不確実性の高まりによる投資や消費の手控え。フランス国民の政治への評価は急落しており、足元では企業や家計のマインドを押し下げ。今後、政治の停滞が長期化すれば、一段のマインド悪化が企業・家計の支出意欲を下押し。第2に、財政悪化による金利急騰。市場ではフランス財政に対する警戒感が強まっており、独仏10年金利差は拡大傾向。2025年度予算の年内成立は見通せず、政府は暫定予算として前年度の予算を踏襲する特別法を適用する公算。マクロン大統領は議会の融和を図るため、共和党(中道右派)や社会党(中道左派)などの穏健派を集めて意見交換を行ったものの、社会党は憲法の発動による議会採決の迂回をしないことを求めるなど合意形成には至らず。足元では財政悪化への懸念から格付機関がフランス国債の格下げを実施。新政権発足後も予算審議は難航し、当面は財政健全化への施策は棚上げとなる可能性が高く、金利急騰リスクが増大。このようにフランスの政局が不安定で国債市場などに動揺が広がっている。2025年度予算案を巡る議論が難航していることが背景で、フランスは財政改革が求められ、増税や歳出削減を盛り込んだ予算案を提出したものの、国民連合などの反対に直面し、妥協を迫られている。政局の混乱が続く中、S&Pはフランスの格付けを据え置くが、財政赤字削減や経済成長の見通しに懸念を表明している。政局の混乱を受けフランス国債利回りとドイツ国債利回りの格差(スプレッド)は、信用力の悪化を背景に、拡大傾向である。欧州債務危機では財政悪化の象徴ともなったギリシャだが、財政改革の結果、同国の信用力は改善している。足元ではギリシャの国債利回りはフランスと同水準だ。こうした中、11月29日にS&Pグローバル・レーティング(S&P)はフランスの格付けを据え置くことを発表した。
フランスにおいて、経済史は一時期の後退局面を経て、現在再び関心を集めている。中世から近代にかけて、フランスは農業を基盤とした封建的な経済体制から、産業革命を経て工業化が進み、世界経済における国際的な主要国としての地位を確立した。フランス経済は、フランク王国期や英仏百年戦争を含む多くの歴史的出来事の中で進化し、特に18世紀末のフランス革命後、経済体制の大きな転換を迎えた。このような市民革命は、経済的にも政治的にも深刻な影響を与え、封建制度の崩壊と市場経済の広がりを加速させた。この時期、国家の役割と市場の自由のバランスが模索され、これが近代フランス経済の基盤を形成することとなった。19世紀には、産業革命が進み、フランスは工業化と都市化の波に乗ることとなり、世界的な経済大国としての基盤が強化された。フランスはまた、植民地経済を支配し、貿易や資源の獲得を通じて大きな富を手に入れることになる。しかし、19世紀末頃になると、普仏戦争から二度の世界大戦、世界恐慌、そして戦後復興の波がフランス経済に影響を与え、構造的な変革が迫られていた。現代において、フランス経済は高度に発展した産業社会となり、サービス業が主力を占める一方で、農業の重要性も依然として残っている。EU(欧州連合)加盟国としての影響力を背景に、グローバルな経済の中でフランスは重要な役割を担い続けている。本稿では、フランス経済の歴史的な変遷を辿り、その背後にある政治的・社会的な要因を探ることで、現代フランス経済の形成過程を概観する。
中世
ローマ帝国の崩壊により、フランク王国の経済は地中海経済から引き離され、ヨーロッパの新たな国としての経済として確立された。フランク王国はローマ帝国時代の食文化を見習って、パンやワインのための、小麦やブドウの生産を多く行っていた。中世ヨーロッパの経済は農業が中心となって考えられるようになったのだ。ローマ帝国時代では、平野部に散在するウィラを中心に奴隷労働によって行われた(ラティフンディウム)。古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びついた上で封建制というものが成立していった。
マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力の進歩に伴い拡大するとされる生産関係の上部構造と下部構造の間の矛盾発生とこの矛盾の弁証法的な発展解消を基盤として普遍的な歴史進歩の法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みられた。この場合、おおよそ古代ギリシアや古代ローマ社会を典型とみなす古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示し、この制度が認められる歴史段階を中世と定義する。このような封建制により、同時に荘園という制度が生まれた。
ヨーロッパ荘園制の特徴は、法的・経済的な権力が領主に集中していた点にある。領主の経済生活は、自らが保有する直営地からの収入と、支配下におく農奴からの義務的な貢納によって支えられていた。農奴からの貢納は、労役、生産物(現物)、又はまれに金銭(現金)という形態をとっていた。荘園領主は、公共法や地域慣習にのっとり裁判も行っていた。また、全ての荘園領主が在俗者だった訳ではなく、司教や修道院長が領主として貢納を伴う土地所有を行っていた例も見られる。農村社会における全ての社会経済要素の基礎となったのは、土地所有の状況であった。荘園の登場に先立って、2つの土地システムが存在していた。より一般的だったのは、完全な所有権の下で土地を保有するシステムであり、もう一つのシステムは、土地を条件付きで保有する形態である神への贈与または聖職禄の利用であった。これら2つに加えて、カロリング朝の君主たちは、第3のシステムとして、荘園制に封建制を融合させたアプリシオを創始した。アプリシオが最初に出現したのは、シャルルマーニュ(カール大帝)の南仏保有地であるセプティマニア地方である。当時、シャルルマーニュは、778年のサラゴサ遠征に失敗し、その際、退却軍についてきた西ゴート族の難民をどこかへ定住させてやる必要に追われていた。この問題は、皇帝直轄地である王領のうち、未耕作で不毛な地帯を西ゴート族へ割り当てることで解決した。これがアプリシオの初現だとされている。確認されたもののうち、最も初期のアプリシオは、ナルボンヌに近いフォンジョクスで見つかっている。西ヨーロッパ旧帝国内の一定の地域では、古代末期に別荘システムが確立し、中世世界に浸透された。実際に封建制による身分制度はこのようなものになっている。
