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【哲学・倫理学解説1】正義と善
はじめに
本文は、正義、公正、善といった概念について、ギリシアの哲学者アリストテレスのニコマコス倫理学から、近年話題となったハーバード大学教授ジョン・ロールズの正義論に至るまで、その間に、トマス・アクィナス、トマス・ホッブス、ジャン・ジャック・ルソーなどの考えを考察した。正義の概念で最も広く受け入れられており、その基本となす考えは、アリストテレスの配分的正義と呼ばれ、これは各人にふさわしいものを各人に平等に配分するということで、この考えは、各々同一の状態のもとで、異なった結果でないかぎりは、配分は同じようになされなければならないとの原則である。現在、イスラエル・パレスチナ紛争などの中東の問題が表面化してきているが、その中で貧困や格差、差別、人権侵害、教育格差などが生じ、正義という問題について考えさせられる場面に遭遇している。私たちは、ときどき、過ちを起こしてしまう。不正義やアンフェアな行動をとるこ とがある。それは、グローバル化の潮流の下でのそれまでとのギャップであったり、保護主義であったり、宗教上の関係であったりしている。 私たちは、パレスチナ問題やトランプ大統領のアメリカ・ファーストがどのような流れに歩むのかを注目しなければならない。彼らの行動が正義で公正なのかということを凝視しなければならない。
正義が存在しないことに対する問題点
正義の対義語は不義である。その名の通り、義がないこと、つまりは不公平を生むものであり、信義から外れたことについてを指す。アリストテレスやホッブズ、カント、ニーチェなどの哲学者が歴史を通じて正義についてを語る一方で、義のない状態は近代の第二次世界大戦に至るまで続いていた。
古代〜中世において、不義である行為が目立ったのは主に遊牧民であった。確かに家畜の放牧や交易においてなど正義と言える活動も多かったかもしれないが、その中に実力主義による略奪や戦争、奴隷による経済、強姦、男女格差などが行われていたのは事実である。また、遊牧民は特定の法律を持とうとせず、富の蓄積だけを重視してきたという問題がある。
地中海及びヨーロッパにおいては、古代ローマ帝国の頃からラティフンディウムによる奴隷制が展開され、風土・慣習・伝統の違いによる地域差も大きい。戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とすることは、普遍的に見られた。中世西北ヨーロッパでは羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋程度しか、オリエントや東ローマに対して輸出できるものがなかったため、何世紀にもわたり奴隷は西北ヨーロッパから東ローマやアジアへの主要な輸出商品の一つであった。ヴェネツィア(特に年少のうちに去勢されたイタリア半島内の奴隷は、イベリア、東ローマ、イスラム世界で重宝された)、フィレンツェ、トスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところが大きかった。特に西ヨーロッパの内部においては、上述の通り古代末期においてラティフンディウムの崩壊により奴隷の使用は少なくなる一方、コロナートゥスの進展により農奴と呼ばれる労働・居住の自由を持たない奴隷的な小作人が数多く存在した。また、古代末期から続く反ユダヤ主義は次第に強まっていった。キリスト教が公認された一方、迫害がなおも強まっていったユダヤ教は、ディアスポラ(離散)し、各地に住むようになった。382年の頃にはユダヤ教は一神教であったため、ローマ帝国からの迫害は受けることはなかった。しかし4〜5世紀になると、コンスタンティノープル総主教ヨアンネス・クリュソストモスは、
ユダヤ人は盗賊、野獣で、自分の腹のためだけに生きている。もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、もちろんわれわれは正しいのだが、彼らの救いの道が間違っている。ユダヤ人の不信心は狂気だ。神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まいである。
と述べた。
以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、千年後のモスクワ大公国でのユダヤ人恐怖、ロシア帝国でのポグロムをもたらした。ゴールドハーゲンはヨアンネスの事例は西洋近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする。ヨアンネスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』はナチス・ドイツにおいて頻繁に引用された。
また、中世ヨーロッパでは人種差別の他に職業差別も行われてきた。魔女の概念をなす要素のひとつに、ラテン語で「マレフィキウム」(悪行)と呼ばれた加害魔法の概念があるとされる。呪術的な手段によって他者を害することは、古代ローマ時代から刑罰の対象であった。中世ヨーロッパでもこのマレフィキウムに対する考え方は存続した。しかし中世晩期の15世紀になると、それまでの単なる悪い呪術師とは別様の、「悪魔と契約を結んで得た力をもって災いをなす存在」という概念が生まれた。魔女とは悪魔に従属する人間であり、悪霊(デーモン)との契約および性的交わりによって、超自然的な魔力や人を害する軟膏を授かった者とされた。魔女裁判が盛んに行われた16世紀から17世紀の近世ヨーロッパ社会において識字層を中心に広まっていた魔女観はこのようなものであった。そのため15世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ諸国において、多くの人々が魔女の嫌疑をかけられ、世俗の裁判や宗教裁判によって処断された(魔女狩り)。当時魔女は悪魔と交わり特別な力を授けられ、悪天候をもたらしたり、人間や家畜に害をなすと信じられていた。特に女性と限られてはおらず男性の魔女もおり、どちらも英語では同じ witch という語で表わされた。魔女は聖俗の裁判官や教会学者によって捏造されたものであるとする説が19世紀に登場した。しかし魔女とされた人々の一部は何らかの異教的または異端的な豊穣儀礼を実践していたという説もある。
