産業革命による大変革とその後の社会
はじめに
今見ているであろうスマートフォン、そしてその中に搭載されたAIやIoTなどのテクノロジーなどデジタルコンピューターを始めとする道具や機能。そして日常生活上欠かすことのできない電子レンジや冷蔵庫、洗濯機などの家電、ソファや布団などの家具、時計や印刷機などの道具はデジタルであっても、アナログであっても、ほとんどが産業革命によって生み出されたものである。
名誉革命後の近代、イングランドから始まった第一次産業革命は、生産活動や経済活動、社会構造に大きな変化を与えた。産業革命以前の世界は、貴族や地主といった高い地位に属する人々は生産活動に従事せず、農民や労働者を中心とした一般市民が生産活動に従事していた。現代の我々からすれば、どの身分であっても平等に生産活動や消費活動に従事しなければならないため、現在の価値観で当時を見てみると、非合理的なものであるだろう。燃料も主に木材が使われるようになったが、次第に木が枯渇していき、石炭が使われるようになった。紀元前から人類は鉄や金、銅、石炭などの素材を採取し、発明を行ってきたが、中世や近世になると大航海時代によって新大陸であるアメリカやアジアから新しい素材を採取していた。人々はその素材を手に入れると、これを大量生産できるような技術を欲しがるようになり、軽工業を中心とした大規模な工業化やそれに伴った階級闘争が激化していった。
その後、フランスやドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、そして最終的には日本と幅広く社会に広がっていった。これらの国は全て交通の便が優れていたことから始まったのである。そして第二次産業革命にて、蒸気動力などをもとに化学や電気、石油及び鉄鋼などの重工業が発達したり、食料や飲料、衣類などの製造が機械化、輸送手段革新、映画や写真などの映像技術や、ラジオや蓄音機などの音楽技術も発達していき、社会的に大変革を起こしたものであり、人々が便利になるきっかけとなった社会であった。しかし、その影響は地球温暖化や感染症拡大、共産主義や帝国主義の台頭、大不況など様々な悪影響を生むことになっていった。
そして第三次産業革命では、インターネットが登場したことによりパソコンやコンピューターなど情報技術により様々な道具がデジタル化し、現在では生成AIや仮想通貨、量子コンピューターなどの第四次産業革命に至っている。
このような産業革命全般では、一連の産業の変革や、エネルギーの変革、経済の変革を生み出したわけだが、今回の話題ではこの5点についてを一気に概観していこうと思う。
産業革命以前の社会情勢
先史時代、言語が生まれる前にアフリカで誕生した人類(アウストラロピテクス)が二足歩行するようになると、最初に石を道具として使い出した。彼らは石を荒削りにし、狩猟対象に対して投擲を行う武器として使ったり、製粉・調理用としても使われたため、旧石器時代が始まった。前期の段階では、火を使いこなせるようになり、狩猟した肉を焼いて食べる時に多く使われた。それを行ううちに脳が発達し、原人となって人の形に近づいていった。中期になると、口笛などの音楽や集団や貿易が形成され始め、次第に脳が発達してネアンデルタール人を中心とした旧人が生まれた。また、ホモ・ハイデルベルゲンシス墓地から考古学的発見によりこの頃から現生人類であるホモ・サピエンスが生まれたのではないかと考えられていたが、現在であっても多くの科学者が疑問視している。現に参考書の多くには載っていない知識でもあるため、不可解なものではあるものの、そういった学説は存在しているのだ。後期旧石器時代や新石器時代になると、銛や針、鋸が生まれ、宗教的な信仰運動となる感情も芽生え始めたり、狩猟活動や採取をメインとした獲得経済から農耕や家畜による生産活動が活発化、それにより階級制度も生まれるようになり、戦争などを起こすようにもなった。この時点で生産経済を行うようになったのは北アフリカや中米、中東、中央ユーラシアにかけての地域である。特に地中海、中東、インド、中国の四地域は文明が発達していき、文字を生み出したり、国家や市場を形成、交通手段を作り出したりなど集落を作り出していった。
それと同時に、金から始まり銀、銅、鉄と鉱石を精錬したり、採掘する技術もどんどん発達していき、中国では木から、中東では粘土板から文字を書くという紙の発端となるようなものもこの頃に形成し、中国後漢期に蔡倫が紙を形成した。またインドやギリシャ、中東では数字などを研究したり、太陽の動きから天体観測をし時間を作り出したりしていた。
