持論紹介
はじめに
皆様ご無沙汰しております。金子宗一郎ことハイ・ヤーと申します。今回はいつものように論文を書くようなものではなく、ただひたすらに自分の考えや主張についての情報を論じていきたいと思います。
持論には以上のような法則があるが、持論は単に自分自身だけが信じているような論理ではなく、以前からある意見や考え方を持っていて、その意見を集約したものを自分自身が表明するときに使う。その材料の多くは思想体系や政治、経済、倫理、理学系、文学系などから得た様々な知識から多く派生する。例えば、国際政治から派生された持論においては、領土問題に対する見解や、現在体系化されているイデオロギーの問題、外交問題、選挙の格差問題、世襲問題、宗教問題など様々なものを取り上げることができる。有名なのは北方領土・竹島・尖閣諸島問題の主張、靖国神社参拝問題、民主主義などのものが多く挙げられる。またそこから紐解いた歴史という概念は考え方を180度変えれば新しい見方をすることができるため、歴史という一つのカテゴリーの中で様々な解釈を広げることができる。また、他にも倫理学から派生された安楽死・自殺に対する見解や、子どもの貧困問題、親からの虐待問題まで。経済学から派生された資本主義・社会主義の問題や現在の世界経済の状況についての見解も、人によって変わるものである。これらのことを解決するために内閣は様々な部門の省から大臣が選出され、それを分類するということを行っているわけだが、それと同じようにそれぞれの適正は存在するのである。その中で私は自身の持論を紹介していこうと思う。
歴史認識
歴史認識問題とは、ある歴史上の事象についての認識が一致しないことから引き起こされる諸問題のことである。たとえば日本国内などで国民的争点となるだけにとどまらず、しばしば、国家間の争いの様相を見せる。
ドイツ帝国戦勝論
個人的な思考のうち、私は第一次世界大戦はドイツ帝国が戦勝すべきだという考えを掲げている。私はプロイセンの文化や歴史が好きである。プロイセンの歴史を言うならば、中世での神聖ローマ帝国の東方政策により、現在リトアニアやカリーニングラードにあたる地域にドイツ騎士団国を建国し、北方戦争でも上手く立ち回った結果ポーランドやスウェーデンから宗主権を解放した。オーストリア継承戦争や七年戦争においても外交能力を発揮し、勝利。ナポレオン戦争には一時期敗走したものの、軍を再編してワーテルローの戦いでナポレオンに打ち勝つことが出来た。そしてその反動によりドイツ帝国が成立したという過程である。上述のようにプロイセン王国は強力な軍事国家であり、ビスマルクにより起草されたドイツ帝国憲法は、君主的連邦主義とプロイセン優越主義とがその根本原則から普通選挙、直接選挙、秘密選挙の選挙制度であって、満25歳以上の男子が選挙権を有し、選挙権を有する者であって1年以上ドイツの国籍を有する者は、全て被選挙権を有するという帝国議会選挙制度を持ち、ホーエンツォレルン家を主体とする皇帝の世襲制が行われている。またなんといっても東プロイセンやシュレージエン、エルザス・ロートリンゲン、シュレースヴィヒなど現存しない領土も持っている他、ただ領土を持っているだけでなく、世界史の国の中では最も綺麗な形をしていることであることからである。またドイツの科学力がヨーロッパ内で最も高い理由として、ドイツ帝国期に行われた産業革命が起因する。各領邦国家は急速に工業化され、特に石炭、鉄(後に鋼鉄)、化学薬品、鉄道が強みとなり、第一次世界大戦敗戦となるまで世界第二位の経済力を誇る国家となり、戦間期においてもその力はまだ残っていた。
なぜ私がドイツ帝国は戦勝すべきだと思ったのか。これは第一次世界大戦にてロシア帝国よりも上の実力を持ちながらも英国、フランスと互角の力を持っていたにも関わらず、ナチス・ドイツに結果が劣ったことが個人的に悔しかったのである。確かにナチス・ドイツは電撃戦という戦法を使いだしたり、再軍備宣言にて軍事拡張を大幅に進めたし、装甲部隊を温存させたのもあったし、フランス側もポーランド、チェコスロバキア、ベルギーと同盟を結んだものの、全てドイツに併合されたために圧倒的な優位を付けられていたのもあってナチス・ドイツの力は強い。第一次世界大戦と第二次世界大戦のフランスの動きの差はその点にあったのではないかと推測する。第一次世界大戦は、塹壕戦を使って敵を膠着させたりするなどを行っていたが、第二次世界大戦は、既に第一次世界大戦の結果から人口が少なくなっていたことや、アメリカの参戦を受けなかったことや独ソ不可侵条約が締結されたことから膠着することもなく、ドイツ軍の急激な侵攻に対してパリが陥落せざる終えなかった。一方、ドイツ軍が第一次世界大戦でフランスを陥落出来なかったのは、大前提としてロシアとの応戦で、東側戦線との二正面作戦で大国相手に軍備を割かなくてはいけないことがあったことから、英仏軍またはベルギー軍相手に突破力を発揮することはできなかった。それでも最終的にはベルギーを陥落し、フランスにて戦争を行うことには成功できているが、補給線の問題があったことから戦線が大幅に停滞した。ドイツ帝国軍の作戦を少し変えれば、戦勝することだって出来ていた。東部戦線においての言及はしていないが、ドイツ帝国軍は東部戦線においてはこの当時成功したと言えるだろう。タンネンベルクの戦いではロシア軍の数を大きく減らす結果を出し、二月革命へと繋がっていった。もし、この時にフランスへの侵攻計画を立てずに、ロシアに対して専念をしていたら、世界秩序はおそらく大きく変わっていたことだろう。また、戦前においてドイツ帝国は大英帝国と建艦闘争や植民地などにおいても対立を深めたことは停滞の原因としても挙げられる。同盟国であるオスマン帝国はここに介入できるが、各地での独立運動の動きは盛んである。オーストリアなどはバルカン問題で以ての外だ。そこでもし、ドイツは英国との対立に舵を切るのではなく、フランスとの対立だけに舵を切り、英国やロシアとは対立を行わないなどとにかくドイツにとっては戦線を増やしすぎないことが重要なことだろう。つまりオーストリアに介入しすぎないというのも一つの手段としてはあったはずなのである。そしてなおかつルシタニア号事件の動きからアメリカが参戦したことにおいてドイツの敗北は確定した。そのため、そもそも無制限潜水艦作戦など海軍で動き出すことはあまりしないほうがいいのかもしれない。しかし、ここまで課題点を挙げたものの、史実でもアフリカ戦線やアメリカ参戦前の西部戦線において、大きな成果を挙げたため、ドイツ帝国軍の勝利は近い位置にあった。またドイツ帝国が勝利すれば、ソビエト連邦が成立しなかった可能性もあった。第一次世界大戦が早期に終結すれば、ロシア革命に介入する連合軍は中央同盟国を含め、ほぼ先進国全国は行うはずであるので、ソビエト連邦は成立することがなかったのではないかと推測する。そして東欧での混乱は史実よりも抑制され、新たなる秩序が生まれる可能性がある。また現代においてドイツ語圏というのはフランス語圏よりも少なく、東欧に一部いるぐらいで国連公用語にも定められていないが、この世界においてはドイツ語がヨーロッパの大半を占めるようになり、史実では脇役となっていた芸術史においても新たなるものが生まれたりする可能性があることも期待できる。
アジアについて