また、十字軍の遠征も聖地奪回との名義はあるものの、殺戮を及ぶようなものは不公平を生むため、善行とも正義ともいえない不義であり、現代のパレスチナ問題を筆頭に宗教差別や人種差別を深める要因となっている。
近世、大航海時代になると交易を巡って海外への進出が盛んに行われるようになった。その過程で当然奴隷貿易も行っていた他、帝国主義という概念を形成することのきっかけにもなっていった。一般に先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化やイギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した。このような動きを受けて、近代以降アメリカを筆頭に脱植民地化を目指す国が増えていった。
正義の存在しない世界は、社会における力関係の均衡が崩れ、資本家や権力者などの強者が弱者を搾取し抑圧する構造が固定化、弱者は自己決定権を奪われ、精神的・肉体的に苦しむことになる他、社会的資源の分配が公平に行われなくなる。その過程で信頼関係や法秩序が崩壊し、暴力や復讐が連鎖する社会となってしまう。
近代までの正義の歴史
アリストテレスの正義
古代ギリシアにおいて、正義についてを多く語っているのは、アリストテレス(前384〜前322)である。彼は万学の祖と言われ、人文・社会科学から動物学、自然科学に至るまで、西洋最高の知性の一人とされている。哲学、論理学、倫理学などを研究対象とする者は彼を遡って研究している。アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、以下のものである。
・恐怖と平然に関しては勇敢
・快楽と苦痛に関しては節制
・財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)
・名誉に関しては矜持
・怒りに関しては温和
・交際に関しては親愛と真実と機知
ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。アリストテレスは、人は共同体のなかでしか生きていけず、万人の功益と支配者の功益とが共通な法を定め、その法には社会形成力のあるとの考えを示している。正義を法によって、人々を正しきに行わしめる状態と説いた。付言すると、万人の功益となることを善とする立場に立 ち、私利のみを追求する行為である利己主義を戒めている。こう考えると、正義は共同体の人々が正義の行いができるような状態に方向づけると言うことと考えられ、それを担うのは法であり、その正しき法を立法するのは為政者(支配者)ということになる。とすれば、為政者は常に賢者とは限らず、必ずしも正しい法が立法されるとは限らない。アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。
孔子と儒教の義
一方、中国では有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた孔子がいる。孔子は自らの弟子たちを諸子百家とし、様々な学問の中の儒家として、後に儒教という一つの宗教を作り上げるほどの影響を残した。孔子の死後約400年かけて孔子の教えをまとめ、弟子達が編纂したのが『論語』である。孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒学を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。仁とは他人への思いやりや隣人愛のことであり、礼とは適切な行動規範を表す。このほかにも中庸という考え方を持っていた。孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の危惧した通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
孔子の死後、孔子を始祖として体系化された儒教では、『論語』により五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教義とした。その中での義は「利欲に囚われず、他人のために行動し、道徳を尽くすという正義を守る」ということを意味している。この儒家思想は中国において中世、近世、近代と発展していき、東アジア全体の倫理学に影響を及ぼした。
イエス・キリストとキリスト教の正義
ヨセフの婚約者であった聖母マリアは、結婚前に聖霊により身ごもった。紀元前3年9月、ツァドク暦で第7ホデシュの15日からの仮庵の祭りの頃、天使の御告によりヨセフはマリアを妻に迎え男の子が生まれ、その子をイエスと名づけた。大多数の教会では12月25日を誕生日と記念しクリスマスとして祝う。しかし、聖書の記述にはイエスの誕生日を明確に明言している箇所は1つもなく、イエスの誕生日が12月25日であるという確証はない。イエス・キリストは旧約聖書のメシア(救世主)の称号でもあり、神の子である。そのため、後のキリスト教では三位一体説が唱えられるようになっていった。なかには三位一体説を批判する教徒もいるが、大抵は異端派である。その三位一体説の啓示とイエスの生涯はマタイ福音書、マルコ福音書、ルカの福音書、ヨハネ福音書の4つの福音書によって伝えられた。福音書には、イエスの言葉として「山上の垂訓」など群衆に対して語った説教、弟子など限られた対象に向けて語った言葉、当時の宗教指導者らとの問答といったかたちで、多くの言葉が収められている。