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荘園は、通常主君から家臣に封土として貸与されたものであるが、封土には耕作者としての農民も含まれており、家臣は領主として荘園内の農民を支配することになった。領主は、領内の司法・警察に関係する独自の領主裁判権をもつほか、国王の役人の領内への立ち入りや課税を拒否する不輸不入権(インムニタス)をも認められていたため、社会の分権化が一層進んだ。この時代の農民の多くは農奴といわれる半自由民で、家族・住居・農具の所有権は認められたものの、よその土地に移動したり、職業を変えたりすることはできなかった。また、中世初期の農民集落は散村が一般的であり、荘園も一つの土地にまとまっていることより散在している場合が多く、各荘園は領主の派遣した荘園役人(荘司)におさめられていた。荘園内の土地は領主が直接経営する直営地と、農奴の家族経営に任せられる保有地(託営地)および森林・牧草地・湖沼などの共有地とからなっていた。また、農奴は保有地の地代として生産物を納める(貢納)ほか、週2日程度領主直営地を耕作すること(賦役)が義務付けられていた。こうした形態の荘園は古典荘園と称され、7〜8世紀に始まって10世紀頃にはほぼ西ヨーロッパに共通してみられるようになった。農奴の負担は、貢納と賦役のほかに、教会に対する収穫物の十分の一税、結婚税、死亡税、領主の独占する各種施設(水車・パン焼き窯・ブドウ搾り器)の使用料支払いなど、多岐にわたった。
しかし第2次民族移動期やイスラーム軍の襲撃の混乱を受けて、農民たちは次第に有力な領主の近くに集まり住むようになり、集村的農業社会が形成された。それとともに、一定の領域を一円的に支配する新たな領主権力が誕生した。また、牛や馬に鉄製の重量有輪棃をひかせる耕作法を取り入れたり、農地を作耕地と休耕地の2つに区分して毎回交互に繰り返す二圃制農法から農地を春耕地・秋耕地・休耕地の3つに区分して地味の消耗を防ぐ三圃制農法へ進化するなど、農業状の技術革新が進むと、農民の保有地からの貢納に依存する純粋荘園の形態が一般化し、さらに貨幣経済の浸透につれて地代の金納化も進んだため、農奴の地位も向上していった。
1335年から1459年の130年間は十字軍の動きが活発化していた。その一方で疫病である黒死病(ペスト)の流行にも繋がっていき、凶作や飢饉も相まって一連の経済的な打撃を生み出した。その中で人口も増加したために、食糧供給が更に不安定になっていた。英仏百年戦争では、両軍がそれぞれ街の食糧を略奪して焼き払い、病気や飢饉も更に増えていった。フランスで起きたジャックリーの乱やイングランドで起きたワット・タイラーの乱はまさにその判例である。
近世
英仏百年戦争終結後、イベリア半島では新しい動きがあった。カスティーリャ王国とアラゴン王国はイベリア半島に残存しているイスラーム勢力から奪還するためのレコンキスタ運動を行っていった。この運動はやがてイスラーム勢力が弱体化していたことにより、奪還することに成功した。
また、軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラームから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラーム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラーム文化やイスラーム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教国君主プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラームを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョンの確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年、グユクハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都(北京)などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサへ口述し、ルスティケロが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人のアジアへの好奇心を掻き立てた。この動きを見たスペインとポルトガルはアジアに到達するため、スペインが西航路、ポルトガルが東航路を探検する大航海時代を始まっていった。スペインのクリストファー・コロンブスは西航路を探検した結果南北アメリカ大陸を発見し、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマはインド航路までの道を確立することに成功した。16世紀半ば以降、メキシコ、ペルー、ボリビアなどアメリカ大陸(「新大陸」)から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)として価格革命という大変革が生まれた。これにより、16世紀の西ヨーロッパでは資本家的な企業経営にとって極めて有利な状況となり、好況によって商工業がさらに発展した。その反面、固定した地代収入に依存し、伝統的に何世代もの長期契約で土地を貸し出していた諸侯・騎士などの封建領主層には大きな逆風となり、領主層の没落が加速した。そのためルネサンス期ではオーストリアや北イタリアの諸侯や王権が一層強くなっていった。この動きはフランスも例外ではない。ルネサンス期においてフランスでは大幅に人口が増加したが、全体としてフランスは依然として田舎の国であり、都市部に住む人口は人口の10%未満であった。 パリはヨーロッパで最も人口の多い都市の1つであり、18世紀末には推定人口が65万人に達した。16世紀半ばまでに、フランスの人口増加、消費財の需要増加、アフリカやアメリカ大陸からの金と銀の急速な流入により、 1520 年から1600年にかけて穀物の価格が5倍に上昇し、賃金停滞が生じた。土地を所有する農民や進取の気性に富んだ商人の多くは好景気の間に富を得ることができたが、同時に凶作にも対処せざるを得なかった地方の農民の生活水準は大幅に低下した。これにより購買力が低下し、製造業が衰退した。通貨危機により、フランスは1577 年に、ルーブルを法定通貨として放棄し、代わりにエキュを流通させ、ほとんどの外国通貨を禁止した。また、宗教改革によるユグノー戦争では、農作物の不作と疫病の流行と同時期に起こった。交戦国は、敵から食糧を奪うために大規模な「焦土作戦」を実施した。山賊や自衛同盟が活発化し、物資の輸送は停止し、村人たちは森に逃げて土地を放棄し、町々は焼き払われた。特に南部、オーヴェルニュ、リヨン、ブルゴーニュ、ラングドックが被害を受けた。これらの地域の農業生産は約 40% 減少した。大手銀行家はリヨンを去り、1568年には75軒あったイタリアの銀行家は、1597年にはわずか 21軒にまで減少した。17世紀には、市場経済と結びついた裕福な農民が農業の発展に必要な資本投資の多くを担い、村から村 (または町) へと頻繁に移動した。市場と投資資本の必要性に直接結びついた地理的移動は、社会移動の主な道であった。フランス社会の「安定した」中核である町のギルドメンバーと村の労働者には、驚くほど社会的かつ地理的に連続した事例が含まれていたが、この中核でさえも定期的な更新を必要としていた。これら 2 つの社会の存在、それらの間の絶え間ない緊張、そして市場経済と結びついた広範な地理的および社会的移動を受け入れることは、初期近代フランスの社会構造、経済、さらには政治システムの進化をより明確に理解するための鍵となる。