我が国の歴史観は様々な議論があるだろう。従来の歴史主張では日本は紀元前660年から始まった世界最古の国とギネス世界記録を達成しているものの、中国は既に春秋・戦国時代であったため、漢民族の歴史と比較すると個人的には納得が行きづらい。しかし日本では、日本国という国が成立する前は倭国という国として既にこの段階で建国されていたため、この記録の歴は中国と同じぐらいか越えているぐらいだろう。また朝鮮は檀君朝鮮というものが紀元前2333年ぐらいからあったが、伝説上のものであり、そこを含めるなら日本の伝説としては、このぐらいには既に始まっていてもおかしくないので、檀君朝鮮の主張はここで撤去するものとする。さて、問題は中国と日本の歴についての比較だが、日本が紀元前660年という段階で国が成立し、世界最古の国というのは例え、漢民族の中国が途中で民族の入れ替わりが生じて年数が減ったとしても、その時代に漢民族が生きていなかったとは限らなかったため、あまり信憑性が薄いように思える。それを考慮に入れるのならば、紀元前1600年に始まった中国と紀元前1000年に始まった日本では、やはり中国のほうが少しだけ年数が長いように感じる。しかし、中国は定住生活を始めた=国を建国したという位置づけをされているため、そう考えると日本は紀元前5千年紀あたりには定住生活を始めたとされているので、日本のほうが古いのは納得がいくが、日本の場合では国の建国と扱われたとはならない。では、中国の建国を秦王朝として見れば、やはり日本が東アジア最古の国となる。しかし、西アジアを見ると紀元前3000年には既にエジプトで国が建国され始めており、紀元前1975年にはアッシリアが建国されたため、西アジアを含めると日本は世界最古とは言えない。そのため私は秦王朝よりも建国が先であった東アジア最古の国であれば日本だろうと考えている。そして、日本には邪馬台国という国が九州にあるのか、近畿にあるのかがわからないところだが、私は九州であると予想する。尺貫法で計算すれば「短里」(75~90m)として当てはまるのはもちろんのこと、吉野ヶ里遺跡など多数の遺跡が検出され、そして朝鮮半島や中国大陸に比較的に近い位置にある九州は、文明との交流が盛んであると地理的に予想できるためである。わざわざ中国から陸路で近畿に行くのなら道中でそれなりの記録があるだろう。
またその後邪馬台国滅亡後266年〜413年の古墳時代にあたるまで、空白の4世紀として中国からの歴史文献が一切ない間文明が盛んに勃興した歴史にも記されていないよく分からない時代がある。この間中国は五胡十六国時代であったため、大きな内乱が勃発していたことにより、書物を残すことすら難しかった時代であった。古墳時代の道具を探れば、既に鉄器や馬具、農耕具などが発展していた。私は、おそらく遊牧民族(鮮卑または女真民族とかアルタイ語族?)との関わりを朝鮮半島や九州を中心に持つようになり、取引を行って、近畿に移動したという説である。まず根拠としてモンゴル人と日本人・女真民族の特徴に共通点があることや、中国の宗教が仏教なのに対し、日本は遊牧民と同じく自然崇拝を行う国家神道に多数派を占めていること、また馬具の存在から馬が取引されたことも大陸とのつながりがあったのではと予想できる。また、本能寺の変については明智光秀がクーデターを起こし、弥助を始めとする家来たちは全員死去したと考える。また、坂本龍馬暗殺も日本の歴史上謎とされているところであるが、これについては京都見廻組の犯行であると予想する。1年前までは紀州藩によるいろは丸事件の報復と予想したが、この頃の藩の力はすでに大政奉還により弱まっていたこともあり、反幕府勢力の復活による治安の悪化を防ぐために新設された組織のほうが信憑性は高いだろうと踏んだ。
一方、インドのインダス文明を作った民族は誰なのかという解いであるが、これは南インドの先住民族のドラヴィダ人であると予想する。と、いうのも他の先住民族がインドの中ではおらず、いたとしても国境のイラン系の民族であるが、他の王国として発展していたり、ティグリス川はインドからは離れた位置に属してるため、イラン系は関係ないのではないかと予想した。
諸考察はこれぐらいにして、歴史認識についてのことを述べる。まず、明治維新後の日本の国名はおそらく日本帝国であると予想する。明治維新後すぐの段階では朝鮮や台湾はもちろんのこと、千島列島、琉球王国及び尖閣諸島を所持しており、対外進出は行わなかった。幕末期には松前藩が南樺太(北樺太はネルチンスク条約より清朝→ロシア帝国)を所持していたが、樺太・千島交換条約によりロシア帝国に明け渡した。普遍的なものだと「大日本帝国」という名称は幕末期から使われるようになったと主張しているが、個人的にはそもそも「大」という国名の呼称の定義は領土、自然資源、人口、 経済、軍事、科学技術、社会発展、持続可能性、安全と国内政治、国際貢献がすべて当てはまることを評価対象としているため、明治維新後に当てはまるとすれば、人口、経済、軍事、科学技術、社会発展、安全と国内政治しか当てはまっておらず、領土的な部分や、国際貢献度、自然資源から見るとまだまだ発展途上の部分がある。そのため私が大日本帝国と呼称することに納得行くのは、江華島事件による日朝修好条規以後であると予想した。その後は大日本帝国憲法という名称が具現化されて現れていると思ったからである。そして、大日本帝国の歴史は明治時代、大正時代、昭和時代と移り変わる中で大きく欧化主義の流れと国粋主義の流れの2つがあると考えた。
江戸時代において、日本は既に儒学と国学に二分されていた。儒学でも大きく、中国から伝わった世俗的な倫理観をもち、上下の身分秩序を重んじて礼節を尊び、封建制に適した教義である朱子学という考え方と知行合一を唱える陽明学という考え方に区別された。また、その朱子学から国学・史学・神道学を合体させた水戸学などのような学問に発展していき、幕府の主体となる考え方となっていった。(ちなみに後期水戸学においては太平洋戦争時に至るまでの長い間国粋主義の一端として教育とされてきた)このように幕府主体となった考え方は、鎖国的な意味となると失敗に及ぶ一方で、それ以外の人の権力により国を運営する仕組みや自然崇拝を行う宗教の考え方は長らくの間続き、後者については現在まで続いている。その一方で国学は、中華思想はもとより、仏教・儒教などを外来思想・外来宗教として排除することが説かれ、万世一系の天皇の存在自体を日本の優越性の根拠とする傾向を有し、幕府よりは朝廷が重んじられたため、尊皇攘夷論に発展することとなる。その中で平田篤胤は儒教・仏教・蘭学・キリスト教まで援用して平田国学を確立し、そのなかで外来思想に影響されない日本古来の純粋な信仰、すなわち古道を尊重する復古神道を大成させた。その中で、蘭学は鎖国時において唯一の西洋の同盟国であるオランダから西洋の情報を獲得することに重宝していたが、蛮社の獄において捕らえられてしまった。幕末期になると、オランダからアヘン戦争のニュースを聞くことになった。その頃までの欧米諸国は産業革命や市民革命などの大変革が行われ、近世よりも大きく発達した文化を持ち、近世の先進国はヨーロッパに加え、過去に植民地であったアメリカも列強の一国として動き始めていた。そのため18世紀では各地で異国船を見かけるようになり、幕府もこれを打ち払う法律を出していた。長年鎖国していた日本思想はこれにとって当然非常に大きな影響を与えることになった。幕末の思想家として注目されるのが、佐久間象山・横井小楠・橋本左内・吉田松陰の4人である。その影響はかれらの生きた時代のみならず、後世におよんだ。まずアヘン戦争を受けて「東洋」という観念が成立した。「東洋」という言葉が思想史の意義を帯びてあらわれるのは、そこに文化的な連帯性 があると考えはじめてからである。「西洋」は一体的 な文化圏をなしていると考えられ、儒学や国学によってアジアが、ここに一体的な文化圏を想定して東洋という概念を生み出した。 