そうして建造物なども発達したり、色々な考えを形成していったのであるが、これらの特色はそれぞれ違うものであり、ヨーロッパでは素材から道具が発達し始めることはあまりなく、古代ローマから伝わった宗教や民族観にとてもこだわっていた。一方、中国と中東はユーラシア大陸をまたぐシルクロードを形成して、素材を採取し様々な道具を生み出したりすることにとても拘っていた。そしてアジアの地域では階級制度にもとてもこだわっていた。中東やインドのように宗教観から形成された階級制度を取り入れたり、中国も近代の清王朝までは代々君主制のもと国を強化していった。またゲルマン民族はもともと長が率いる軍隊で行動していたため、中世では君主制が形成されていき、近世で絶対王政を確立させた。
近世になると、スペインを中心に大航海時代が始まり、インドや中南米などの色々な大陸を冒険することで様々な文化を取り込み、そこで手に入れた素材を通じて新しい技術を求めるようになっていった。これがヨーロッパにおける列強の幕開けである。当時から中南米やアジアに持つ植民地を通じて様々な素材を徴収し、国を発展させていったが、これを英国は大量生産する術がないかと発明家たちは必死で考えました。その結果として始まったのが産業革命であるわけです。
第一次産業革命と第二次産業革命による工業化の影響
このような流れで英国のマンチェスターやリヴァプールにて羊の囲い込み運動を始めとして第一次産業革命が始まっていった。英国は最初にフランスやネーデルラントから毛織物を輸入していたものの、スペインとの関係悪化から輸禁された。そのため毛織物を大量に必要としていた。その生産過程における様々な技術革新が行われた。例えば、ジョン=ケイにより織機の一部分である飛び杼が発明されるようになり、その後にジェームズ・ハーグリーヴスがその原理を使ってジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であり、のちの改良によってさらに紡げる本数は増えていった。ただしこの段階ではいまだ紡績は人力と熟練に依存していた。ジェニー紡績機は小型であることもあり農村工業地帯に広く普及した。そしてリチャード・アークライトによって、水力紡績機を開発した。綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小型ではなく、人間の力では動かない大型の機械だったため、動力源に水力が使われた。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据えつけて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより大量生産が可能になり、立地に制約がなくなった。しかし、紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、この頃から失業を恐れた、または産業革命自体を不満に思った労働者や同業者から打ち壊しやストライキにより何度も妨害を受けた。この発明により本格的な工業制機械工業が始まっていった。その後もサミュエル・クロンプトンが細くて丈夫な糸を作るためのミュール紡績機を発明したり行った。
またこの頃、古代に考えられた蒸気機関についてが再び考えられるようになってきた。まずドニ・パパンは、ロンドン王立協会で、ゲーリケのマクデブルクの半球などで実証されていた大気の力を取り出すための真空を実現するために、水の蒸気の凝縮現象を利用するというもので、真空と大気圧との差をピストンとシリンダーを用いて取り出そうとする蒸気機関の原理を発表した。その後、この原理が基本的なものとなり、英国海軍軍人であるトマス・セイヴァリは火の機関と呼ばれる蒸気機関を国王の目の前で実験を成功させ、特許を取得した。これは容器内の蒸気の凝縮による負圧で下方の配管から水を吸い上げ、それを再度蒸気の圧力で押しだして別の配管で上方へ排出するものであった。いくつかの原理的欠点があり、低揚程で小水量の限られた用途でしか成功しなかったものの、火力によって揚水する装置というのは当時において革新的であったため後の科学者により、改良を加えられるようになった。そして英国の発明家であるトマス・ニューコメンはパパンやセイヴァリの蒸気機関の原理を使い、ボイラとは別に設けたシリンダーの蒸気に冷水を吹き込んで冷やし、蒸気が凝縮して生じる真空(大気圧)でピストンを吸引し、頂部の大きなてこを介して、その力で坑道からの揚水ポンプを駆動する蒸気機関を発明し、世界で初めて鉱山排水用に使われるようになっていった。