福音書の記述を史実と認める立場においては、福音書の中にイエスの教えについて多くの言説を認めることが可能である。一方、いわゆる高等批評においては、福音書は「イエスの言行録」ではなく「宣教文書」であり、イエスが語ったとされる言葉がイエスに帰属するかを疑うというのが基本的立場である。この立場においてイエスに帰属できる発言は数少ない。福音書によるとイエスは、人間は平和の神の子として平等であること、神は父なる神であること、また、太陽や降雨などの環境を整えていて、人間をはじめ鳥類などの生き物を神は日々養っていること、日々の祈りをもって神とともに歩み、隣人を大切にして生きることなどを説いたとされている。まとめると「形式的律法主義を批判し、神の愛による救済と隣人愛を説いた」「(ユダヤ教的終末論に基づいた)神の国の実現の時が迫っていると宣べ伝えた」ことであると言える。彼の教えは、当時のユダヤ教の指導者たちから敵視され、ローマ帝国の支配者からも脅威とみなされた。最終的に、彼は十字架に架けられ処刑された。イエスの死は、彼の教えがいかに人々に受け入れられなかったかを示している。しかし、彼の死は同時に彼の教えの力強さを示している。なぜなら彼の死は、人々を罪から救うための犠牲であった。生前、イエスの考えに反対したユダヤ教徒がいた一方、イエスの考えに賛同し弟子入りをした十二使徒が存在していた。
教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。聖書に批評的な立場の学問では、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くの者はエルサレム神殿崩壊の後と推定する。当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。当時エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。ヤコブはアンティオキア教会とエルサレム教会の対立に仲裁をし、妥協案を提示して解決を図った。その内容は、異邦人改宗者は「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されるというものである。第一次ユダヤ戦争によりエルサレム神殿が崩壊した後、キリスト教として独立し、『新約聖書』が作られた(諸説あり)。ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。さらにキリスト教がディアスポラを通じてローマ帝国内に広まっていくと、ローマ帝国政府当局により迫害を受け、多くの殉教者を出した。これにはローマ帝国が元々多神教国家であった事や東方の影響によって発生した皇帝崇拝にキリスト教徒が従わなかったことなどいくつかの理由がある。特にネロ、ドミティアヌス、デキウス、ディオクレティアヌスといった皇帝のもとで迫害が行われたとされるが、ディオクレティアヌスによる迫害を除いてあまり大規模なものではなく、そのディオクレティアヌスによる迫害でさえそれほど大規模であったかは疑問とされる。迫害事例の地理的広がりから、2世紀末には、ローマ帝国全域に教会は組織を広げていたと推測される。
また3世紀にはエジプトから砂漠での隠修修道が広まり、独居あるいは集団で荒野で修道生活を行う者(修道者)が多数出た。1世紀後半から2世紀までの教会内文献(使徒的教父文書)などからの推測によると、この頃、エルサレムのユダヤ系教会と、シリアやエジプトのギリシア系教会とで異なる文化圏の教会が形成されていたが、使徒たちがそれぞれの文化圏を認めていた。カトリック教会によれば、ユダヤ系教会は使徒(司教)と長老(司祭)、ギリシャ系教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型(ヒエラルキ)が異なった特徴を持っており、やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。アルメニアは世界で初めてキリスト教を公認し、それに次いでアクスム王国(現:エチオピア)も国教化を果たした。ローマ帝国ではディオクレティアヌス帝による大迫害を継続したガレリウス帝が死を前にして311年に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるいわゆるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認された。その後もユリアヌス帝などの抑圧を受けたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年に帝国内でのキリスト教以外の宗教およびキリスト教の異端の信仰が禁止され、ローマ帝国及びヨーロッパ唯一の国教としてのキリスト教の地位が確立した。
ヨーロッパのキリスト教には後の宗教改革でもとより西ローマ帝国の後継となる教皇領を始めとし、西欧で広く布教されているローマ・カトリック教会とドイツ人のマルティン・ルターにより新たに出来たプロテスタント教会、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から東欧に広がった東方教会に大きく分けられることになる。ローマ・カトリック教会の教義では、聖母マリアが神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと穢れを存在のはじめから一切受けていなかったとする無原罪懐胎や、聖母マリアは、その人生の終わりに、肉体のままで天国にあげられた聖母の被昇天、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間の煉獄、教皇の首位権及び不可謬説などがあるが、東方教会やプロテスタントはこれを批判否定している。