ここに着目した信濃国松代藩出身の佐久間象山は、江戸で兵学塾をひらき、砲術や兵学を吉田松陰・勝海舟・加藤弘之らに教え、また、坂本龍馬・西村茂樹らにも影響をあたえた。象山は「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と説いて開国論と公武合体論を唱えた。日本人自身が砲も艦もつくるべきであると考えたのが政治家では島津斉彬であり、思想家では象山であった。象山の開国論は、きわめて現実的な国際感覚にもとづく大攘夷論(未来攘夷論)ともいえるが、将来的な攘夷の実行に対しても懐疑的であった。日本の国力が西洋列強のそれにはるかに及ばないことを熟知しており、仮に近づいても追い越すことがいかに至難であるかについて冷徹に分析していたのである。そこで長州藩士であった吉田松陰は、国学から発展していった尊皇攘夷論を取り入れきわめて強い皇国思想と、それを裏打ちする陽明学に根ざした行動主義、直情的な信義が松陰を貫いていた。松陰の夷狄に対する敵愾心は相当に強く、攘夷主義という点では疑問の余地がなかったが、日本人の海外渡航や西洋文物の摂取に関しては師の佐久間象山の見解に賛同し、将来の攘夷のための開国・交易論(未来攘夷、大攘夷)と孝明天皇の意志にもとづく行動的攘夷論(即時攘夷、小攘夷)を行き来した。そしてまた、松陰の尊皇攘夷論は、当初必ずしも幕藩体制を否定したものではなかったが、幕府外交のあり方に失望し、やがて一君万民論を展開し、幕府を倒して万民が直接天皇に忠誠を尽くすために立ち上げれという「草莽崛起」を主張して明治維新の原動力となった。
このように、既に幕末の段階で欧化主義の流れと国粋主義の流れの分岐点の基盤となるようなものは既に出来上がっていた。しかしまだ現段階では欧化主義と国粋主義は同じ位置に属した尊皇攘夷論及び開国論として同化されていただけであって、開国後には新しい時代が始まることになり、イデオロギーが錯綜することとなった。その中で明治初期では、横井小楠と福沢諭吉の近代主義に代表されて現出した。横井小楠は、肥後国熊本藩出身で、江戸では幕臣川路聖謨や水戸藩士藤田東湖らと親交を結び、そののち松平慶永に招かれて福井藩の富国強兵策を推進し、藩の政治方針として『国是三論』を著して藩政改革を指導した。当初は鎖国政策を高く評価していたエンゲルベルト・ケンペルの『鎖国論』を読んで鎖国主義を奉じていたが、魏源『海国図志』によって開国論に転じ、政治的には公武合体論を展開した。全国規模の近代海軍を作り、その過程で身分制度を否定して能力主義にもとづく政治制度を採用すべきことを訴え、『海国図志』「アメリカ篇」からは共和制の考えを学んで、そのなかの「公共の政」の理念に共感、アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンを「堯舜の治」を体現する人物ととらえた。彼は、「公共の道」を以て国を開き、交易する以外に日本の現状を打破することはできず、また、交易の相互依存体系を世界経済のなかに実現することで「四海兄弟」の理想が実現できるとした。このような考えと象山の理論から人々は、西欧を見習うようになり、無条件に近代化 を西欧化と同視す る所謂近代主義的精神傾向は、開化を理想としてうまれたが、その重要な特性として、「速さ」をあげる ことができる。開国して以降、日本は外国からの情報伝達に頼ることとなるのだが、その中で日本人は常に情報を「速く」受け取ることに着目していた。そのため明治初期に産業革命が始まったこともあるし、常に富国強兵の考え方を持つようになったのである。その過程において自由主義・個人主義・天賦人権思想・功利主義などがあり、これらを武器にし国民の権利を伸張し、生活を向上させることが、国家と社会発展の基礎であるという民権論と、独立国家として諸外国と対等関係を保ち、さらに国家の権力を拡張し、国力の充実をはかろうとする国権論に大きく分かれて流行した。特に民権論にはイギリスとフランスの市民社会、特にイギリスの功利主義および社会的ダーウィニズム、フランスの国民主権とジャン=ジャック・ルソーの自由主義に分かれ、国権論においては国粋主義色の強いドイツの国家主義の考え方が主流となっていった。フランスの自由主義は、個人の自由を重視した思想である。フランスは長年の間封建社会による束縛を味わってきた。しかし市民革命を通じて、人権宣言を採択し「自由・平等・博愛」のスローガンを持つ思想を体系化させた。確かに幕末期においては封建社会であったため、そのことから開国論が生まれたことは明白である。実際に新政府はこれについて同意し、賤称廃止令や廃藩置県など新たな近代化政策を行っていた。しかし、尊皇論では国民による平等を意識したものとは全くかけ離れたものであり、その維持とは全くかけ離れた意図を持っていた。そして当時フランス第三帝政であったフランスであるが、普仏戦争に敗れたという事情が既にあるため、受け入れがたいものであった。その点でいえば、ロシアによる国家主義は全くの論外であり、ドイツの国家主義のほうが浸透しやすかったといえる。しかし、当時の日本は列強の中では発展途上国である事実があり、幕末から選出された多くの知識人や政治家が台頭していたこと、外交関係による背景もある。決定打となるのはドイツは国家全体を最高の存在とみなすが、日本は天皇を最高の存在とみなすというような大きな違いがあることである。このことによって当初の日本では消極的であった。その点イギリスの功利主義では、個人の幸福と社会全体の幸福を定着化し、快楽を求め苦痛を避ける合理的行動を行うという考え方である。そして、明治初期の思想家は西洋の市民社会の中でも特にイギリス的な啓蒙を唱えた。彼らは日本の伝統的な権力や封建社会を批判しようとした。しかし、彼らは結局政府と迎合して抜本的でない上からの近代化を受け入れた。1873年に、森有礼が明六社を結成した。この文化的会合に参加する人々は実学重視、人間の特徴を実践的につかむこと、国情に合った政府の形成を理想とすることといった点を共有していた。森有礼は文部卿として国民教育の普及に努めた。横井小楠は、幕末に実学党を結成して門閥制度に代わる能力主義や共和思想を反映し、儒学・朱子学の流派に影響された実学を提唱した。福沢諭吉は科学技術やアレクシ・ド・トクヴィル、英国文明論を日本に紹介して、自然権は当然人権が天賦のものであることであると唱えた。彼は文明の発展は人間の精神の発展であり、人の独立は国家の独立を導くと考えた。「便宜のために」政府は存在し、その出現は文化に見合ったものであると福沢は考えた。政府の唯一の理想的な形など存在しないと彼は言った。また、日本は列強に対抗して大陸へと対外進出するべきだと彼は主張した。西周は人の振る舞いはその人の持つ関心に基づくと断言した。加藤弘之は社会的ダーウィニズムの影響のもとで自然権を放棄し、代わりに適者生存を唱えた。明六社のメンバーは結局政府と人民の調和を唱えたが、民主思想家はフランスの基本的人権を吸収し、西南戦争後に明治寡頭制に対して言論によって国民が反抗・革命を起こすことを支持した。1874年に、板垣退助が民選議院設立建白書を提出した。このことが自由民権運動として日本中に広まった。植木枝盛は板垣を支持して基本的な草稿を作成した。ルソーに強く影響されて、中江兆民が主権在民と個人の自由を主張した。この点で日本の状況を考慮して、彼は立憲君主制の重要性に言及している。彼によれば、大日本帝国憲法は議会によって徐々に改正されるのが望ましいということであった。個人的な考え方としては英国の功利主義を取り入れたところまでは高評価であり、天皇を最高元首とする立憲君主制となること自体には賛成の意を表明している。