またスコットランドのエンジニアであるジェームズ・ワットにより、ニューコメンの開発した蒸気機関の効率の悪さを改善するため、復水器で蒸気を冷やす事でシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増した。さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、フィードバックとしての調速機の利用による動作の安定に重視された蒸気機関に改良された。この原理は後にリチャード・トレヴィシックにより高圧蒸気機関の開発を成功させたり、アメリカのジョージ・コーリスにより吸気弁と排気弁を改良したコーリス蒸気機関によってさらに大幅に効率が改善させることに貢献した他、ロバート・フルトンがこの原理を利用した蒸気船を発明したり、ジョージ・スティーヴンソンにより蒸気機関車が発明されるなど交通手段からも革新的な変化が起こった。その中でエドモンド・カートライトも蒸気機関を利用し力織機という新しい機織機を発明した。
その後、イギリスで開発された蒸気機関は、ヨーロッパ諸国やアメリカ、日本に産業革命の進行と共に19世紀を通じてゆっくりと輸出されていった。これとは対照的に第二次産業革命においては、化学、電気、石油および鉄鋼の分野(重化学工業)で技術革新が進んだ。消費財の大量生産という仕組み面の発展もあり、食料や飲料、衣類などの製造の機械化、輸送手段の革新、さらに娯楽の面では映画、ラジオおよび蓄音機が開発され、大衆のニーズに反応しただけでなく、雇用の面でも大きく貢献した。しかし、その生産の拡大は長びく大不況 (1873年-1896年)といわゆる新帝国主義に繋がる要素も持っていた。また、幾つかの国において内燃機関の実用化が進み、その概念に関する普及も速く進んだ。最初は石油ガスを動かす原動機とその原理を使った自動車がフランスによって開発されたが、量産できるまでには至らなかった。燃料として石炭ガスの代わりに石油を使って革新を遂げたのはドイツのゴットリープ・ダイムラーであり、これが数年後には自動車に適用され、1890年代から1900年代にはイタリアやフランスなどのヨーロッパ諸国やアメリカ、日本などの工業国で内燃機関を使った自動車の生産が始まった。間もなくアメリカのヘンリー・フォードが、1908年にデビューした「フォード・モデルT」により内燃機関を大量生産して社会に大きな衝撃を与えたり、ドイツがディーゼル機関を発明したりと大きな成果を上げていった。ドイツやアメリカ、日本は工業でイギリスのあとを追い、資本、労力、及び時間を節約した。ドイツは最新の技術を使うことができたのに対し、イギリスは高価で時代遅れの技術を使い続けたので、せっかく科学的な進歩があってもその成果を自由に使えなかった。
産業革命は1760年代から1830年代までに及ぶ非常に長くゆるやかな変化であったが、産業革命以前と以後において社会の姿は激変していた。農民の比率は減少し商工業従事者が激増したが、中でも鉱工業に従事する労働者の数が大幅に増えた。工業の比率が高まるとともに都市には多くの労働者が集住するようになり、都市化はこのころから徐々に進むようになった。生産システムも、それまでの家内制手工業から工場制手工業、いわゆるマニュファクチュアに代わり、都市に大規模な工場を建設して機械により生産を行う、いわゆる工場制機械工業の割合が増加していった。一方で、産業革命によって良い結果をもたらした一面もあれば悪い結果をもたらした一面もある。産業革命が進展する一方で、マルクスは資本家は資本の人格化という以上の意味をもたない。産業資本においては、生産手段と労働力を結合させることによって自己増殖する価値としての資本を形成し、産業資本家は、両要素を結合し、剰余価値を搾取しようと意思する人格である。利子生み資本においては、貨幣を運用することで価値の自己増殖をおこなわせ、利子生み資本家は、自己増殖のための運用を日夜考え実践する人格である。資本家が労働者を長時間働かせて絶対的剰余価値を搾取するのも、できるかぎり健康管理設備に投資をせずに不変資本を節約するのも、資本家が「悪人」だからではなく、資本という、あくなき剰余価値の追求者であるからにすぎない、と考えた。この考えに影響を受けた労働者も多く、特にロシア帝国内ではポグロムを筆頭に、人種差別や身分差別が横行していたためこのような不満が募っていた。