プロテスタントは、福音派とエキュメニカル派に二分しているとされている。福音派は十全霊感であるのに対し、エキュメニカル派は否定霊感や部分霊感であることが多い。他の考え方は異端である。カトリックが教皇権威であるのに対し、プロテスタントは聖書に載っているイエス・キリストを権威として扱っている点(聖書主義)や聖母マリアをイエスの母のマリアとして崇拝しないことが挙げられる。そして東方教会は、大きく正教会と諸教会に分かれ、そこから諸教会は非カルケドン派の両性説・単性説・合性説にそれぞれと中国に伝わったネストリウス派に分かれている。正教会は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世ギリシア語および教会スラヴ語読み)の十字架刑による死と復活の証人とされる使徒達の信仰と、使徒達から始まった教会のあり方を唯一正しく受け継いでいると自認している。正教会は、神の啓示を信仰の基盤とし、連綿と受け継がれてきた神による啓示に基づく信仰と教えを、聖伝と呼び、聖伝を伝えていくにあたっては、聖神(聖霊)の導きがあるとする。つまり、聖伝の中に聖書が含まれ、聖書は聖伝の中で第一の位置を占めるとする。また正教会においては、キリスト教は復活の福音に他ならないとされる。また、正教会は各教会が自治を有しているところもカトリックと異なる。
トマス・アクィナスの正義
古代ローマ帝国の分裂後、一つにまとまっていた宗教観は大きく分裂することになり、ヨーロッパの哲学・神学全体が停滞したため、長らく西欧・東欧・中東という異教徒間で対立を行っていた。その一つである十字軍は、当初キリスト教がエルサレム教会を奪回するという目的があった。キリスト教圏はこの行為を善としている。しかし、全体的に見ているとこの行為を善とは言えない。目的があるとはいえ、その行動が殺戮に及んでしまえば、他者からすれば悪と捉えられるからだ。長引く十字軍の遠征で教皇の権威が衰退していくようになる一方で、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。その中でトマス・アクィナス(1225〜1274)は、アヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れ、アリストテレスの哲学をキリスト教神学と融合させた自然法や、スコラ哲学と呼ばれる新しい哲学体系を確立した。彼は正義を、神の意志に従うことと定義した。神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永久法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち、理性的被造物たる人間が分有しているものが、自然法である。そして、自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、人間がより強く永久法に与れるように、神から補助的に与えられたものが神定法である。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。また、彼は、人間にとって最重要に平和を挙げている。
「われわれが平和と呼ぶ社会統一は支配者の努力を通して獲得されなければならない。それゆえ、多数者が有徳的に生きていくためには、三つのことが必要である。第一に、多数者は平和の統一のなかで確立されなければならない。第二に、こうして平和の絆において統一された多数者は善い行動へ導かれなければならない。なぜならその構成員内部での統一が前提とされないならば、人間はなにごともうまくなしえないのと同じように、平和の統一を欠いた多数の人々は集団としてのその存在そのものに逆らって対立し合うという事実によって、有徳な行為をなしえないからである。第三に、適度に生きるために必要とされる事物の充分な供給が支配者の努力によって手近かに存在することが必要である」
以上のように彼は、支配者の多数が平和の重要性を痛感しており、平和が壊されたときに善もなしえなくなる状態が想定された趣旨を述べている。
近世の西洋哲学による正義
近世から近代は、絶対王政から宗教改革や市民革命、大航海時代を経て近代国家と植民地が形成されるようになる激動の時代である。
イングランドのトマス・ホッブズ(1588〜1679)は、英国革命の最中を生きることになった。パリへの亡命後、『リヴァイアサン』を執筆し、人間の自然状態は平等であるが、能力差の無い個人同士が互いに自然権を行使し合うため、その結果として、万人の万人に対する闘争が生じると考え、この混乱状況を避け、共生・平和を達成するためには、人間が生まれた自然状態の権利・自然権を政治的コミュニティであるコモンウェルスとの間で社会契約を結ぶべきと唱えた(社会契約説)。付言すると、人間の行動を起こす拠りどころは利益であり、理性を拠りどころにするには信頼性に乏しい。それは、人間の行動を促す働きは情念であり、恐怖、復讐、好奇心などのあらゆる情念に左右される。そこで、臣民は、自由、治安維持や国防、立法、司法などの保障を前提にその決定する権限をコモンウェルスにゆだねる、ここに社会契約という概念が成立する。そして、その契約の最も重要なことは生命の保障で敵から守ることであるとした。それが不可能な場合は平和を勝ち取るよう努力すべきであり、極論として戦争を用いることもあるとし、あらゆる手段で自分を守れと説いた。これは、彼の経験から考えたすえの結論と察せられる。そしてこの社会契約説をさらに発展させたのがジョン・ロックとフランスのジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)だった。ルソーは「人民による人民の政府」という考えを唱え、今までの絶対王政や王権神授説を否定した。彼は立法の目的について、「すべての人々の最大の幸福を目的とすべきであるが、この最大の幸福とは正確には何を意味するかを探っていくと、二つの主要な目標、すなわち自由と平等に帰着することがわかる」と述べている。