しかし、私が問題視しているのはここからのことである。大日本帝国憲法の特徴を見て、不満なところを※で挙げ、論点のあるところは△として挙げた
ここから見て分かるとおり、大日本帝国憲法はドイツの国権論に基づいているのである。つまり、天皇主権の専制君主制である。また、基本的人権は「法律の中でのみ」認められているため、功利主義とはかけ離れた理論である。また、司法・行政・内閣についての三権も憲法上では定めていても、全て天皇が統帥権を担っていた。このため日本国憲法制定後の法学者は外見的立憲主義と批判した。特に行政には「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。グナイストは伊藤に対して、
と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲が政軍両面を一元的に統制していたため問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。そのことから日本国憲法の制定は八月革命説としても考えられているが、憲法改正限界説を前提とする場合、天皇主権を基本とする大日本帝国憲法から国民主権を基本とする日本国憲法への改正は、憲法改正の限界を超える。天皇主権と相容れない「1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言」受諾は天皇による国民への主権の移譲の同意・承認であり、この時点で国民主権と矛盾する限りで大日本帝国憲法は効力を失うという法的意味の「革命」があったといえる。したがって、日本国憲法は新たに主権者となった国民が制定した憲法であり、旧憲法による改正手続は形式的な意味しか持たない。高見勝利によれば八月革命説は憲法改正限界論、法的意味の革命の概念、国際法優位説という戦前から説かれていた理論をポツダム宣言に適用してみせたものとなる。そのため私は八月革命説は確かに日本国憲法の正統性を補強する面では革新的であり、「革命」の言葉の意味として通じるものがあるが、GHQ主導占領下において成立したという矛盾から生じた歴史の剥離や憲法改正限界論の観点、国民が関わっていないことの三点から、批判する立場にある。
日清戦争・日露戦争についての話をしよう。日清戦争は、『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われたことが理由であるがあくまでこれは名目である。朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。この説について私は、上述でも述べた通り幕末期から続く西洋観と東洋観の考え方の対立、欧化主義政策、帝国主義社会という全てのものが合わさった日本側の侵略戦争であるという考えを示した。そもそも西洋列強が目指す道にはアジアの植民地支配というものが挙げられる。日清戦争について江華島事件(外交面)、1890年代の日本初の恐慌(経済面)、帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場から始まった説がある。大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ。日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府が鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権や文明開化や富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年(同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた。つまり東アジア世界においては日本だけが欧化主義を取り入れ、産業革命を行ったと言える。1871年(明治4年)9月13日(同治10年7月29日)、対日融和外交を主張[注釈 5]した李鴻章の尽力により、日清修好条規および通商章程が締結された。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない1873年、国内では、対外戦争を招きかねない西郷隆盛の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と板垣退助と江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった。翌年2月、最初の大規模な士族反乱である佐賀の乱が起こった。日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)11月(同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、鎖国攘夷に固執していた摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、1875年(明治8年)2月(同治14年1月)に森山茂を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大礼服を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した。日本は朝鮮半島沿岸の測量を名目に軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接は効果がなく、依然交渉は停滞していた。同年9月20日、軍艦「雲揚」が江華島周辺に停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘が始まった。12月(11月)、日本は、特命全権大使に黒田清隆を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月(光緒2年2月)に日朝修好条規が調印された。朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が既定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。日清戦争で清の敗北の理由は、日本が幕藩体制を克服して近代的な国家体制を整えていたのに対して、清の洋務運動では富国強兵策がとられたものの、中体西用の思想によって技術面だけの西欧化にとどまり統一的な国家意思の形成がなされなかった。 日本軍と戦った清軍の核をなす北洋軍は、李鴻章の私兵にすぎなかった。この日清戦争の結果より日本は清に朝鮮の独立を認めさせた他、清から遼東半島・台湾・澎湖諸島などの領土、また2億両の賠償金を得、清の4港も開港させた。後発的にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉と満州をめぐる日露間の対立、2億両の賠償金は義和団の乱や辛亥革命が発生する契機となった。その一方でこの後のアメリカやソ連、国際連盟により民族自決令に中華民国が対象となるきっかけとなった戦争でもある。また余談ではあるが、伊藤博文のハルビン暗殺についてもこの件ともう一つ朝鮮併合に対する議論から起こった事件にあったともいえるだろう。この点において私はこの戦争は帝国主義に則った列強諸国はもちろんのこと日本側・清側両国が起こした不誠実な戦争であり、朝鮮が一番倫理的であったといえる。