かのソビエト社会主義共和国連邦の創始者及び指導者として知られるウラジーミル・レーニンも彼の考えに賛同し、ロシア革命を起こしたのである。このような共産主義の考えは全く否定するようなものではないが、厄介なのは共産主義の中に含まれる全体主義の部分である。共産主義は、経済資源を分配するために権力を共同体に共有するという考え方であるのだが、その共同体が独裁的な動きになってしまえば、人種差別や身分差別も減少するどころか更に激化することになるのだ。また産業革命による思想の形成に限った問題ではない。産業革命は蒸気機関による工業化・機械化により始まったものであるが、その影響は環境にも影響を与えるということだ。特に化学燃料の酷使によって二酸化炭素やメタン、亜酸化窒素、硫黄などの元素が大気中に蔓延し、地球上の温度が飛躍的に上がる地球温暖化という問題が発生した他、酸性雨やスモッグ、水質汚染など地球規模での問題が発生している。更に、環境悪化により日本では高度経済成長期にイタイイタイ病や水俣病という病気が流行った他、産業革命はこれよりも治療の難しい病である結核やコレラ菌、麻疹、風疹などの感染症の流行が社会問題となった。特にロンドンではコレラ菌も多く存在していたため、英国の食文化悪化や衛生面悪化、経済の大規模インフレなど様々な悪影響を及ぼしました。確かにインフレはいい効果をもたらすこともあるが、財やサービスの消費が減退し消費マインドが低下してしまうため、企業の業績が悪化するという問題が起き、恐慌が発生するリスクがあるのだ。
第三次・第四次産業革命と情報学の革新
第二次産業革命時、様々な乗り物や内燃機関が誕生した一方で、ポーランドではキュリー夫妻が原子の性質についての研究に取り組んでいた。その中でポロニウムというウランよりも強い放射線を放つ原子を発見した彼らはその物質にラジウムと名付けたが、この発見を知った科学者と一般の人たち両方は、我々のまわりにある物質が、莫大な量の見えないエネルギーを有していることを知り、これを利用できるかもしれないと考えるようになった。これ以降様々な科学者が原子についてを研究。その中で、ロバート・オッペンハイマーはアメリカや英国によるマンハッタン計画内で世界初の原爆実験として標的を長崎県と広島県に定め、原爆や核による危険性を世界中に知らしめた。アメリカを脅威に思ったソ連は、同じく戦後に技術開発を行うなどしてアメリカに対抗する姿勢を見せたため、冷戦に突入した。また、一方で第一次世界大戦後アルベルト・アインシュタインが相対性理論という従来の物理学とは異なった衝撃的な理論を生み出した。この理論は光は一定の速度で動くが、光を超えた速度で動く物質はこの世に存在しない。そして物質は空間の歪みに向かっていくという結果をもたらした。これは1919年にはイギリスの物理学者アーサー・エディントンにより皆既日食を利用して光の動きを天体観測していたが、一般相対性理論における遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力によって光線が曲げられるため、本来の位置からわずかにずれて見えるという法則が見事に証明されたため、世間への認知が一気に高まったのはもちろん、天文学者や物理学者がこの理論の証明に驚愕しつつも冷戦期に宇宙についての研究を始めた。
またその一方で、アメリカ国防総省の高等研究計画局では軍事用として核兵器にも耐えられる通信手段としてパケット交換についての研究が行われていたが、ロバート・テイラーという学者はデータをパケットと呼ばれる単位に小分けして転送し、 受信側で小分けされたパケットを集めて元のデータに復元する方式です。 小分けされたそれぞれのパケットに送信先を示す情報が付けられるため、 途中に故障した回線や中継機(ノード)があっても、 各ノードがそのパケットを迂回させて宛先まで届けることができるARPANETという後のインターネットとなるものを開発した。1946年にフレミングの発明した二極真空管を使い、ペンシルヴェニア大学にて演算処理をするデジタル計算機ENIACが作成されるようになった。このインターネットとコンピュータ、そして1956年に開発されたAIの全てが搭載されることによって現在スマートフォンや、ITなどの技術が搭載されたのである。この冷戦期までの一連の流れを第三次産業革命という。広義としては日本の高度経済成長も含めるかもしれないだろう。これも情報格差が拡大したり、AIの可視性がないことなどのデメリットは存在する。
もしも別の国で産業革命が発生したら?
