桂小五郎青雲伝 ー炊煙と楠ー 第四章 その名は大次郎
火山 竜一
第四章 その名は吉田大次郎
小五郎は、稚児医から、命が危ういと診られていた七歳の壁を乗り越えた。
日差しの強い夏の昼過ぎのこと。
小五郎は表玄関で、昌景の袖を繰り返し引っ張った。
「父上、一緒にいきたい。連れてって」
昌景と文譲は、急患の往診に出ようとしていた。
昌景は往診にはけっして駕籠は使わない。健脚である。
文譲はというと、いつも昌景の後ろから、背中に薬箱を背負ってついていく。
小五郎が往診に関心を持つのは、初めてのことだった。
昌景は袖をつかんでいる小五郎の指を、一本、また一本と外していく。
「小五郎や、患者を好奇の目で見てはならぬ。お前が医術の修業をして、知識と心得を身につけたら連れて行こう。今は辛抱しなさい」
小五郎が関心をもったのには理由(わけ)がある。
今日の患者が、子供であることだ。しかも武士の子供でありながら、脇差で自(みずか)ら左手を突き刺したという。
小五郎より、たった三歳年上らしい。
いったい、どんな子供であろうか。
昌景と文譲が往診に出ていった。
行先は松本村である。さして遠くはない。
小五郎は茶の間の仏壇の前で、お治を抱いて手遊びをしていた。
お治は途中で眠くなり、小五郎も寝転がっているうちに二人して茶の間でお昼寝をしてしまった。
日が暮れる前に、昌景と文譲は帰って来た。
小五郎は二人が診察室の脇の玄関に入ってきたのに気が付いて、お治をよいしょと抱いたまま台所のお清を呼んだ。
昌景は茶の間で着替えると、縁側に腰をおろした。
夕焼け空を目を細めて見上げながら、手拭で剃りあげた丸い頭から首筋まで、ぐるりと汗をぬぐった。
文譲は裏手の井戸で水をくみ、顔から首筋を洗っている。
お清は昌景に、お盆に乗せた麦湯を差しだした。
「それでどうでした。その子のお怪我は」
昌景は麦湯を一気に飲み干して、一息ついた。「うん」といったきり、しばらく庭に目を落としている。
小五郎はお治と手指をからませながら、耳を澄ました。
「左手の親指と人差し指の間が裂けていた。気付け薬を飲ませてな、止血して、傷口を縫ったよ。しばらくは様子見だな」
昌景は浮かぬ顔で考え込んでいる。
お清は昌景をゆるやかに団扇(うちわ)であおいだ。
「小五郎より年は三つ上だが、体は小さい。しっかりしているというか……あのような子は初めてだな。家は松本村の結構な急坂の上での、この体では難儀であった」
昌景の汗は、炎天下の山道を登っているときのように止まらない。
「たまには、駕籠を使われては」
昌景はお清に首を振った。
昌景は駕籠を使うことは、ほとんどない。
「金がかかり過ぎる。松本村など大して遠くはない。ただ、あの新道からの急坂は、ちとこたえた」
「少し、お痩せになったらいかがですか」
昌景は丸い顔に笑顔を浮かべて、お清を見た。
「痩せる方が、難儀だよ。さて、我らが家に着くと、その子は縁側に座っておった。下緒を巻き付けた手首をおさえてな、なんと自分で血を止めていたの」
お清は昌景に、さらにお茶のお代わりを差し出した。
「血だらけの左手をじっと見ておる。心細かったろうに。手の表も裏も、血でべっとりでな。単衣も血で汚れたままだ。唇を悔やしそうに噛みしめての、子供とは思えぬ厳しい顔だった。小さな声で『だめだ、だめだ、むちだ、むちだ』と、念仏のように唱えておった」
昌景は少年に謎を駆けられたように、しばし考え込んでいる。
小五郎は昌景の考え込む姿に、つい引き寄せられる。思わずお治を抱きしめた。
「その子は我らに気が付くと、丁寧に頭を下げてな。『痛いか』と訊くと『痛くありません』という。『よく我慢したな』と声をかけると『大丈夫です』としかいわぬ。気丈な声であったよ。わしは傷口を焼酎で消毒して縫い始めた。その子は、なんと目を背けない。大人でも悲鳴を上げたり目を背けるものだよ」
お治が小五郎の両手を握って、玩具(おもちゃ)にしている。
小五郎も考え込む。
まるで少年の姿が目に浮かばなかった。
日頃、菊ケ浜を遊びまわる仲間達とは、異質なものを感じていた。
昌景は独り言のように話し続ける。
「縫っている間は、びくとも左手を動かさぬ。『どうして怪我をしたのか』と尋ねても、『大したことでは、ありませぬ』の一点張りだ。なかなか事情を話してくれなんだ。やっと一通り話した後の、賢そうだが顔が暗いのが気になってな」
お清は首を傾げて、つつくようにいった。
「そんな傷で、明るい分けが、ありませんでしょ」
昌景は自分の首筋をもんで頭を回した。