まず日本側は帝国主義に則り、朝鮮及び中国側において東アジアの覇権を手に入れたわけだが、その結果として北方の列強であるロシア帝国を警戒するようになっていった。つまり、ロシア側もいずれかに清国と戦争する予定であったとこの時点で想定される。日清戦争以前、ヨーロッパには帝国主義を取った国が他にもあった。過去にはフランス帝国やオスマン帝国、ビザンツ帝国、ローマ帝国、スペイン帝国、ポルトガル帝国という全て帝国主義を取った国があったが、全て滅亡している。その中で最も注目されるべき戦争はフランス革命からナポレオン戦争にわたる一連の流れである。フランス革命はそれぞれの自由や基本的人権、博愛を持った人権宣言が言い渡されたものの結局はナポレオンの独裁による反動政治に動くこととなった。その結果ナショナリズムが発生し、ベルギーなどの国が成立するなどの新しい世界が始まっていった。この結果専制君主制の時代から立憲君主制の時代に移り変わったわけだが、その中で帝国主義的な支配は専制主義的だと非難する左派がナショナリストの中に存在していた。解決方法がそれだけに限られたことではない。外交という言葉は近代以前、異なる二つの政治勢力が接点を持った場合必然的に発生するものであり、ヨーロッパにおいては特に、絶対王政時代から第一次世界大戦終結までは、外交は貴族や国王などの一部の特権階級による宮廷外交が主流である。各国の大使は母国から独立した大きな権限を保有しており、嘘や謀略を張り巡らし、軍事協定なども秘密にしたため秘密外交とも呼ばれ、2国間外交を基本とした。こうした外交は旧外交と呼ばれる。しかしロシア革命によって成立したソビエト政権が1917年11月8日に「平和に関する布告」を発し、ロシア帝国時代に結ばれていた秘密条約を公開して、旧来の外交を否定した。さらにこれを受けてアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が1918年1月に「十四か条の平和原則」を発して、やはり秘密外交の廃止を訴えた。つまり結局のところ外交とは現代において列国間の調整機関として国際連盟が設立されるなど、国際協調主義、軍事力行使禁止の原則などが打ちたてられて、選挙を通じた民主的統制に基づくものであると定義づけられた。これをもとに日清戦争を見つめると、旅順港大虐殺を筆頭に日本軍の一時的な利益のためしか起こさなかったというところは低評価であるし、他方で清国についても、義和団の乱当時の世界は、社会進化論が有力なイデオロギーとして機能し、文明/野蛮という二項対立でもって物事が語られることが多かった。さきの二項対立には、西欧/非西欧という本来別カテゴリーの二項対立が無理やり重ねられ、さらにこの二項には暗黙の了解として上下のランク付けがなされていた。下位から上位へと移行すること、すなわち非西欧(野蛮)から西欧(文明)へ移行することこそが「進化」・「進歩」として受け止められていた。そのような中で起きた義和団のアンチ・キリスト的、あるいは非西欧的「悪行」は、「文明」に悖る野蛮な行為としてすぐさま世界に広まり、激しい非難が中国に寄せられることになる。つまりこれについて私は日本側・欧米列強側が悪いという考えである。続く、日露戦争においては三国干渉によりロシア側が一方的な満州の領土主張を行ったため、日露戦争前の動きや日露戦争の動きから明らかにロシア側の動きがよくなかったと主張する。現在のロシア・ウクライナ戦争においても形は違うが同様の理論である。しかし日露戦争後の動きについては日本側に非があるだろう。ポーツマス条約の条文には「満州は日露両国の資源共有地帯であり、他方の国が独占することを許さない。」というものがあるが、これを先に破ったのは間違いなく日本である。世界恐慌などの経済的背景があり、中国に圧力をかけたかった日本であるが、19世紀半ばに自由貿易体制を整えて「世界の工場」としての地位を固めていたイギリスと、リンカーン政権以来の高関税政策による国内産業の保護によって、19世紀末には重工業においてイギリスを凌駕するにいたったアメリカは、どちらも中国における機会均等、自由貿易を望んでいた。そのため、日清戦争の清敗北を契機に起こった列強の中国分割は、経済的観点からすると望ましいものではなかった。先に門戸開放政策を破ったのはロシア帝国であったが、日本による対華21か条の要求は門戸開放政策に反する第5項問題を筆頭に過大で高圧的な態度だった。帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを責めるわけにはいかず、また日本が第一次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わった見返りの意味もあって黙認、基本的には容認した。しかし、中国が第5項を暴露すると、アメリカとイギリスは、第5項には中国保護国化の恐れがあるとみて警戒し、中国を擁護し、日本に第5項の取り下げを要求した。5月に日本が第5項を取り下げたことを評価し、アメリカは1917年11月に石井・ランシング協定を締結した。それは、アメリカの主張である中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方で、アメリカに日本の山東省権益を認めさせたものであった。しかし、のちの山東出兵にてそれを破り、日英同盟の破棄、満州事変、日中戦争及び太平洋戦争の敗戦へと繋がっていった。第一次世界大戦のアメリカとソ連の成功結果があり、民族自決が成功したのもあったため、このことから見れば日露戦争にも両国の非がある。また同じように満州事変、日中戦争、太平洋戦争においては日本側が一方的に悪い。という主張である。
一方で、中東においてはパレスチナ問題を作るきっかけとなる三枚舌外交を行った英国、そして十字軍を派遣したヨーロッパ諸国に低評価である。十字軍・三枚舌外交などヨーロッパ諸国はユダヤ教の差別が続けられてきた。しかし現在はこの反動として、中東、特にイスラエルは国連による解決案採択により、支援を受けることになったが、「アメリカや、ヨーロッパ諸国、イスラエルは、他方で中東の平和を持続するためにはアラブ諸国と戦う必要がある」と反動的なのか、はたまた改革的なのかどうかは未だ分からないが、こう言った中東の問題が注目されている。アラブ関係を重視する日本は長年、パレスチナ支援に力を入れてきた。日本は、イスラエルとパレスチナそれぞれが国家として共存する「2国家解決」を支持する立場を取り、パレスチナの経済的自立を支援する「平和と繁栄の回廊」構想を進めてきた。ハマスとイスラエルの軍事衝突から約2週間後、上川陽子外相はエジプトの首都カイロで開催された「カイロ平和サミット」に出席し、パレスチナ自治政府のアッバス議長とも個別に会談した。その後、日本政府はガザ地区の人道状況を改善するため、総額約1千万ドル(約15億円)の緊急人道支援を決定した。11月には、上川氏がイスラエルやパレスチナ自治区、ヨルダンを歴訪。パレスチナ自治区のヨルダン川西岸ラマラではマリキ外相と会談し、約6500万ドル(約100億円)の追加的な人道支援と支援物資の提供を行うと伝えた。ただ、イスラム組織ハマスがイスラエルに行った攻撃に、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の複数の職員が関与していたことが1月、明らかになった。日本はこれを受けて、2023年度補正予算に盛り込まれていたUNRWAに対する約3500万ドル(約52億円)の追加支援金について、拠出を一時的に停止している。