1597年以降にはフランスの経済状況は大幅に改善し、農業も発展することとなった。アンリ4世はまず、内戦で疲弊したフランスを立て直すために、側近であったシュリー公マクシミリアンに国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策を行わせた。さらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河の整備を推し進めた。また、セーヌ川にまたがるポンヌフ橋の建造を中心とした首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。このギャラリーは長さ400m、幅30mにも及ぶ、当時の世界では最大級の建築物であった。さらにアンリ4世はあらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動を行わせた。これはナポレオン・ボナパルトが禁止するまで、歴代の王によって継承される政策となった。行政面では、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めていた。また、ルイ13世の治世ではスペイン・ポルトガルよりも遅れたものの、枢機卿にリシュリューを選び、諸外国に対抗するために北アメリカ大陸の探検と資源の獲得を任じた。これによりフランスでのカナダ植民計画が始まる。さらにフランスの経済学者であるジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)は、重商主義という財政政策が行われるようになった。重商主義は、国家の輸出を最大化し、輸入を最小化するように設計された国家的な経済政策であり、16世紀から18世紀の原始工業化時代のヨーロッパ地域で支配的な考えであった。特に絶対君主制を標榜する国家では、常備軍や官僚制度などの絶対主義体制を維持、増強するため国富の増大が必要となり、重商主義を基とした経済への介入政策が取られた。具体的な政策としては、製品の貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や、工業製品に対する高関税がある。重商主義の理論は時代と共に発展し、初期の重金主義と後期の貿易差額主義に大別することができる。しかし「富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」と言う共通する認識があった。重商主義に基づく政策は、植民地の拡大、植民地からの搾取、他国との植民地争い、保護貿易などを加熱させた。一方、植民地維持のコストの増大や、政権と結びついた特権商人の増加などが問題となり、自由経済の考え(現代では古典派経済学と呼ばれる)の発達を促す基となった。しかし、これだけでは不足であると考えたコルベールは、重商主義的な観点から金銀の保有を重視、国家主導で様々な工業を興すことを計画した。外国からの労働者の移入を禁じたり輸入品への関税を重くするなど保護主義的な政策を採り、反対に産業の発達と輸出を奨励、パリのゴブラン工場を始めマニュファクチュアの設立・保護や外国人技術者の招聘と技術の発達、国内の道路整備・運河開拓とタペストリー・ガラス・織物・陶磁器など奢侈物の製造に力を尽くした。一方でフランス東インド会社などの勅許会社を設立してフランス市場開拓及び植民政策を推進。17世紀前半に発見され、細々と植民拠点が維持されていたケベック(フランス領カナダ)に初めて大規模な植民団を派遣し、フランス領ルイジアナにも植民を促した。貿易船の防衛のため海軍の強化も行った。こうした一連の政策はコルベルティスムと後年呼び習わされる様になる。しかし、このような経済政策は最終的に失敗に終わった。労働者に対する制限が厳しすぎた、創意工夫を阻害した、不当に高い関税で支えなければならなかった、などである。また、1685年のナントの勅令廃止により、さらなる経済問題を引き起こした。フランスからプロイセン、スイス、イングランド、アイルランド、オランダ、デンマーク、南アフリカ、そして最終的にはアメリカに逃れた20万人以上のユグノー難民の多くは、高度な教育を受けた熟練した職人や事業主であり、その技術、事業、そして時にはカトリック教徒の労働者さえも連れていった。18世紀にフランス語がヨーロッパの共通語として広まったことと、プロイセン軍が近代化されたことは、どちらもユグノーのおかげである。その中で1600年にイングランドも同様に東インド会社を持ち、こののちマドラス(1639年)、ボンベイ(1661年)、さらにカルカッタ(1690年)を拠点にしてインド経営に乗り出した。さらに1588年にアルマダの海戦でスペインを破ったイングランドはこれに代わってアメリカ大陸への支配を行おうとしていた。北アメリカ大陸では1607年ヴァージニア会社によってヴァージニア植民地がつくられ、1619年にはタバコ・プランテーションのためヴァージニア植民地に黒人奴隷を輸入した。また、その頃にオランダも台頭していたため、イングランドはオランダとも衝突。その中で英国内では宗教問題・王位継承問題による革命が起き、議会主義となっていった。同じインド・アメリカの植民地化を野望に持つ英国はフランスにとっての脅威となり、大西洋を中心とした大規模な国境紛争が始まった。ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景に英国(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称を第二次英仏百年戦争と呼称された。
まず、プファルツ継承戦争は「第2次百年戦争」の発端となった戦争である。イングランドでは名誉革命の直後、ウィリアム3世支持派(ウィリアマイト)とジェームズ2世支持派(ジャコバイト)のあいだでウィリアマイト戦争が起こり、ルイ14世を戴くフランスはジャコバイト支持のかたちで介入、アイルランドなどが戦場となった。それに対しウィリアム3世は神聖ローマ皇帝などによる反フランス同盟(アウクスブルク同盟)の側に立ち、ルイ14世の膨張政策に対抗した。内政においてウィリアム王は、即位後の数年はホイッグ、トーリーの両党から大臣をとっていたが、1694年には反仏的なホイッグ党からのみ大臣をとるよう転換した。これには、フランスとの戦争を効率的に進めようというねらいがあったとされる。また、ウィリアム3世はアイルランド遠征や対仏戦争のための戦費が膨張し、財政難に陥ったため、それを補うためにイングランド銀行の創設を認める特許をあたえた。イングランドは1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦において優勢だったフランス艦隊を破り、英仏海峡での制海権を得た。1697年にライスワイクの和議が成立し、フランスはストラスブールとサン・ドマング(現在のハイチ)を獲得、南インドのポンディシェリとカナダのノヴァスコシア(アカディア)を回復した。スペインはフランスに占領されたカタルーニャ・ルクセンブルクほかを回復し、長くフランス支配下にあったロレーヌ公国は神聖ローマ帝国領となった。イングランドは領土的に得たものはないが、ウィリアム3世がイングランド王として認められ、今後ルイ14世がジェームズ2世およびジャコバイトを支持しないことを約束した。また、スウェーデンは、プファルツ家の継承地プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国をフランスより主権奪回した。