ルソーの特徴は、18世紀という絶対王政の時代に、人民主権論、政治体制として共和という概念を強固に唱えたことにある。そして、法の目的は人々の自由と平等を保障することと考えた。このような考えから、ルソーは、正義について、市民の世界において、正当で確実な統治の規制というものがあり得るかを問うた。彼が導き出したのは、正義と利益がまったく分離することがないように、権利が認めるものと、利益が命じるものとをつねに結びつけることであり、それを実現するのか政治であり、法の目的と考えた。もちろんそれが通用しなければ革命権の実行に及んでも良いとした。この社会契約説の考え方はアメリカ独立革命やフランス革命に大きな影響を及ぼすこととなり、アメリカでは南北戦争に至るまで、フランスではナポレオン戦争に至るまでの間注目され続けられた。
自由主義
このような社会契約説による市民革命の影響は自由主義という新たな政治的イデオロギーが誕生するきっかけとなっていった。自由主義は、西洋の哲学者や経済学者の間で人気が高まった啓蒙時代に明確な運動となった。自由主義は、世襲的特権、国教、絶対君主制、王権神授説、そして伝統的な保守主義の規範を議会制民主主義と法の支配に置き換えることを目指していた。自由主義者はまた、重商主義的政策、王室独占およびその他の貿易障壁を撤廃し、自由市場を促進させた。哲学者ジョン・ロックはしばしば自由主義を確かな流派として創設したと信じられており、各人は生命、自由および財産に対する自然の権利を有し、政府は社会契約に基づいてこれらの権利を侵害してはならないと付け加えた。英国王の自由主義の伝統は民主主義の拡大を強調してきたが、フランスの自由主義は権威主義の拒否を強調しており、建国と結びついている。1688年の名誉革命、1776年のアメリカ独立革命、1789年のフランス革命の指導者たちは、王位の専制政治の武力による打倒を正当化するために、自由主義哲学を用いた。特にフランス革命後、自由主義は急速に広がり始めた。 19世紀はヨーロッパと南アメリカの国々で自由主義政府が設立されたが、アメリカでは共和主義と並んで確立され、1861年の南北戦争にて台頭していった。大英帝国では、自由主義は人々を代表して科学と理性に訴えて、政治的エスタブリッシュメントを批判するために使われた。19世紀から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国と中東の自由主義は、タンジマートやアルナダなどの改革時代、ならびに世俗主義、立憲主義、ナショナリズムの台頭に影響を与えた。これらの変化は、他の要因と共に、イスラム教内に危機感を生み出すことに繋がり、それは今日に至るまで続き、イスラム復興につながった。 1920年以前、古典的自由主義の主なイデオロギー的反対派は保守主義であったが、自由主義は新しい反対派からの大きなイデオロギー的挑戦、すなわちファシズムと共産主義に直面した。しかし、20世紀の間、自由主義的な民主主義が二度の世界大戦で勝利を収めるなど、自由主義的思想も特に西ヨーロッパでさらにいっそう広がった。ヨーロッパと北アメリカでは、社会自由主義(米国では単に「自由主義」と呼ばれることが多い)の確立が、福祉国家の拡大における重要な要素となった。今日、自由主義政党は世界中で権力と影響力を行使し続けている。しかし、自由主義には、アフリカとアジアで克服すべき課題がまだある。現代社会の基本的な要素は自由主義のルーツを持っている。自由主義の初期の波は憲法上の政府と議会の権限を拡大しながら経済的個人主義を広めた。自由主義者は、言論の自由や結社の自由、陪審員による独立した司法裁判および公判、貴族の特権の廃止など、重要な個人の自由を尊重する憲法上の秩序を求め、確立した。最近の自由主義思想と闘争の後の波は、市民権を拡大する必要性によって強く影響された。自由主義者たちは、公民権を推進するためにジェンダーと人種的平等を提唱し、20世紀の世界的な公民権運動は両方の目的に向けていくつかの目的を達成した。ヨーロッパ大陸の自由主義は、穏健派と進歩派に分けられ、穏健派はエリート主義になる傾向がある一方、進歩派は普遍的な参政権、普遍的な教育、財産権の拡大などの基本的制度の普遍化を支持している。時を経て、穏健派はヨーロッパ大陸の自由主義の主要な後見人として進歩派と取って代わった。しかしこの考え方は「正義」とは相容れない部分がある。
正義とは?
前項にて不義は、義がないことまたは不公平であることを意味し、正義の存在しない世界では不公平から社会関係が崩壊するということをまとめてきた。この不義に対抗するような正義の概念は近代に至るまでには確立されていった。しかし、正義の意味を間違えて不義が生じることとなるというような行動は近代以降多く見受けられるようになっていった。正義とは、「善」と「規範」から公平性を取り入れた行動を行うことであり、善の中でも特に道徳的善(倫理的に社会通念とされる善)と意味が直結するものである。しかし規範や道徳性、そもそも倫理観に欠けていればそれは正義とは通用することはない。この観点から言えば、自由主義は国民の自由や平等についてを着目し、規範を支配に置き換えている。これに納得行かない反自由主義者も当然現れ、その者らによって保守主義という考え方が生まれるようになっていった。アメリカ合衆国は、アジア外交への力を注ぎ始めた後帝国主義の列強の動きを見て、同じく中国へと進出することになったが、他の列強と同じように植民地統治を行うことよりも国務長官のジョン・ヘイによる門戸開放宣言から門戸開放・機会均等・領土保全を列強諸国に約束したり、その後の大統領のウッドロウ・ウィルソンの自著『十四カ条の平和原則』にて民族自決としてまとめるなど保守的な外交を強めた時期があった。近代では商人と英雄は、対立的関係として描かれてきた。商人は平和に、英雄は戦いに結びつけられて表現されている。