しかし、日本は西側諸国という括りで半ば強制的にイスラエルを支援するしかない状態も続いてきたため、中東諸国に関しては未だに中立的な立場をしている。日本がここで中東情勢に関して動き出せば中国や、それこそアメリカに警戒される可能性もある。そのため、日本はこれまで、イスラエルとパレスチナ自治政府の間で中立の立場を保ってきた。日本は石油輸入量の90%以上を中東に依存しており、エネルギーの安定供給にはアラブ諸国との関係維持が不可欠だ。ゆえに日本は、アラブ諸国が支援するパレスチナに対して財政支援を続けてきたわけだ。一方、日本はイスラエルにとって最大の後ろ盾である米国など「自由民主主義」陣営への配慮も継続してきた。日本の安全保障は、自由民主主義陣営の協力なしでは成り立たないからだ。また、イスラエルのハイテク産業が成長著しいことから、日本は対イスラエル投資を積み増してきた。結果として日本は両陣営と良好な関係を継続できているが、「副作用」として外交の自由度は狭まっている。実は今年10月末、「日本以外」のG7メンバー6カ国が中東情勢について協議し、「イスラエルの自衛権を支持する」との声明を発表したことがある。この協議に関して、中立である日本は蚊帳の外だった。だからこそ、冒頭の共同声明は上川外相にとって格好のアピール材料になったのだろう。だがそれでも、日本が国際社会で“手柄”を得ようとするのは得策ではない。そもそもG7の一角である英国は、パレスチナ問題の火種である「三枚舌外交」を展開していた当事者である。ナチスによる「ホロコースト」(ユダヤ人大量虐殺)がパレスチナ問題に根深く関わっているドイツも同様だ。米国にはユダヤ人の市民が多く、ユダヤ人の利益を守るためのロビー活動(ユダヤ・ロビー)も盛んである。そうした国々と比べれば、中国は唐の時代にアラブ諸国、特にアッバース帝国とタラス河畔の戦いで紙をもたらした文化を持っている。日本はそれこそ中東情勢に何の縁もない。強いて言うならば、直接的であれば日本・オスマン帝国間のエルトゥールル号事件や、間接的なものであれば日露戦争であるだろう。そうなれば、必然的に東アジアがパレスチナ寄りの中立になるのは地政学的に当然だ。また特に東アジアはインド及びイランとの繋がりが強い。その繋がりを断ち切りたくないというのも背景にあるのかもしれない。私的にもこの主張については同じ立場にある。
欧米諸国の歴史から見た倫理について
ヨーロッパの歴史起源についてはインド=ヨーロッパ語族の一連の大移動によるものだと主張する。ローマ帝国についてはエトルリア人の国家であるため別であるのだが、ラテン人及びラテン語はインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派ラテン・ファリスク語群に属する言語であることが研究で既にわかっている。インド=ヨーロッパ語族は先史時代及び古代において現在のロシアにあたる中央ユーラシアに居住し、ヨーロッパに移動する民族もいれば、東アジアにてイラン系の民族が匈奴を建国したり、先史時代の段階でイヌイットなどインディアン民族がシベリアからカナダ、アメリカへ渡ったりなどのことを考えると欧米諸国全ての起源についてはインド=ヨーロッパ語族であることが正しいだろう。その中では大きく西ヨーロッパ、東ヨーロッパとそして細かく中央ヨーロッパ(中欧)、南ヨーロッパ(地中海)、北ヨーロッパと分けられる。それらの地域の国々は全て対立構造にあった。最初は西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、中央ヨーロッパ、北ヨーロッパが対立していた。南ヨーロッパ及び地中海においては西ローマ帝国の後継国?ともなる教皇領があるため、イタリア半島で対立することはなかったが、その他の両シチリア王国やナポリ王国においては過去にサルデーニャ王国や中欧の神聖ローマ帝国、西欧のフランス王国と対立した経験があった。北ヨーロッパに関してはそれこそヨーロッパ各地に進出したノルマン人の大移動、は疑問の余地があるが、三十年戦争や大北方戦争、ノルマン・コンクェストなど対立をした動きは歴史上確かにあった。
そのような中でヨーロッパはトゥール・ポワティエ間の戦いなどのイスラーム勢力の侵略からモンゴル帝国の遠征という一連の流れを受けて外国への興味が盛んになっていった。その外国への遠征活動としてヨーロッパが最初に行ったのは教皇が始めた十字軍や神聖ローマ帝国による東方遠征、そしてカスティリャ王国・アラゴン王国によるレコンキスタである。一方中国・唐はこの頃タラス河畔の戦いで中東に紙の技術を伝えていた。また、中世ヨーロッパの段階ではまだ古代ギリシャ文化が伝わっておらず、アレクサンドロス大王の遠征によってアラブ諸国を中心に広まるだけに留まっていたのもあった。数学・天文学など理学的知識においてアラブ諸国やインドは遥かに上回る技術を持っていたところにヨーロッパは関心を惹かれた。現在も中東の石油情勢について注目が集まっている。この情勢に対する注目は既に中世の段階からあったのである。戦争は皮肉ながらも足りない知識を補う、つまり新しい知識が手に入ることが出来る。第一次世界大戦でも飛行機、船、戦車、塹壕が強いことが証明され、また第二次世界大戦でも核の技術や石油保有量の大切さ、電撃戦の技術など教養となる部分は多く存在した。平和が何よりも大切という意見が世論においてかなり目立つが、平和を成立する過程には必ず戦争を行わなければならないという考え方を忘れてはならないと私は考えている。
しかし、マハトマ・ガンディーやマザー・テレサはこうも考える。
つまり戦争は外交の中で最低限避ける道であり、情報共有を行うなどして国際協調として平和の道を歩む必要がある。その中でやむを得ず妥協できない事情があったとしたらそれは戦争になる。外交においてはお互いがいかに譲歩するかということが大切になってくる。これは国際社会において当たり前であることだが、皮肉にもこれが出来ていないものが多い。平和とは何か?、これを追求する力は備わっていたとしても実行に移せることが出来るとは限らない。しかし中世・近世ヨーロッパが我々が生きる現代から見れば、未熟な文化であったことには変わりなかった。
また上の判例として私が非難すべき論題にあるのは「ナチス・ドイツ」の流れである。ナチスを支持した政治学者のカール・シュミットは著書「政治的なものの概念」などの中で、人民の意思を実現するのが民主主義であり、国民が敵と味方を明確化すべきだが、議会制民主主義は各利益団体の代表にすぎないため、独裁者による決断も必要とした。しかし後年の「パルチザンの理論」では、人道に対する犯罪は絶対的な敵とした。また哲学者のマルティン・ハイデッガーは当時ナチスを支持したことを問われ、後年『弁明』を行った。彼とナチズムの関わりは一個のテーマとなっており、現在も複数の研究書が出版されている。南原繁は著作「国家と宗教」で、ナチスの思想は国家や民族的要素の神聖化であり、宗教性や理想主義的要素があるとしながらも、キリスト教理念からの離反と暴力性を批判した。佐野誠は著作「近代啓蒙批判とナチズムの病理―カール・シュミットにおける法・国家・ユダヤ人」で、ナチスの反ユダヤ主義や安楽死計画との関連を指摘し、病理であり野蛮と批判した。宮田光雄は著作「ナチ・ドイツの政治思想」で、「ナチズム」側と「反ナチ」側の思想の両面から、「ナチ・ドイツ」の思想を宗教・実践など幅広い視点から照らし出した。この供述の共通点には、戦争が非倫理性を有む行動であるという考え方が言われている。私としてはナチズムを擁護するような意見には反対であり、特にその歴史的な背景や行動を考慮すると、擁護の余地はないと強調する。ナチスを擁護する行為は、偏った知識に基づくものだと批判する。またナチスの台頭は、ヴァイマル共和政の失敗や民主主義の危機から来ている。ナチスが政権を握る前提として、当時のドイツの経済破綻や政治的混乱が大きな要因だった。また、その根底の問題には前に投稿した記事であることやナチスが現代社会で無くならない理由については「ナショナリズムから始まった危険な右翼的思想」で既に述べた通りである。また、ナチズムの内政が「まとも」だったとする言説には、アーリア人に限定的な「まともさ」しか存在しないとし、経済は戦争を前提とした軍需産業に依存していたため、実際には「まとも」とは言えない。しかし、ナチスの歴史を学ぶことは、民主主義の失敗や人種主義、優生思想の危険性を理解するために重要だと考えられる。特に、ドイツがその歴史からどう反省し、どのように未来に活かそうとしているかについての視点からも新しい知識が得られることになるだろう。