ライスワイクの和約ののち、イングランドはしばらく平穏な状態になったが、1700年にスペイン王カルロス2世が子のいないまま死去したことで、イングランドは深刻な状況に陥った。ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世として16歳でスペイン王位につくことになったからである。フランス・スペインの両大国が合同することは、両国艦隊によりイングランド艦隊が圧倒され、両国植民地によってイングランド植民地が包囲されて西欧の勢力均衡がくずれ、それまでイングランドに対し開かれていたスペイン領アメリカ植民地が閉鎖的になることを意味していた。1701年、スペイン継承戦争がはじまり、ウィリアム3世はルイ14世の攻勢をおさえるため、オランダ・オーストリアとの三国同盟を組織した。1702年、ウィリアム3世が没してアン女王が即位すると、イングランドの支配層はこれを機にスコットランド併合を進める政策を推進した。スコットランド国民の多くは反発し、イングランド国内からも反対論があったにもかかわらず、この政策が推し進められたのは、イングランドがフランスとスコットランドとの同盟によって両者に挟撃されることを怖れたためであった。戦争のさなかの1707年、イングランド議会とスコットランド議会が合同してグレートブリテン王国が成立した。
この戦争にはルイ14世も苦しみ、かれによって何度も和平提案がなされたが、ホイッグ党はその都度これを拒否した。トーリー政権の成立によってようやくユトレヒトの和議が成り、スペインとフランスが合同しないことを条件にフェリペ5世のスペイン王位継承が承認されてブルボン朝スペイン王国が成立した。スペインはジブラルタルとメノルカ島を英国に、ミラノ公国・ナポリ王国・サルデーニャ・南ネーデルラントをオーストリアにそれぞれ割譲し、フランスはアカディア・ハドソン湾地方・ニューファンドランド島などの北米植民地を英国へ譲渡した。ブルボン家としては、王冠ひとつを得るために数多くの領土を失う結果になった。ユトレヒト条約ではまた、英国がスペイン植民地に対する奴隷貿易独占権を獲得した。すなわち、愛国は年間4,800名の黒人奴隷を30年間スペイン植民地に輸出しうるとしたのである。これは莫大な利潤を得てリヴァプールやマンチェスターに資本が蓄積されるもととなった。そしてまた、奴隷貿易の許可は事実上他の商品の貿易の許可をも意味しており、以後、30年にわたって英国の貿易は5割も増えつづけた。北米や西インド諸島の開拓もすすんで砂糖のほか材木、タバコ、コメの生産が激増し、これによりインドで獲得した富が英国に流れ込んで「インド成金(ネイボブ)」の発言力が大きくなった。またその後に続くオーストリア継承戦争や七年戦争、プラッシーの戦い、フレンチ・インディアン戦争にてフランス国内の課税はどんどん増えていき、財政が次第に圧迫し停滞していった。16世紀の最後の数十年間、フランスの産業は発展を続けた。機械化が導入され、工場が作られ、独占がより一般的になった。しかし、この成長は、繊維および綿産業における英国との競争によって複雑化した。1786年の英仏通商条約により、1787年半ばからフランス市場が英国製品に開放された後、フランスの製造業の競争上の不利が痛感された。より安価で品質の優れた英国製品は国内製造業者を圧倒し、1788年までにフランスで進行していた深刻な産業不況の一因となった。1788年夏の壊滅的な不作により不況は悪化し、経済全体に波及した。農民と賃金労働者は収入のより高い割合をパンに費やさざるを得なくなり、製造品の需要は消滅した。
また、この頃始まったアメリカ独立戦争をフランスはヨーロッパひいては世界におけるフランスの仇敵である英国を弱体化させる機会として捉えた。植民地の独立は大英帝国に重大な損害を与え、翻ってアメリカ合衆国という新しい力を生むことでフランスは良好な同盟関係を維持できると考えていた。フランスはもともとカナダを失うことになった1763年の屈辱的なパリ条約に対して英国に復讐を目論んだとする歴史家もいるが、1975年に、フランスの干渉は冷静な計算に基づくものであり、単になる英国嫌いによるものでも、カナダ喪失の復讐のためでもないとしている。フランスの参戦は、ヨーロッパ大陸におけるフランス外交の絶望的状況を反映していた。独立戦争はフランスにとって悲惨な失敗であり、アメリカの独立は英国を弱らせることにはならなかった。サラトガの戦いはフランス参戦のきっかけを作っただけであり、外交方針は既に決していた。同盟に加わったスペイン海軍の存在も軍事的な主導力を維持していくために重要であった。フランスは和平については悲観的であったが、決してアメリカを裏切らなかった。フランス政府は負債のやりくりで悲鳴を上げていたうえに、独立戦争がフランスの政治的また社会的秩序を粉々にする力を解き放つ直接の機会(フランス革命)を提供した。フランスは1778年2月6日に参戦し、英国からの独立を求めるアメリカの勝利を助けた(実際には1783年のパリ条約で実現された)。フランスの近代戦力としての位置付けが確認され、復讐の思いも満足されたが、戦争は国の財政には有害であった。フランスの都市は直接の破壊を免れたとしても、1781年のヨークタウン包囲戦のような決定的な勝利を含む英国軍に対する戦争は大きな軍費(10億リーブル)を必要とした。これが脆弱だった財政をさらに悪化させ、赤字が増えた。さらに悪いことに、新興のアメリカ合衆国が貿易上の一番の相手国となるという目論見が実現しなかった。英国がアメリカ合衆国を主要貿易国としてしまった。戦前の英国とアメリカの交易形態がほとんどそのまま残り、アメリカの交易は大英帝国の範囲内に留まっていた。独立戦争にフランスが参戦したということの認識は、主にロシャンボー伯爵やラファイエット侯爵のような軍人の英雄を称えることで示された。アメリカ合衆国内にあったフランスの元の領土(ヌーベルフランス)を取り返せるという望みも叶わなかった。フランスの国体としての脆弱化と、絶対王政に対する実現可能な代替体制の見通しができてきたこと、これらはアメリカ独立戦争がフランス革命に影響した大きな要因である。