このような考え方はナショナリズムの台頭を受けて初めて生まれた概念である。ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国、ロシア帝国(ソビエト連邦)などでは、戦争を理由に知識人が自由主義を捨て、左翼・右翼の原理主義に走るようになり、政治的二極化が起きた。このような人々は、資本主義(近代世界システム)を「改革」しようとはせず「超克」しようとしている。つまり、正義とは時として武力による征服や排他的思考に繋がり、いつしか善行を見失い、変革のための衝突が正当化され平和を守るどころか戦争の火種となってしまうのである。これについての判例はナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーが例に挙げられる。第一次世界大戦後のドイツ経済は米英仏に対して多額の賠償金をヴェルサイユ条約で言い渡されたことにより失業者が増加するなど生活が困窮していた。そのような状況か奪回するための案を演説で発表していた。それに共感を覚えたドイツ人は団結力が深まっていき、それが正義だとあたかも勘違いして戦争へと繋がっていったという歴史がある。このような例を報復的正義といい、ヨーロッパにて広く見られた事例であったり、既に古代バビロニアのハンムラビ法典「目には目を、歯には歯を(同害復讐)」という考え方から既に出来上がっていた。またこの共感した力は各人に各人のものを配分すること、すなわち、各人がそれぞれ持つべきものを実際に持つように働きかける配分的正義に当てはまる。そして実際にドイツが多額の負債を無くそうという考えに至ったのは、一旦破壊されたあるべき状態を回復すること、すなわち、各人が持っているべきものを奪われたとき、あるいは、各人が持つべきでないものを持っているときに、それを返還したり放棄したりするように働きかけることである匡正的正義が働いている。しかしナチス・ドイツのこのような動きは修復的正義(自己の行為を反省し、自己の被害を減らすために納得するまでの考察)の観点では間違っている。
現代の正義論と批判から展開の可能性
世界恐慌を原因に資本主義経済の失敗を目の当たりにしたアメリカ合衆国は、自由放任主義を放棄し、国家による介入をするべきだという新自由主義の動きが強まっていった。彼らは階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、古典的自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考えた。新自由主義者らは第二次世界大戦後の高度経済成長のなかで、先進各国は社会保障の充実を図った。そのなかで、福祉政策の対象範囲を困窮層に限定するか中間層まで広げるか、また、福祉政策を雇用政策に連関させるか否か、という分岐が見られた。しかし、ジョン・ロールズ(1921〜2002)はこのような福祉政策や社会自由主義政策を批判した。福祉政策は古典的自由主義に基づいて行われており、自由主義は己が善となる行動を行うことによって満足感を得る利己主義的なものであるため、平等で公正な社会は実現しないという問題が起きる。その一方でマルクス主義についても、マルクスは「分業のような排他的な活動領域を誰も持つことはなく、誰もが自分が望む分野での熟達が可能で、社会が生産一般を規制することで、誰もが心のおもむくままに生きていくことが可能になるとし、そこでは、道徳的制約や道徳的責務、権利と正義の諸原理への拘束といった、道徳の感覚は不必要であるとされた」が、道徳的な感覚は必要であると説いた。またロールズは、ミルの「人間が観想にとって高貴な、美しい対象の一つになるのは、他の人間の諸権利と諸権益によって課せられた諸制約の内部で、[人間たち自身のなかにある個性的なものを]陶冶し、それを発揮させることによってである。…人間のなかでより力の強い者が他人の諸権利を侵食するのを妨げるのに必要なだけの圧力は、これなしで済ますことはできない。…他人のために厳格な正義の諸規則に従わされることは、他人にとっての善をその対象とするさまざまな感受性や能力を発達させる。」といった言葉を踏まえ、正義の消滅は望ましいことではないと反論する。正義に適った諸制度は、おのずと現れてくるのではなく、制度のなかで学習される正義の感覚を、市民が持つことに依存するとロールズはいう。正義の感覚をもつことによって、他の人々を理解し、彼らの請求資格を承認することが可能となるのであり、他人の請求資格について心配したり意識することもなしに、マルクスのいうような心のおもむくままに行為することは、人間社会にとって欠かせない諸条件についての意識を欠いたまま生きる生活をもたらしてしまうだろうとロールズは警告する。
ジョン・ロールズ『正義論』では、人間が守るべき「正義」の根拠を探り、その正当性を論じたロールズの主著の一つ。この著で彼が展開した「正義」概念は、倫理学や政治哲学といった学問領域を越えて同時代の人々にきわめて広く大きな影響を与えることになった。それまで功利主義以外に有力な理論的基盤を持ち得なかった規範倫理学の範型となる理論を提示し、この書を基点にしてその後の政治哲学の論争が展開したという点で、20世紀の倫理学、政治哲学を代表する著作の一つということができよう。本書は3部構成である。
・第1部では、正義を論じる理由を明示した上で、非
個人的な観点から望ましく実行可能な正義の原理
を探究し、最終的に彼の考える「正義の二原理」
を提出する。
・第2部では、彼の正義論を現実の社会的諸制度・諸
問題へ適用し、その実行可能性を明らかにしてい
く。
・第3部では、彼の正義概念は人間的な思考や感情と
調和しており、「正しさ」と「善さ」とは矛盾する
ものでないことを説明することを通じて、理論的
に導出された正義論が現実の人間的基盤を有して
いる様相を明らかにしていく。
ここでは第1部の彼の論述の要旨を示す。