またヨーロッパ史を見てみると、中世から現代に至るまで人種差別の歴史を繰り返してきた。上述のナチズムもこれに該当する他、十字軍や東方遠征、大航海時代から始まる植民地運動の流れは全てこれに該当する。サハラ砂漠以南のアフリカに集中的に居住していた黒人は古代においてアラブ人やペルシア人の奴隷として扱われた時期があり、人種差別の対象であった。イスラム圏の偉大な哲学者であるイブン・ハルドゥーンでさえも黒人を差別の対象としている。ただし、預言者ムハンマドの時代以前、アラブ人諸部族が、アラビア半島で統一の国家を持つことなく、部族間の争いに明け暮れていたころ、対岸のアフリカ大陸にはエチオピアという黒人の大帝国が存在していた。エチオピアからアラブ諸族が侵略を受けることもあれば、逆にエチオピアに保護を求めることもあった。そのためアラブ人には、黒人は文化程度の劣った人種というより、自分たちより文化水準の高い畏怖すべき人種という概念が持たれていた時代もあった。確かにアラブ諸族には黒人奴隷を所有する者もいたが、黒人はあくまで奴隷の一部であり、奴隷の大半は同じアラブ諸部族の戦争捕虜や、海賊に拉致されたり奴隷商人に買われたヨーロッパ系住民であり、いわゆる白人であった。アッバース朝時代には南イラクの大規模農業で使役していた黒人奴隷が過酷な労働環境に不満を抱き反乱を起こしている(ザンジュの乱)。なお、ヨーロッパからアフリカを見た用語としてブラックアフリカがある。大航海時代以降は「新大陸」を発見したヨーロッパ人が、そこにおける労働力として黒人奴隷を使役した。ヨーロッパ人は主に西〜中央アフリカに住む黒人を奴隷として使役してきた。これは「新大陸」での極度に集約的な大量生産のために奴隷が好都合だったことや、「新大陸」における先住民がヨーロッパ人が持ちこんだ伝染病によって多くが死んだため、代わりの労働力を必要としたこと、その際に黒人は伝染病への耐性を持っていると信じられ、適任であると考えられたこと、外見的な特徴から非奴隷との区別がしやすかったことなどの理由があげられる。ヨーロッパ列強がアフリカの大半を植民地支配するのは19世紀末以降であり、それまではアフリカ現地の国家や有力部族長が、敵対部族の者を捕らえ、ヨーロッパ人に対して奴隷として売却して利益をあげていた。ヨーロッパ人に購入された黒人は奴隷船の船倉に積み込まれ、新大陸等の市場へ輸送された。奴隷船船倉の条件は過酷であったので市場に着く前に命を落とす黒人もかなりの割合にのぼった。奴隷市場では商品として台の上に陳列され、売買された。彼ら黒人奴隷は人格を否定され、家畜と同様の扱いであった。軽い家内労働に従事できる者や奴隷身分から解放される者はごく少数だった。こうしたヨーロッパ人による奴隷制度は、1888年にブラジルが奴隷制度を廃止するまで続いた。こうして奴隷労働に支えられて成り立った世界的な商品がサトウキビと綿花であった。アメリカの南北戦争は、奴隷解放戦争としての性格を性格の一つとして帯びていた。多くの黒人奴隷に経済基盤を支えられ、奴隷解放に反対していた南部の各州が敗れると、制度としてのアメリカの奴隷は、撤廃・解放されたが、実質的な差別は、根強く残った(ジム・クロウ法)。第二次世界大戦後の歴史では、ベトナム戦争の反戦運動に関連してマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師による公民権運動が、多数のアメリカ市民に影響を残した。アメリカ合衆国は領土拡大の際の「邪魔者」として、インディアン(ネイティブ・アメリカン)を徹底的に排除する政策を実施した。第3代大統領トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。「インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁判所が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添付したのは1879年になってようやくのことであった。しかしそれ以後もインディアンは「Colored(色つき)」として1960年代まで「ジム・クロウ法」の対象とされていた。黄色人種(アジア系)は北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は白人以外の人種の中にあって高い部類である。一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民や日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も「黄禍論」を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は第二次世界大戦中は市民権を停止され、強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他のドイツ系、イタリア系といった枢軸諸国出身者やその子孫はほぼ制限を受けることはなかったため、白人以外の人種の日本人に対する人種差別とみなされている。
その一方で日露戦争後の日本は、非ヨーロッパ系の有色人種国家として唯一の列強であり多くの移民も送り出していたが、欧米帝国主義からの反発や日系移民への排斥問題を受けて、自国の存続権利を守るため「人種差別反対」の立場をとることが多かった。 連合国の一員として参加した日本代表が第一次世界大戦後のパリ講和会議で、人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス代表・アメリカ代表などの議長拒否権行使や全会不一致により不成立に終わっている。渡部昇一は、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であると主張している。連合国の一員として参加した日本代表が第一次世界大戦後のパリ講和会議で、人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス代表・アメリカ代表などの議長拒否権行使や全会不一致により不成立に終わっている。渡部昇一は、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であると主張している。第二次世界大戦では人種差別を国是とするナチス・ドイツと軍事同盟(日独伊三国同盟)を締結したが、欧州人でも白人でもキリスト教徒でもない日本人はナチスのユダヤ人迫害には非協力的だった。むしろ、満州国にユダヤ人自治州を建設する河豚計画が存在し、日独伊三国同盟成立後も五相会議でユダヤ人を迫害をしない旨を取り決め、他の枢軸国・占領地域のようにユダヤ人迫害に協力することはなかった。そのため、欧州から脱出するユダヤ人難民にとって、ソ連から満洲(中国東北部)を経て米国他へ逃避するルートは重要なものとなっていた。しかし、日本における差別が全くないとは到底言い難いだろう。日本においての差別は特定の人種や民族だけではなく、日本人(大和民族)以外の人間(外人)を差別するというものである。特に警察は有色人種の外国人をターゲットにした職務質問(レイシャル・プロファイリング)を行っているとアメリカ大使館が在日アメリカ人に対し警告を呼びかけている。現代においては「2000年代に入って過激化した在日韓国人・朝鮮人への差別的言動・街宣活動」が問題視され、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(2016年6月3日施行)」や、大阪市や川崎市でヘイトスピーチ条例などの対策法が成立した。