文譲も入って来ると、脇に座った。
「その子はな、なんと色々と訊いてくるんだよ。気付けの薬のこととか、糸は何かとか」
文譲も口を挟んだ。
「あの縫っている最中に『何鍼縫うのでしょうか』と。大人のような口ぶり。尋常ではありませぬ。大人の患者様でも、目を閉じて、普通なら激痛に唸るばかりでしょうに」
昌景は頷いた。
「そうだ、あのとき『跡が残るか』とも、訊いてきたな」
お清が小五郎をちらと見た。
「小五郎なら、大騒ぎでしょうよ」
「正直、傷跡は残るかもしれぬな。抜刀して構えた時に、どうであろうか。かなり手元の筋を深く傷つけたことは間違いない。でも手の動きに支障はないと思うがな。治るのに時間はかかるであろう。手をしばらく動かせぬよう、包帯でしっかり巻いといたよ」
蝉の声が部屋に満ちていた。
文譲は団扇で忙しく自分の顔をあおいでいる。昌景の話にふと思い出しのか、付け足した。
「父上が心配したのは、それからですね」
昌景は庭をぼんやりと見て、静かに頷いた。
「よく見ると、頬に痣(あざ)があってな。胸元にも打撲の跡だ。わしは、そっちが気になってきた。上を脱がしたら、あちこちに傷や痣がある。こりゃあいかんと思った」
昌景が少年の両親に痣の訳を尋ねると、両親の話は歯切れが悪くなり、縁側は気まずい雰囲気になったという。
「どう見ても、喧嘩をするような子供には見えぬ」
昌景も文譲も、口が重くなった。
「お清、子供同士の喧嘩の傷は、小五郎を見ればすぐわかるであろう。擦(す)り傷、切り傷、たかがしれておる。だが、この子の体中の傷は、尋常ではない。医者として出過ぎたことかもしれぬが、見過ごしにはできぬ」
昌景は鬱勃(うつぼつ)たる思いで、珍しく暗い顔をした。
「両親の様子からは、とても折檻するような家ではあるまい。思いつきで、師匠が厳しいのかと尋ねたわけだ」
両親は何か話そうとしたが、少年の睨みつけるような目が、それをさせなかったらしい。
「体つきからは、武術の師匠ではあるまい。よくわからぬが、この子は相当な修行をしているとみた。読み書き算盤程度のものではあるまい」
昌景は茶を飲み干した。
昌景の口調が強くなった。
「わしは、その師匠に伝えてくれと。『これは折檻か懲罰である。なんなら、その師匠をわしのところへ連れて来い』とな。ところが、その子は『すべて私が悪いんです』と言い張る。よほどの師弟関係じゃな」
文譲が一つ思いだした。
「友達はいるのかと聞いたら、泣きそうな顔をしましたよね。唇がふるえて」
昌景が文譲を見た。
「そうだったな。堪(こら)えている顔がなんとも不憫(ふびん)で、その子には、我らが家を出るときに『痛ければまたわしを呼びなさい。耐えてはならん。いつでも診てあげよう』と申しておいた」
昌景は溜息をついた。
小五郎が両手の指で動物の顔を作っては、お治に見せている。
お治はどんな指でも掴(つか)んでしまう。
小五郎が話しかけると、お治は小五郎の唇を不思議そうに見つめている。
「お治、お前は何にも知らんなあ。これは馬。これは牛。ほら角だ」
小五郎の声に、昌景が思わず振り返った。
小五郎の指先を見つめながら頷いた。
「そうか……わかったぞ。あの子が縁側で『むちだ、むちた』と呟いていたのは、『我は、無知なり』と、何も知らぬ己を、叱り続けていたのであろう」
昌景は空の湯飲みを持ったまま口に運び、ふと気が付いて下ろした。
「もう二度と刀を握れないなどと、思いつめねば良いのだが」
それから二週間後のこと。
昌景がお城の務めから帰ってくると、夕餉の時に、城内の噂話をした。
学館明倫館の大学で、十歳の少年が山鹿流兵学の講義をしたという。大学の生徒は全員十五歳以上である。
明倫館は毛利家宗家が設立した学校で、家臣たちの子弟が通っている。小学は書の稽古や四書五経の素読、大学から本格的な学問に取り組む。
その少年は教授見習いのため、日頃は教場の脇に座り代理教授の講義を見ている。
その日は代理教授から試しに山鹿流兵学の講義をまかされたという。
「それはそれは、しっかりした講義であったそうだ」
昌景は感に堪えぬという顔をした。
少年の声は教場に良く通り、実に態度も堂々としていたらしい。
昌景は、小五郎を見た。
「小五郎、あの少年だよ。己を『無知だ』と、叱り続けていた子だ。」
昌景は小五郎に少年の名をいった。
少年の名は吉田大次郎(後の吉田松陰)。左手には包帯が幾重にも巻かれていたという。
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