この書でロールズは、それまで倫理学を主に支配してきた功利主義に代わる理論として、民主主義を支える倫理的価値判断の源泉としての正義を中心に据えた理論を展開することを目指している。彼は正義を「相互利益を求める共同の冒険的企て」である社会の「諸制度がまずもって発揮すべき効能」だと定義した。そして社会活動によって生じる利益は分配される必要があるが、その際もっとも妥当で適切な分配の仕方を導く社会的取り決めが社会正義の諸原理になるとした。ここで彼は社会契約説を範にとってこの正義の原理を導出していく。まず正義の根拠を、自由かつ合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた-すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない-状態である。このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり(マキシミン・ルール)、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。
第一原理 自由の原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度
枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。
ただし最も広範な枠組みといっても他の人々の
諸自由の同様に広範な制度枠組みと両立可能なも
のでなければならない。
第二原理 平等に関する原理
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たす
ように編成されなければならない
1、不平等が各人の利益になると無理なく予期しうる
2、全員に開かれている地位や職務に付帯する
1=格差原理、2=機会均等原理
※ただここにおける自由とは
いわゆる消極的自由を指示している。
ロールズの正義論は、当初より多くの批判にさらされてきた。その最大の問題点は、社会制度を変えることにより社会における個々人のポジションの交換が完全に可能であるかのような幻想を与えてしまう点である。例えば、所得や富の分配方法を変化させるとしたら、社会の中で誰が最も不遇な人々(最小所得者)となるかは変化する。それが誰であろうとも、その人々の状態がより改善される社会制度をよしとしよう。これが「格差原理」と呼ばれる分配的正義の要点である。土地や資本など一切の生産手段をここでの分配対象に含めるならば、資本家と労働者の地位を逆転させることも、理論的には不可能ではないことになる。もちろん,実際には,社会制度の変更は、各制度における既得権益者の抵抗を伴うために容易ではない。
この問題に対処するためにロールズが持ち出してきた装置が「無知のヴェール」 と呼ばれるものである。それは、社会制度を評価する際には、自己の社会的地位や財産、技能、性質、嗜好など私的利益に関連する情報は一切顧みてはならないとする一種の中立性の要請を象徴する。これに対しては,無知のヴェールに覆われるほど人は中立的ではありえないという批判と、ロールズの想定した無知のヴェールは厚すぎるという 2 つの批判が寄せられてきた。前者は、そもそも人は特定の価値判断から逃れられない、せいぜいできることは暗黙の理論前提を明示化することだけだ、というマックス・ウェーバー以来の価値自由の問題と関連する。後者は、例えば女性、障害者,歴史的不正義や犯罪の被害者であることなどはまさに社会制度を評価する観点となるべきものだから、覆い隠してはならないという批判である。
まず、ロバート・ノージック(1938〜2002)は、自由意思論、もといリバタリアニズムという考えを持っている。このリバタリアニズムは、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場である。他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張する。彼はアダム・スミス(Adam Smith)を受け継いで見えない手の説明方法で国家の成立を展開し、夜景国家論または最小国家論を主張した。
自然状態で個人が権利を守りながら生きている。
個人は相互保護協会を設立し、これは労働分業と商品化によって商業保護協会に変わる。
商業保護協会間の競争の中で、ある地域内の支配的保護協会が形成され、支配的保護協会は極小国家になっていく。
極小国家は、残りの独立者に報酬として保護を提供し、最小国家の要件を満たす。
ノージックは、ジョン・ロールズ(John Rawls)の正義論の第2原則である社会経済的不平等が社会の最も恩恵を受けていないメンバーにとって最大の利益になるように調整されるべきであるという結論に反対した。ノジックにとって商品分配は、たとえその過程で大きな不平等が生じたとしても、ただ大人の間の自由交換過程によってもたらされたものにすぎない(反還元主義)。彼はジョン・ロックの大枠をたどったが、いくつかの点でロック自身とは重要な別の結論に達する。 ロック的自然法を受け入れずに、ノージックは、 リバタリアニズム社会が自発的な奴隷を認めていると考えると主張した。また「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」と題した論文などによって分析的形而上学の開拓者の一人としても有名であり、分析哲学における形而上学の復権に貢献している。それらの論文は哲学論集『Philosophical Explanations』(邦題:『考えることを考える』)に収録されている。
次にマイケル・サンデル(1953〜)は、共同体主義もといコミュニタリアニズムという考え方を持っている。その論述の特徴は共通善を強調する点にある。また共和主義者を名乗ることも増えている。これは、アリストテレスの共通善の考え方とよく似ている。つまり、古代の哲学者の原理が再認識されつつあるのだ。