ルイ16世は外交政策担当官にヴェルジェンヌを指名した。ヴェルジェンヌは、七年戦争の後は英国へ報復したいという想いがあり、この想いを前任者のショワズールと共有していた。ヴェルジェンヌはヨーロッパでは慎重な政策を主導し、東のプロイセンやオーストリアとの平衡状態を保っていた。特にボヘミア継承戦争では参戦しなかった。ヴェルジェンヌはフランス海軍の戦力を英海軍に見合うものにし、アメリカでの緊張事態を見守っていた。1756年にルイ15世が結んだフランス=オーストリア同盟が、1770年のルイ16世とオーストリアのマリー・アントワネットとの婚儀で再確認された。一方、スペインとの同君連合によって大陸ヨーロッパの支配構造ができあがっていた。ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚は、長く続いたブルボン朝とハプスブルク朝との敵対関係を、表面上だけでも終わりにしていた。フランスの特権階級は1763年のパリ条約以来復讐を夢見ていた。これをスコットランドから追放されたジャコバイトが植民地に渡って大いに支持していた。条約の中身は負けた側の立場から見れば穏やかなものであった。フランスは実入りが良い領土の大半、例えば砂糖を生産するサン・ドマングの領有を続けていた。フランス=スペイン=オーストリアの同盟軍がイギリス海軍を敗ったとしても、その戦費は莫大なものになり、各国はできるだけ速く終息することを求めることになった。それゆえにパリ条約は締結されたが、フランスにとってはイギリスに復讐し、決着の付いていない戦争をはっきりと終わらせたいという強い願望が残った。ショワズールは1763年以前から、攻撃速度、艦船の数、および敵国の商船を襲う戦略がより重要になるという新しい戦争の形を予測し、海軍の近代化を始めていた。フランスは快速で操作性の良い小さな艦船を増やして、その艦隊を海賊化していた。さらに装備を近代化し、およそ30万人にまで増強した軍隊に訓練を施した。ルイ16世はこの近代化の達成に相当量の資金をつぎ込んだ。艦隊は1762年の規模を最小として、その後軍艦を67隻、フリゲートを37隻増強した。
13植民地の独立宣言に続いて、アメリカの反乱はフランスの民衆にも特権階級にも好意的に受け入れられた。革命はイギリスの専制に対する啓蒙思想の具現化として認識された。1776年12月にベンジャミン・フランクリンがフランスに派遣されその支持を訴えると、民衆に熱狂をもって迎え入れられ、多くのフランス人はアメリカの反乱を支援するために立ち上がり、自由と近代化の理想に燃えたランファンやラファイエットのような者達が1776年に志願兵となった。一方、フランス政府の反応はやや冷ややかであった。ルイ16世は植民地を救援したかったが、財政状態の故にボーマルシェを通じて隠密の援助をするに留まった。ヴェルジェンヌはフランスの参戦に賛成であり、商業的および外交的な利益の可能性も示唆していた。この状況はフランスの分析によるものであり、同盟国(スペインとオーストリア)には少なくとも中立の保証を求めていた。外交、財政、軍事および経済を担当する指導者層はむしろ懐疑的であった。フランス海軍はまだ十分ではなくそのような戦争に対する備えはできていなかった。経済の状態は不況のままであり、国家の財政はテュルゴーや後にネッケルによって赤字状態を宣告されていた。外交畑の者はヴェルジェンヌやルイ16世ほど熱心ではなく、フランスがこの問題ではヨーロッパの中で特殊であり孤立していることを強調していた。当時の平和と経済的な繁栄の上に立って、復讐の念と自由の理想を小さくさせていた。
ヨークタウンの包囲戦が始まってから、大陸軍のベンジャミン・リンカーン将軍は英国軍との秘密の交渉についてフランス軍に教えたことがなかった。交渉は直接ロンドンとワシントンの間で進められた。英国は13植民地に対する支配を諦め、五大湖から南とミシシッピー川から東の領土の領有を認めた。しかし、フランスは、アメリカと英国の間の和平交渉に加わらなかったので、フランスとアメリカの間の同盟関係が崩れた。このためにその後の和平協定の交渉でフランスとスペインの影響力が薄れた。1783年9月、パリ条約で条件付き勝利が宣言された。フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復した。1763年パリ条約と1713年ユトレヒト条約で失った領土のうち、トバゴ島、セントルシア、セネガル川領域、ダンケルクを回復し、テラ・ノヴァの漁業権が増加した。スペインはフロリダとメノルカを回復したが、ジブラルタルは英国の手に残った。フランスの戦争への介入は遠距離でかつ海軍を使ったものになったので、10億リーブル以上の戦費が使われた。一方で、フランスの国家財政は悲惨な状態となり、ジャック・ネッケルが税率を上げずに負債を払うために借金を重ねたため、著しく景気も後退していた。国家財政担当官のカロンヌは、赤字の解消のために貴族や聖職者の財産に税金をかけることを試みたが、解職され追放されるという憂き目にあった。 フランスの財政を健全化するために必要な改革は、政情不安のゆえに弱められた。戦争中の貿易は著しく減っていたが、1783年には回復していた。 戦争はフランスの権威と誇りにとって極めて重要であり、ヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランスは多額の軍事費を使ったにも拘わらず、アメリカの主要貿易相手国とはならなかった。フランスの軍隊は遠距離遠征を行い10億リーブル以上を使ったために、フランスの負債33億1500万リーブルに追加されることになった。フランス参戦のもう一つの結果といえば、啓蒙主義の誇りを新たに得たことである。これは1776年アメリカ独立宣言、1783年アメリカの勝利、さらに1787年アメリカ合衆国憲法の公布で印象づけられ、自由主義の特権階級は満足した。しかし、他にも大きな影響があった。ヨーロッパの保守主義が神経質になり、貴族階級はその地位の保全のために対策を打ち始めた。1781年5月22日のセギュール条例では、軍隊の上級士官に一般人が昇進することを制限し、貴族のために留保した。ブルジョワジーの挫折が始まった。
フランス革命期
1789年の革命勃発後、旧制度(アンシャン・レジーム)は解体され、経済の自由化が進められた。まず、封建的特権の廃止が決定され、領主による農民からの賦役や税の徴収が撤廃された。これにより、農民はより自由な立場を得ることになったが、一方で、地方経済の混乱を招き、食料供給が不安定になる要因ともなった。また、革命政府は財政難を打開するために、没収した教会財産を担保とした「アッシニア」と呼ばれる紙幣を発行したが、過剰発行によるインフレが進み、紙幣価値が急落し、経済の混乱を引き起こした。さらに、フランス革命期には国内外の戦争が経済に深刻な影響を及ぼした。1792年にフランスがオーストリアやプロイセン率いる対仏大同盟との革命戦争に突入すると、戦費調達のためにさらに紙幣の発行が進められ、インフレが加速した。また、戦争によって貿易が混乱し、特に英国との経済関係が断絶されたことで、フランスの産業は大きな打撃を受けた。英国製品の輸入が止まったことで、フランス国内の工業が活性化する側面もありましたが、全体としては不安定な状況が続いた。