ところで西欧や日本は、産業革命が始まった前から発展していた。レコンキスタや大航海時代、産業革命が発生して、ようやく東欧や中東、アメリカ大陸が発展を遂げ始め、第二次産業革命以後の帝国主義の動きから影響を受け、対抗するためにようやく中国やインドなども自国の勢力を持ち始めるようになっていった。
では、アメリカ大陸については一度置いておき、西欧や日本を第1地域とし、中国や東欧などの他のユーラシア大陸は第2地域と考えよう。第1地域は交通網や教育水準、工業力、生活水準などが非常に整っており、古代から現代に至るまで比較的安定して近代化に応じて国力を増強させることができた。第1地域は、近世以降産業革命により数百年に渡って豊かな状況が続いており、近世の騎士のほとんどは第1地域の恩恵を受けて、現在は民主制や自由経済という点でそれぞれの国が非常に近い価値観を共有しており、これまで辿ってきた歴史もよく似ている。例えば日本とドイツは島国と大陸国といった遠い違いがあるにも関わらず、諸侯が乱立していた状態から、統一国家の帝政となったが、他の列強と比べて後進的で工業化と植民地獲得が遅れ、世界大戦で敗北したことから現代になって工業化に励んだという歴史を持っている。大航海時代や産業革命によって近代化を遂げた第1地域であった一方、近世から近代にかけてロシア帝国や中国・清王朝、オスマン帝国、オーストリア帝国などの第2地域は衰退の時期であった。オーストリアやオスマン帝国はナポレオンの台頭以降から市民革命を起こすものの最終的に第一次世界大戦時に崩壊、ロシア帝国も日露戦争の敗北や共産主義革命により失脚、清王朝もアヘン戦争を始めとし欧米列強相手に連敗や賠償金が重なったことから辛亥革命が発生した。そしてそれらの国はどこも戦間期や第二次世界大戦後に民族自決によって独立を果たしたものの急速な発展を遂げることはなく、現在まで独裁制を貫いており人々の権利は抑圧されていった。では一体何が両地域の歴史をここまで変えてしまったのだろうか?
中央ユーラシアのステップ草原には、四大文明が全て交わる地域であったものの遊牧民により破壊されたりするなど文明にとっては脅威そのものであった。このため遊牧民という存在が発展を抑制する塊となってしまい、発展は著しく遅れてしまったのである。一方日本は海を隔てていたために、遊牧民の支配を受けることはなく発展していった。欧州も民族大移動を経験したものの、それまでにはローマ帝国やビザンツ帝国などの強大な国力を持った国が台頭したため、その地域による支配を受けることはなかった。また日本が急速な発展を遂げたのは、どのアジアの国々よりも早く欧米との交流を行っていたからなのもある。近世はスペインやポルトガルによる進出が始まり、インドや中国、日本に到来し貿易を行った。インドはそのまま植民地支配を受け、中国も鎖国政策を行うものの大陸のロシア帝国の存在や隣国のインドが英国に植民地化されたのもあり、何度も連敗し、支配を受けてきた。日本もそうなるかと思いきや、スペインやポルトガル、アメリカ、英国は日本に接近した。日本側は一度は鎖国したものの、欧州に対する攻撃性がないのと、欧米からの文化を比較的すぐに受け入れたのもあって、戦争をするには至らなかった。ロシア帝国は、これに納得が行かず戦争を起こすこととなったが、英国やアメリカと同盟を組んでることで日本の勝利は決定的なものとなっていた。では、このような立場が逆転した場合どうなるのか。地政学的理由を除いて考察していこうと思う。
ロシア・東欧の場合:第三のローマ
ロシアは、もともと北欧のノルマン人や東方のモンゴル帝国の支配を受けたため、発展が遅れていた。そのため分岐点となるのはおそらくキエフ・ルーシの時代にあるだろう。まずポーランド王国はカトリックであり、キエフ・ルーシはギリシャ正教会と真逆の立場に立っている。もし、ポーランドがギリシャ正教会ならばどうなるのだろうか。前者の場合はポーランドが神聖ローマ帝国の考えを受け入れず、ビザンツ帝国との関係を深めたり、その民族自らが正教会となって、神聖ローマ帝国に対抗する動きを見せるだろう。その頃神聖ローマ帝国は大空位時代であり指導者がいないため混乱が発生するまま史実以上に滅亡することが速くなる。こうなればロシアやビザンツ帝国と同盟を組むことや広大な領土を手にすることは可能だ。キエフ・ルーシは東ローマ帝国出身者の貴族が多いため、カトリックに改宗する可能性が低く、ゾロアスター教やユダヤ教国教の国として建国される可能性としてのほうがまだ可能性が高いとは思うが、ヨーロッパの多くはキリスト教であるため、同盟相手のいないロシアは史実通りモンゴル帝国に敗れることになるのは確実だろう。またポーランドやビザンツ帝国と組めば、ここで十字軍を呼びかける可能性もあるため、モンゴル帝国の動きを防げる可能性も高い。