日本における正義
日本の正義観は、歴史的・文化的背景の中で、
「調和」と「共生」を基軸に形成されてきた。西洋的な「普遍的原理」に基づく正義よりも、状況や人間関係に応じた柔軟なバランスを重視するのが特徴である。古代より、和を尊ぶ精神(和の国)や、共同体の安定を守るための道徳規範が正義と結びついていた。武士道に見られる「義」に代表されるように、身分や役割に応じた責任を果たすことが正義とされた時代もあった。近代以降、西洋の法的正義が導入されたが、社会全体では「法の形式的正しさ」よりも「人情」「空気を読む」といった暗黙の了解や協調が優先される場面が多い。戦後、憲法で人権や平等が掲げられたが、依然として「個人の権利」より「調和と安定」を重んじる傾向は根強い。そのため、日本における正義とは、「個人の権利と義務の均衡を図りつつ、社会全体の調和を保ち、互いに譲り合い、共に生きる道を探る」ことに行き着く。正義とは、対立を解消し、皆が安心して暮らせる状態を築くための不断の努力である。
おわりに
ロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ問題、そしてトランプ大統領のアメリカ・ファースト政策は、それぞれ異なる背景と文脈を持ちながらも、「正義」という理念における共通する問題を浮き彫りにしている。これらを通じて見えてくるのは、正義の解釈が主権国家、民族、個人など立場によって多様化し、しばしば対立し合う現実である。そして、こうした国家間や民族間の力の非対称性が、社会正義の実現を阻む最大の障壁になっている。これらの事例に共通するのは、「自国・自民族の利益」を中心に据えた正義観の顕著な表出である。ロシアはウクライナ侵攻について、自国の安全保障と歴史的領土権を根拠に「正義」を主張している。一方でウクライナ側は、主権と領土保全、そして国民の自由と民主主義の擁護こそ正義と訴える。両者は根本から対立しているが、どちらも自己保存と自国の独立を「正義」として掲げる。パレスチナ問題も同様に、イスラエルはユダヤ民族の生存権と自衛権を「正義」とする一方で、パレスチナ側は民族自決権と占領地からの解放を「正義」としている。ここでも双方の正義はぶつかり合い、絶え間ない衝突を生んでいる。アメリカ・ファースト政策は、アメリカの国益を最優先する姿勢を「正義」とするものであり、特にドナルド・トランプ政権下では、移民排斥や貿易摩擦、国際協力軽視など、自国優位の姿勢が顕著だった。この立場は、自国民の利益を守ること自体が正義だとする一方で、国際社会における平等な協力体制や貧困国への支援といった「広義の社会正義」とは緊張関係にある。いずれも、自国民や自民族を守ることが第一義となり、「他者」への配慮や世界全体における公正は二の次になっている。これこそが、現代国際社会における正義観の根本的な分裂である。さらに重要なのは、「力を持つ者」の正義が「現実」として定着しやすく、力なき者の正義は叫ばれても届きにくいという構造である。ウクライナは西側諸国の支援を受けて抵抗しているが、パレスチナ人の訴えは長年にわたって国際社会で顧みられず、イスラエルによる軍事力・経済力・政治力が現実を支配している。また、アメリカ・ファーストも、軍事・経済覇権を背景に「自国優先」を押し通すことができた。ここには、「力を持つ国家や民族の論理」が正義として定着し、「力なき者」が追いやられるという非対称性がある。国際法や人道的理念が語られる一方で、実効支配や軍事力が「現実の正義」となる構造は、ロシア・ウクライナ戦争やパレスチナ問題においても露わであり、「力が正義を形作る」という冷厳な現実を示している。このように、国家や民族ごとの正義が対立し、力がそれを左右する現状において、普遍的な正義=社会正義の実現は極めて困難になっている。社会正義とは、本来すべての人々が等しく尊重され、基本的権利が保障される状態を指す。国際社会でいえば、民族や国境に関係なく、人権や平等が保障されるべきである。しかし、現実には「国益」や「民族の安全」が優先されるため、「一方の安全」が「他方の抑圧」を招く構造が続いている。例えば、イスラエルにとっての安全保障政策は、パレスチナ人にとっては抑圧や生活破壊となり、ロシアの勢力圏拡大はウクライナ人にとっては生存の危機となる。また、アメリカの経済第一主義は、発展途上国や移民労働者に負担を強いる結果をもたらしている。つまり、「誰のための正義なのか」という視点が欠けたとき、社会正義は容易に形骸化する。さらに、国際社会では「自国に都合の良い正義」が強調されやすく、同じ基準が適用されない場面が多い。ロシアのウクライナ侵攻には厳しい制裁を科しながら、イスラエルのパレスチナ政策には消極的な姿勢を見せる欧米諸国は、明らかに二重基準に陥っている。これは、「国際的正義」が「政治的利害」に左右されている現実を示している。こうした姿勢は、力を持たない国々や人々に「正義など所詮、強者の都合で変わる」という絶望感を与え、社会正義の理念そのものに対する不信を広げる。国家間でも民族間でも、「自分たちだけの正義」を追求すれば、他者は必ず犠牲になる。しかし、現代は経済・情報・環境問題を含め、すべてがつながったグローバル社会である。他者の苦しみは、結局、自国や自民族にも跳ね返る。よって、社会正義とは、「誰も取り残さない公正な関係」を築くことに尽きる。それは、国境を越えた人道支援、力なき者の声を汲む国際法の厳格適用、軍事力に依存しない紛争解決システムなどによってしか成し得ない。しかし、現実はまだ程遠い。むしろ、ロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ問題、アメリカ・ファーストという事例は、「正義」を掲げながらも、互いに排除し合い、力がものをいう現実があることを痛烈に示している。この現実を直視しつつ、「共存」のための正義をどう築けるか――それこそが、21世紀の社会正義の最大の課題である。