一方で、革命政府は経済政策を通じて社会改革も進めた。特にジャコバン派が権力を握った時期(1793年~1794年)には、経済の統制を強め、食料価格の最高価格制(マキシマム制)を導入し、市民の生活を守る政策を実施した。ただし、これにより市場経済の自由が制限され、生産意欲が低下し、物資不足が深刻化する結果を招いた。ロベスピエールの失脚後、テルミドール派が権力を握ると、経済政策は再び自由主義的な方向に戻り、価格統制が撤廃されたため、一時的に物価が暴騰し、社会不安が高まった。1795年に成立した総裁政府は、財政再建のために新たな通貨「フラン・ジェルミナル」を導入し、インフレの収束を図った。また、戦争の継続により軍需産業が拡大し、ナポレオンの登場とともに経済の安定化が進んだ。
1799年以降、ナポレオンは不安定な金融システムの近代化をはじめ、さまざまな手段で高額な戦争費用を支払った。彼は低賃金で兵士を徴兵し、税金を上げ、大規模な融資を行い、カトリック教会が所有していた土地を売却し、ルイジアナをアメリカ合衆国に売却し、征服した地域を略奪して食糧を押収し、イタリアなどの支配国に対して徴用を実施した。ナポレオン時代(1795~1815年)の絶え間ない戦時体制は、投資と成長を犠牲にして生産を刺激した。武器やその他の軍事物資の生産、要塞、そして大規模な軍隊の設立と維持に向けた社会全体の方向性は、革命の数年間後に一時的に経済活動を増加させた。革命時代の猛烈なインフレは、新しい通貨の印刷をそれほど速くしなかったことで止まった。また、ナポレオンにより施行された大陸封鎖令は、フランス経済が自給自足できない経済分野を徐々に侵食した。1815年、フランス軍は最終的に敗北し崩壊した。これにより、1914年までヨーロッパ全土で比較的平和な時期が訪れ、高度に合理化された法制度の導入などの重要な制度改革が実施された。
近代
1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得たというよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったという事実はフランス革命以前から変わりない。しかし、フランス革命にて王政による封建社会の構造が撤廃されたことから、租税の負担は国民がそれぞれ平等に担うこととなった。この影響は資本主義という結果たなって表れたため、七月王政期にて遂にフランスでも産業革命を起こすことに成功した。この時代の産業革命は英国の起こした第一次産業革命ではなく、第二次産業革命の時代となっており、フランス以外のヨーロッパ諸国やアメリカ、日本でもこの動きが起きるようになっていった。その中で最初に始まったのがベルギーで、その後にフランスと続いた。第二次産業革命では英国の蒸気機関が主流だったのに対し、今回の産業革命は内燃機関や重化学工業は主流となった革命であった。消費財の大量生産という仕組み面の発展もあり、食料や飲料、衣類などの製造の機械化、輸送手段の革新、さらに娯楽の面では映画、ラジオおよび蓄音機が開発され、大衆のニーズに反応しただけでなく、雇用の面でも大きく貢献した。フランスでも小農民を中心とした産業革命が発生し、リヨンから始まった絹織物工業を行った。しかし、帝国と比較すれば、技術的にも大きく遅れており、大部分は手工業的小企業にとどまっていた。蒸気機関を備えた工場も少なく、依然として木材燃料が主力だった。このようなフランス工業化の停滞の原因は、国内産業が政府の保護貿易政策に守られ、輸入品との技術改良面での競争がなかったこと、フランスに固有な小土地所有農民を主体とする農村の未分化と保守的体質にあったと考えられている。このようなことから第二帝政期にてナポレオン2世は、サン=シモン主義の影響を受けて、自由貿易主義に方針転換し、英仏通商条約により英国と経済競争を行うこととなった。エッフェル塔や凱旋門を建てられる、フランスの鉄道・通信網の整備をするなどのパリ改造が行われた。このパリ改造の結果は、1855年のパリ万国博覧会にて発表された。その中でパリは英国のロンドンを次いで第2の国際金融の中心地として台頭した。ナポレオン3世はロンドンを追い抜いてパリを世界有数の金融センターにすることを目標としていたが、普仏戦争でパリの金融影響力は縮小し、プロイセン王国及びドイツ帝国に劣ることとなった。普仏戦争後、フランスはドイツに対して巨額の賠償金を支払わなければならず、ドイツ軍は債務返済まで占領を続けた。50億フランはフランスのGNPの4分の1、ドイツの3分の1に相当し、フランスの通常の年間輸出額のほぼ2倍であった。観測者たちは賠償金は支払い不可能であり、フランスを弱体化させ、長年の軍事占領を正当化するために作られたものだと考えた。しかしフランスは3年も経たないうちに賠償金を支払った。
そのきっかけは、1811年3月24日にジェームズ・ド・ロスチャイルド男爵がフランス帝国首都パリへ移住したことから始まった。ナポレオン戦争後、フランスにブルボン家の復古王政が樹立され、追放されていた貴族たちが続々とフランスに戻ってきたが、彼らは新しい時代の財産管理の方法が分かっていない者が多かった。そこに目を付けたジェームスは彼らの財産管理の相談に乗ることでロチルド銀行の顧客にしていった。ブルボン家の公債をめぐる金融業務は当初フランス金融界の名門ウーブラール、および英国金融界の名門ベアリングス銀行に任されており、新参者のジェームスは排除されていたが、1818年のアーヘン会議(フランスの賠償金をめぐる列強の会議)で立場を挽回して公債発行に加わることに成功した。銀行業に優れた才覚を持つジェームスは、ある時は単独で、ある時はロンドンのネイサンと協力して、ヨーロッパ各国に巨額の起債を行った。ジェームスは七月革命によって台頭した新国王ルイ・フィリップとも親密な関係を保った。そのためルイ・フィリップはロチルド銀行にフランス国債を独占的に任せ、また国王個人の投資事業も委ねた。ジェームスはルイ・フィリップの治世から鉄道への投資を熱心に行うようになり、1837年にはパリ=サンジェルマン間、1839年にはパリ=ベルサイユ間の鉄道建設に尽力した。1846年には北部鉄道を設立している。この頃からジェームスは鉄道王と呼ばれるようになった。1852年には、ユダヤ金融業者のペレール兄弟が投資銀行の先駆けとなるクレディ・モビリエを立ち上げ、ロチルド銀行と競合していった。しかし、ロチルド家が堅実で安全重視の投資で着実な成功を維持したのに対し、クレディ・モビリエは無謀で投機的な投資を手当たり次第に行った。このことから、ナポレオン3世やフーリエにも見限られ、最終的にはロチルド銀行が完全勝利する形となった。ジェームズはこの普仏戦争の動きを予言していたため、ナポレオン3世に助言をしたのだが、反応は薄かったため、単独で尽力を行っていた。そのため経済回復は案外早く行うことが出来たのだ。また、パリは特に高級店が立ち並ぶ高級アーケードや大百貨店を通じて、消費主義を社会的優先事項および経済の原動力にすることで世界的に有名になった。これらは、上流階級だけでなく台頭する中流階級による高級品の消費の世界基準を設定した「夢の機械」だった。パリは、斬新で非常に魅惑的な方法で提示された贅沢品や高品質の商品を上流階級の消費者に届ける精巧な百貨店において、国際的にリードした。そのためフランス経済においては好調だった。