そしてこの世界では、ポーランドやロシアの動きが勢いを増すため、史実とは違う動きを想定できる。ビザンツ帝国がイスラーム勢力に負けてしまうのは想像つくものの、タタールの軛は起きないので、ロシアやオーストリアはドイツと同じように発展を遂げていくだろう。またこの世界の東欧はアメリカよりも早く民族自決を唱えれば強国となることもできるかもしれないが、恐らくその方法は処刑だと考えられる。そしてこの世界は近世にオーストリアにより統治されたり、最悪そのときに英国を支配することになることもあり得る。東ヨーロッパ諸国が強くなれば西欧の権威はなくなっていき、パン=ゲルマン主義、パン=スラヴ主義といった野望もなくなるだろう。
中東の場合:イスラームの大帝国
中東が勢いを増し始めたのはイスラームによるウマイヤ朝が誕生したときであるが、このときビザンツ帝国との戦いはもちろん、フランク王国ともトゥール・ポワティエ間の戦いが始まった。史実ではフランク王国に敗れてしまったが、このときにイスラームが勝っていたらフランスやドイツ、英国がイスラーム勢力圏に入ることになり、史実以上に勢いが増すだろう。また、ユダヤ教によるシオニズム運動も減ることになり、アラブ世界は史実以上に現代まで平和になる可能性が高く、ヨーロッパからアフリカ、インドまで続く大帝国、連邦が形成された可能性も高いだろう。そしてヨーロッパの動きも勢いを失っていき、大航海時代もイスラームを布教する形で行われるはずだ。
中国の場合:史実とそんな変わりない
中国は近代に至るまで長らくの間巨大な版図を得ることができたものの、漢王朝以降違う民族により交代交代で中華全体を支配していたため、民族的な発達が遅れていた。もし、モンゴル民族ではなく漢民族が、中央ユーラシアなどにいる北方民族を破り、大規模な版図を手に入れ、民族自決を主張したら、また世界は変わった見方をできるだろう。また中国は領土的野心が強いため、ヨーロッパを支配することを画策する可能性もあり、日本やヨーロッパは中国の拡大政策に対抗する可能性はある。ロシアという強大な国家が誕生することは少ないが、共産主義革命が起こる未来はおそらく変わらないだろう。
インドの場合:鎖国により発展
インドと欧州が接近したのは大航海時代以降である。それまでにインドがイスラームに対抗できる勢力を中世までに有したり、欧州に対する鎖国政策を実施したりすれば、インドが史実以上に強くなる可能性が充分あるだろう。インドが産業革命に成功すれば、インドを中心とした南アジア・東南アジアの経済圏を形成し、欧州と台頭の力を手にするという、史実の日本のような動きをすると予想する。またイスラームに対しては進出する可能性が高く、インドも植民地を持った民主国家になる可能性が高い。
そもそも産業革命が起きなかったら?
さて、そもそもイスラームの支配を受けず、史実以上に世界上の一つ一つの民族が産業革命を起こそうとしなければどうなっていたか。おそらく、インドや中国、日本が発展する可能性が高く、欧米は緩やかだろう。また道具の機械化は発生せず、農業生産が中心となるし、封建制も継続するか共和主義が中心となるかの二択になることは間違いないだろう。おそらく戦争による経済競争はあるが、近世の大航海時代を経験せず、国の発展が緩やかな以上欧州にとって対抗する国は神聖ローマ帝国ぐらいしかおらず、その帝国も最終的には崩壊する可能性もある。そうなった場合はナショナリズムも共産主義も帝国主義も生まれない。つまり欧州とアジアの立場は逆転することになるだろう。
おわりに
産業革命には、技術、経済、社会、政治のあらゆる側面において、近代世界の基盤を形成した。その影響は広範であり、産業社会の発展、国際貿易の拡大、そして現代的な政治・経済システムの成立に大きく寄与している。この変革は、今後の世界史においても不可欠な研究課題であり、現代に至るまでのグローバルな影響力を持ち続けています。
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