また大きな動きとしての人種差別の動きの中には当然、小さな動きとしての人種差別も存在する。例えばいじめは相手に何らかの精神的・身体的な苦痛やストレス、心身疲労を与えるハラスメント行為であるが、2022年度(令和4年度)のいじめの認知件数 (日本国内) は、68万1,948件で過去最多となった。いじめは、自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為である。2006年度の文部科学省の定義においては、一定の人間関係のある人物から、心理的もしくは物理的な攻撃を受けたことにより、精神的苦痛を感じているものとされる。被害者は人間関係に一生のトラウマを抱えたり、再起不能(引きこもり、自殺等)となる場合もあり、殺人罪、傷害罪、暴行罪、強要罪、恐喝罪、侮辱罪、名誉毀損罪、不同意わいせつ罪、器物損壊罪、暴力行為等処罰法、ストーカー規制法、リベンジポルノ対策法などに該当する犯罪行為である。2001年の調査で、いじめは生徒の精神と成長に悪影響を及ぼすという分析結果が発表された。いじめ防止対策推進法の施行以後、教育や司法の場において「いじめ」が議論される場合、基本的に同法の定義が使用される。各種文献において「いじめ」という用語が使用される場合、それが同法の定義する「いじめ」なのか、辞書などにある一般用語としての「いじめ」なのかを区別する必要があり、書かれた時期などにも注意を要する。学校や第三者委員会が「いじめ」を認定する際には、「立場の互換性がない」、あるいは「力関係の差」が存在することを要件とする記述も散見される。つまり、「いじめる」側と「いじめられる」側がしばしば互いに入れ替わったり、「強い」立場の者が「弱い」立場の者をいじめるという構図にあてはまらない場合には、じゃれあいやケンカなどとみなされる場合もある。なお、ここでいう「強い」「弱い」という言葉は、腕力や発言力などを指すものではなく、あくまでも集団内での「立場」《スクールカースト》を指し、たとえば発言力の強い者がまさにそれゆえにいじめの対象となることもありうる。人種差別は明示的なもの(例:法制度や公然の差別的言動)と暗黙的なもの(例:無意識の偏見やステレオタイプ)に分けられる。暗黙的差別は、個人の認識がなくとも行動や判断に影響を与えることがある。またこのほかに雇用、教育、医療へのアクセス、刑事司法などでの不公平から生じるなどのように制度や社会構造自体が特定の人種に対して不利な状況を作り出す場合、これはシステム的(構造的)差別と呼ばれる。
英国の倫理学者であるジェレミー・ベンサムは、あらゆる行為の結果をその行為が正しいか間違っているかの唯一の基準とする帰結主義の一種である功利主義を定めた。他の帰結主義と異なり、功利主義はすべての感覚的存在の利益を平等に考慮する。功利主義の支持者は、行為をその可能性のある結果に基づいて選択すべきか、効用を最大化する規則に従うべきかなど、多くの問題について意見が分かれている。また、効用の総量、平均効用、最も不利な立場にある人々の効用のいずれを最大化すべきかという問題もある。いずれにしても共通するべき根底の理論には最大多数の最大幸福という理論がある。さらに、同国のジョン・スチュアート・ミルは、最大多数の最大幸福としての立場は持っているものの、全ての人間が幸福を平等に持てるとは限らないと主張した。どういうことかというと、「自分が幸福であっても、相手の幸福を妨害する行為を行ってしまえば、それは最大多数の最大幸福が成り立つとは言えない」と主張する。つまり、他者に危害を加えることは他人の自由や幸福を奪うということと同義だということになる。この理論から国際連合の『世界人権宣言』が採択されるきっかけとなっていった。民主主義社会では、社会の多数派による少数派への同調圧力から弱者を守るべきであるということが差別の解決への手だてとしては重要なのではないだろうか、と彼は解いた。私自身もこれについてはその通りだと思っている。またイマヌエル・カントは、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三つの観点から「人間」についての問いを展開した。まず『純粋理性批判』では人間は感性・悟性・理性の三つが認識材料になると考えた。ここで重要なことは、私は物自体の世界にある「モノそのもの」を認識しているわけではなく、感性・悟性・理性というフィルターを通して映し出された「モノのイメージ」を認識しているにすぎないということである。次に『実践理性批判』でカントは「定言命法に従い自律精神を持った者こそが倫理的に正しい存在である」と主張した。カントはまず脳内には命令が常に発せられると考えた。その命令や動機、考え方には定言命法と仮言命法があるという区別を付けた。仮言命法は「〇〇ができるならば〇〇をする」というものであり、条件付きな考え方であるのに対して定言命法は無条件に「〇〇せよ」というものである。つまり、事前の知識がどうであれ義務に対しては定言命法で従わなければならない、つまり自分が定言命法によって従った自律的な行動をとらなければ倫理としての義務は成立しないという概念を体系化させた人物は紛れもなくイマヌエル・カントであったということである。その中で、カントは自分や他者の人格を手段として用いてはならず、常に目的として扱うべきであると主張した。そして、ドイツのフリードリヒ・ニーチェは、すべての生物が生き残るためには他の生物に劣ることのない何かしらの力とそれを求める意志が必要であり、現状のような苦しい状況を肯定的に捉え、最善の行動を取るべきと主張した。自分の不満や欠点を重視せずして最善の行動を取らず、苦しい状況を否定的に捉えて他人を非難したり、状況を責める心情を持つ人をルサンチマン、その状況すら感じることなく自らが幸福だと思ってどのような状況においても楽しく生きれる人を超人として分けた。それらに影響を受けたショーペンハウアーは、私たちの行動は常に目に見えない欲望を持っており、私たちが食事をしたり、本を読んだり、息をしたりする背後には、生存本能に基づく欲望が常に働いていると考えた。その中で人間は様々な表象を手に入れて、世界や人生を悲観的にとらえる厭世主義的な考え方を身につけるというのが人間だと定義づけた。
欧米史が世界に影響を与えたのは悪いことだけではない。トマス・ホッブズやジョン・ロックは自然権という考え方のもと、こう示した。
この考え方はアメリカ独立革命、フランス革命、諸国民の春、そして各地域が植民地からの独立を促す契機となった。