ただしアメリカは南北戦争以降、大陸縦断鉄道を中心に発展していき、ゴールドラッシュや移民の増加、工業化の急増によりアメリカに劣ることとなった。このように第二次産業革命はドイツ帝国とアメリカ合衆国によって主導権が握られることとなった。第二次産業革命によって、主権国家の地位を握った各国は資本主義経済における産業資本と銀行資本が一体化することによって金融資本が成立したことにより独占資本を形成するようになったことから各々が植民地を持って経済を発展させるという帝国主義の流れが生まれるようになっていった。しかしドイツやロシアの帝国主義の動きは、英仏によって止められたため多くの植民地を持つことが許されなかった。このことから第一次世界大戦につながっていった。
帝国主義時代では、アフリカ分割の結果で得た北アフリカの植民地と、清仏戦争の結果で得た仏領インドシナ、フランスの南米植民地との経済協力を行っていたため、自由に貿易を行うことができた。しかし、1873年恐慌が始まるとフランスの経済にも打撃を受けることとなった。1873年恐慌とその後の不況には幾つか潜在的な原因があった。それに関して経済史家は相対的な重要性を議論している。普仏戦争(1870年-1871年)の結果、ヨーロッパにおける戦後のインフレ、投機的投資の蔓延(圧倒的に鉄道に対する投資)、巨大な貿易赤字、経済的混乱の波紋があり、1871年のシカゴ大火、1872年のボストン大火など資産の損失があり、その他要因もあって銀行の資本準備高に大きな歪みが生まれ、1873年9月から10月にニューヨーク市の準備高は5,000万ドルから1,700万ドルまで急落した。フランスはこの対応として関税の操作で経済問題を克服しようとした。1880年および1892年の新法で、多くの農業および工業輸入品に厳格な関税を課し、保護主義を目指した。
第一次世界大戦になると、ドイツ軍が北東部の主要工業地帯を占領したことで、経済は深刻な打撃を受けた。1913年、占領地域にはフランスの工業労働者のわずか14%しかいなかったが、鉄鋼の58%、石炭の40%を生産していた。1917年から1928年にかけて、アメリカからの食料、資金、原材料の大量流入により、かなりの救済がもたらされた。しかし、農業生産性は、ドイツ軍の占領、役畜の徴発、労働力と肥料の喪失、機械不足により急激に低下した。1917年の最低時には、穀物収穫量は戦前の水準を40%下回った。その結果、農産物の高価格は農民にとって恩恵となり、農場に残った農民に「超人的な努力」を奨励した。兵士の扶養家族に支給された分離手当も、貧しい農村家庭の収入を予想外に押し上げた。多くの農民が負債を返済し、より多くの土地を購入し、より質の高い生活を享受することができた。逆に、都市住民と工業労働者は、食料価格の上昇とそれに見合う賃金の上昇がないことに対して不満を募らせた。1917年にアメリカ合衆国が参戦すると、フランス経済の信用は低下していったため、ニューヨークのJPモルガン銀行に融資の管理を行うことで認めた。第一次世界大戦の長期戦とドイツ軍によるフランス領の占領はフランス経済に大きな打撃を与えた。1919年のフランスの工業生産と農業生産は1913年に比べて45%減少した。占領地域のインフラ(町、村、工場、鉱山、鉄道)は広範囲にわたる破壊と、鉱山や工場の場合は過剰開発に見舞われ、生産量が減少した。優良農地は荒廃し、家畜は失われ、18歳から27歳の若い男性の27%が死亡し、その結果結婚や出産に悪影響が及び、1930年代の労働力にも影響を及ぼした。
パリ講和会議では、普仏戦争からのドイツへの復讐が主軸となったヴェルサイユ条約が締結され、ドイツに対して1320億金マルクとアルザス・ロレーヌの返還要求、旧ドイツ植民地の委任統治権を認めさせるなどの内容で合意された。1923年にドイツが賠償金として充分な石炭を輸送しなかったため、フランスとベルギーはルール地方を占領した。ドイツは消極的抵抗で応じ、失業中の労働者を支援するために大量の紙幣を印刷し、急激なインフレを引き起こした。インフレはドイツの中流階級に大きな打撃を与えた(銀行口座が無価値になったため)が、フランスフランにも打撃を与えた。フランスは独立した緩衝国を主張する分離主義運動を煽ったが、流血の後に崩壊した。介入は失敗に終わり、1924年夏、フランスはドーズ案に示された賠償問題の解決策を受け入れた。そして1929年にウォール街の大暴落から始まった世界恐慌には、他の国々より遅れてやってきた。不況は比較的穏やかで、1931年に失業率は5%未満でピークに達し、生産量の落ち込みは1929年の生産量より最大でも20%下回っただけで、他の国々で起こった恐慌のような銀行危機はなかった。しかし、フランスの不況は他のほとんどの国々より長く続いた。他の多くの国々と同様、フランスも19世紀に金本位制を導入しており、つまり紙幣を金に交換することが一般的に可能だった。1931年にイギリスがそうであったように、他の国々は金本位制を放棄したが、フランスは1936年までそれに固執したため、不況とデフレの時代に多くの問題を引き起こした。英国は金本位制離脱後の通貨切り下げにより製品をより安く提供できるようになり、フランスは英国に対して競争力を失った。これを受けてフランス経済は金本位制を離脱し、フラン=ブロックを形成した。しかし隣国のドイツの被害はフランスと比べると圧倒的に大きかった。賠償金以来から続くフランスへの復讐心が高まったドイツは極右政党が台頭し、クーデターの末にナチス・ドイツとなった。その動きは前大戦の動きと経済的な影響からフランスにとっても脅威となっていったため、消耗戦を避けるために戦闘員の不足を補う方策として、国境地帯におけるマジノ線を建設するに至ったが、結局ベネルクス三国から迂回され、ドイツ軍に占領されることとなった。ヴィシー政権下での状況は非常に過酷であった。ドイツ軍はフランスから何百万人もの労働者(戦争捕虜や「自発的」労働者)と食糧供給を奪い、多額の現金支払いを要求した。全体主義政府の下での厳しい経済的困難の時代であった。国土の分割、ドイツの徴発、植民地との交通途絶によってパリ市民の生活は悪化した。1940年9月からは配給制度が開始されたものの、時がたつにつれ配給量も減少していった。この時期のフランス国民のカロリー摂取量は西欧で最低、インフレ率もどの占領国よりも高く、生活は困窮した。一方、ロンドンに亡命し、ド・ゴールによって結成された自由フランス政府はBBCや独自の放送局からフランス内地のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、フランス国内のレジスタンス勢力による諜報・妨害作戦を行った。主な傘下組織にはマキなどがある。武装組織である自由フランス軍は、イギリスからの軍事物資の支援を受けて北アフリカやシリアなどで連合軍の作戦に参加した。その中でヴィシーフランス内での反独感情は次第に高まっていき、本国以外の対独レジスタンスを味方に付けることに成功した。そしてノルマンディー上陸作戦で、パリを奪還することに成功した。
現代
第二次世界大戦後の1945年〜1975年のフランス経済は、経済学者ジャン・フラスティエより栄光の30年間と呼称された。この30年間において、フランスの経済は西ドイツ、イタリア、日本などマーシャル・プランの枠内にある国と同じく、大きく成長し続けた。この時期は経済的に繁栄するとともに平均賃金と消費が高く、社会福祉制度も大きく発展している。様々な研究によると、フランスの平均労働者賃金の実質購買力は1950年と1975年の間に170%上昇し、民間消費も1950年と1974年の間に174%上昇したという。2回の世界大戦で後退したフランスの生活水準は世界水準においても最も高い国の1つになった。フランス人の都市化も進み、多くの郊外県が人口減を経験した一方、都市部、特にパリでは大幅な人口増を経験した。生活雑貨や設備の所有が大きく広まり、労働者賃金も経済成長により大きく成長した。歴史家のジャン・ブロンデルとドナルド・ジョフリー・チャールトンが1974年に述べたように、「例えフランスが電話の数でまだ遅れをとれているとしても、労働者階級の住居は見違えるほど改善しており、消費者社会の様々な『ガジェット』はテレビから自動車にいたるまで、ほかの西欧諸国よりも多くの労働者階級によって購入されている」のである。1973年の第一次オイルショック以降、フランスの経済の爆発的な成長が遅くなり、1970年中期には「栄光の三十年間」が終わりを告げた。このような停滞は、1990年代まで続いた。1990年代後半になると、ジャック・シラク大統領によって経済が強化された。しかし、2008年になるとリーマン・ショックによる経済停滞の影響を受けた。これもフランス経済は対応を行い、経済緊縮を行った。
現状のフランス経済の問題点と持論
現在のフランス経済は、コロナ禍の打撃から脱却して回復傾向を見せている。実質GDP成長率は2000 年の3.8%をピークに低迷し、昨年は 0.5%まで縮小したが、今年は堅調な個人消費や民間設備投資に支えられ 2.5%(政府予測)の成長が見込まれている。近年は、内需による牽引力が強く、外需が弱い。ドイツでは内需が低迷している一方、ユーロ高にもかかわらず、中国、日本、アメリカなどの景気回復に伴う外需に牽引されているが、フランスはそれとはまったく逆だ。ドイツのように中国など、新興市場への輸出拡大に向けてより一層努力する必要があるだろう。なお、上半期の輸出入は共に回復している。
フランス経済で内需が好調の理由には、不動産需要が高まっており、家計の貯蓄率が2003年に15.8%を占めている。これは、雇用環境が悪化したドイツやイタリアに比べて雇用の増加率が高かったことや、潜在成長率の高まりで所得が増えたためとも考えられるが、それだけでは説明しきれない 「フランスの謎」(後述)だ。現在の出生率は1.8 人で欧州一とも言われるが、1998年や2000年にもベビーブームがあった。これらを背景にした新規住宅購入など、不動産需要の拡大が内需を支えている主な要因だとするエコノミストもいる。
財政問題では、政府の各種手当てが正しく支出されていない点が問題。例えば英国には フランスとほぼ同数の貧困者がいるが、より効果的に財政支出の成果が表れている。フランスでは財政赤字が拡大する一方で、依然として厳しい雇用環境が続いており、財政支出の有効性に疑問が持たれる。失業問題はさらに深刻だ。失業率は現在、約9.9%。1997年(12.3%)のピークから2001年には8.7%まで低下したが、その後再度上昇に転じ、2003 年には 9.7%に達した後、現在は 10%近くで推移している。特に若年者雇用が進んでおらず、25 歳以下の失業率は 25%に達する。一方で、50 歳以上の雇用もドイツや英国に比べ難しく、こうした雇用環境の停滞が経済に歯止めをかける不確定要因となっている。
また、フランス政府は3年前から財政支出を削減せず、景気の状況に応じた支出を維持している。ユーロ圏12ヵ国は「安定・成長協定」で財政赤字を GDP 比 3%以内に抑えることが求められているが、フランスは 2002年(3.1%)、2003年(4.1%)と協定違反の状態にある。 特に 2003年は景気減速による税収減と社会保障支出の膨張で財政赤字が拡大したが、2004年は景気回復と原油高に伴う税収増でGDP比3.6%まで縮小すると予測されている。政府はさらに、2005 年には協定を順守し財政赤字をGDP比で 3.0%以下に抑えるとしているが、GDPの6割を超す約1兆ユーロ(欧州最大規模)の公的債務残高など、財政の構造的な問題は根深い。これ以外でも予測不能なさまざまな問題(異常気象など)に対して適正な支援が求められており、財政の健全化は一時的なものにとどまるだろう。
おわりに
「フランスの謎」について、欧州中央銀行(ECB)は、ユーロ圏の景気を支えるために長らく低金利政策を維持しており、特にフランスでは住宅ローンの金利が歴史的に低い水準に抑えられている。これにより、低金利を活用して住宅を購入しやすい環境が生まれた。一方で、ドイツでは賃貸文化が根強く、イタリアでは金融不安が住宅ローンの拡大を抑えている可能性がある。また、パリを中心に都市圏への人口流入が続いており、不動産需要が高まっている。また、フランス政府は地方の活性化を目的に地方都市の不動産投資を促進する政策(税制優遇など)を展開しており、これが投資需要を押し上げている可能性がある。フランスは欧州の中でも比較的資産課税が緩和された国であり、特に不動産への投資が魅力的になっている。英国のEU離脱(Brexit)以降、ロンドンからの富裕層移住が進んでおり、パリの高級不動産市場が活況を呈している。また、中国や中東の投資家も、フランスの安定した市場に魅力を感じ、投資を進めている。フランスでは、持ち家志向が比較的強く、親から子へ資産を継承する文化が根付いている。加えて、フランスの相続税制度には一定の優遇措置があり、不動産を所有し続けるインセンティブが生じる。こうした文化的要素が、不動産需要を押し上げる一因になっている。
このような文化的な要素から政治的な要素に至るまで幅広い領域が複雑な要因となって起こった上での謎となっている。この「謎」は、フランス経済の独特なダイナミクスを示しており、今後の政策や市場動向次第では、不動産バブルや価格調整といった新たな展開を迎える可能性もあるだろう。