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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠―       第七章 弥之助の稽古が始まる

                            火山 竜一  

第七章 弥之助の稽古が始まる 

 小五郎には大きな壁のように見える。
 弥之助である。
 桂家の庭で、木刀を持って、初めて弥之助と対峙した時のことであった。 弥之助は、日ごろは和田家の家人には腰低く接し、奉公人の友藏にも「友藏さん、友藏さん」と親し気で、けっして威圧的ではなかった。
 弥之助は、日々、門前を掃き、家の中を掃除をして、庭木の手入れも職人並みである。
 だが、小五郎に「そろそろ稽古をいたしましょうか」と促した時だけは別だった。

 桂家の庭で、小五郎と弥之助が、互いに木刀を持って構える。
 小五郎の前に立つ弥之助は、『関ケ原』の仲間達とは比べようもない。
 弥之助は堂々と青眼に構えている。
 小五郎は逃げ出したくなるほど怖くなった。
 弥之助の低いドスの利いた声が庭に響いた。

「さあ、どうした。どこからでも、かかってきなされ」

 上段に構えた小五郎は、木刀をさらに高く振り上げて打ち込んだ。
 腕に力をこめては、何度も打ち込む。

「やあ、やあ、やあ」

 木刀のぶつかりあう音が庭に弾ける。
 弥之助は微動だにしない。
 小五郎の打ち込みをすべて受け止める。目は瞬きもしない。
 小五郎が右から左から弥之助に打ち込もうとすると、小五郎のねらったところに弥之助の木刀が待っている。
 弥之助はといえば、小さく構えを変えるだけである。
 足もとは、ほとんど動かない。
 小五郎の打ち込む木刀は、簡単に弥之助の木刀に弾き返される。
 小五郎が木刀を強く握るほどに、手のひらに激痛が走る。
 指も手の平の皮も、剥(む)けて裂けて血がにじんできた。
 痛みのあまり、小五郎は木刀を軽く握った。
 小五郎は、恐々振り下ろす。
 小五郎の木刀は、弥之助の木刀に跳ねかえされて、思わず小五郎は木刀を取り落としてしまった。
 木刀は庭の土の上に転がった。
 小五郎は、すぐに鷲づかみで木刀を拾い上げた。
 今度は、体当たりのように突進する。突きのつもりだった。
 簡単に弥之助にいなされた。
 小五郎は脇の庭の茂みの奥に突っ込んだ。

「意気込みは、よし」

 小五郎の背後から、弥之助の手が茂みをかき分けて、小五郎に差し出された。
 小五郎は、茂みの奥から、軽々と引き上げられた。
 小五郎の髪も、単衣の前も後ろも、葉っぱだられだった。
 葉っぱを一つ一つ払い落とす弥之助の顔は、いつもの優しい顔に戻っていた。
 茂みの前に立つ小五郎は、弥之助を悔しそうに見上げた。

「弥之助。誰に剣術を教わったんじゃ」

「もちろん、九郎兵衛様でございますよ。『お前は筋がいい』なんておっしゃって、鍛えてくださいました。私も、ずいぶん痛い思いをいたしましたよ」

 目の小さな顎の頑丈そうな弥之助の顔が、目をさらに細めて懐かしそうな顔をした。

「今は痛くても、ひたすら、打ち込みなされ。痛みを恐れたり、恐がったり、避けようとしてはなりませぬ。力を抜くのは、まだまだ先でございます。怖がる癖は、いざというとき命取りになりまする。ではもう一勝負」

 日暮れまで、弥之助の稽古は続いた。
 弥之助が「終わり」というまで、やめることはない。
 小五郎は打ち込みながら、和田家に帰ったら文譲に膏薬を手に塗ってもらおうと思った。

 お良が亡くなってから、小五郎の生活は、桂家より和田家が中心になっていた。
 桂家には弥之助がいても、和田家には家族が多いだけに、どうしても和田家で食事をしたり寝るようになる。
 弥之助も、橋本川の近くにある中間が多く住む一角から、桂家に通ってきていた。
 小五郎にとっては、家同士が近所とは、まことに都合が良いものであった。

 小五郎は、和田家の庭では、時には幼い宇一郎やお治の相手をすることがある。
 楠の下で追いかけたり、追いかけられたりしてよく遊んであげた。
 楠は和田家と佐伯家の日陰から、陽光を求めて空へと高く伸び続けていた。
 幹は細めでまだ頼りないのに、楠の頭は二階建ての和田家を超えている。 枝葉は庭にまだらの影を落として、風に揺らめていた。
 楠の枝は大きく広がり、佐伯家と和田家の屋根に届き始めていた。

 六月のこと、強風が吹き荒れたことがあった。
 九歳になった小五郎が、和田家の二階から楠を恐る恐る覗いた。
 楠は叩きつけるような風に大きく揺らぎ、右に左に枝全体と幹が、身をひるがえしている。
 小五郎には激しい風の中、楠がまるで魔物のように、庭で暴れているように見えた。
 嵐の翌日、和田家の庭は、無数の折れた枝葉が散らばっていた。
 昌景と小五郎は周りを見回した。
 昌景は小五郎に、静かな声ではあるが断固とした調子で、楠をお城に献上するといい出した。

「これ以上楠が大きくなると、風が吹けば枝が屋根を叩くであろう。佐伯殿の家に迷惑をかける。和田家の屋根も傷む。根も家の土台の下に広がれば、家が傾く」

 小五郎は驚いた。
 楠の高枝の真下で、小五郎は激しく首を振った。
 楠のない庭など、小五郎には考えられなかった。
 昌景はこのところ多忙であった。往診やお城での勤めだけではない。前年の天保十一年(1840年)九月に、萩に医学館が創設されていた。昌景は眼科の教授をしている。和田家にも多くの弟子たちが出入りするようになっていた。
 さらに昌景は藩主毛利慶親の侍医となっていた。
 昌景は抑えた声で小五郎に説いた。

「楠はな、お城に持って行けば何倍も大きくなる。わが庭ではもう無理だ。家にとっても楠にとっても、お堀の近くに植えてやるのがよいことぞ。もう、これは決めたことだ」

 座敷の障子が少し開いている。
 奥に人影が集まっていた。
 障子の隙間から、そうっとお清や文譲、友藏が覗いていた。
 小五郎が叫んだ。

「枝でも、幹でも、切ればよい。邪魔なら邪魔なとこだけ、切ればよい」

 昌景の顔が一瞬上気して、小五郎を睨んだ。

「お前は桂家の人間。和田家に口出し無用」

 昌景は一瞬『しまった』という顔をした。
 座敷の奥の襖が揺れた。
 小五郎は顔から血が引くような気がした。
 桂家には、すでに両親はいない。自分は和田家でも余計者だ。
 今や、小五郎は、宙ぶらりんになった自分に、一緒に育った楠すらも失おうとしている。
 昌景は強く首を振った。

「何を膨れておる。お前もいずれお城に上がる時がくる。楠が一歩先に行くだけだ。楠の困りごとは、これで終わり」

 昌景は言い切ると、小五郎を無視して縁台に上がった。
 お清が座敷の障子から飛び出して、縁台の上で昌景に詰め寄った。

「なんてことをおっしゃるのです。ひどい、ひどすぎます」

 昌景はお清を無視して、さらに障子を開いた。
 潜んでいた皆がよろけた。
 文譲が尻もちをつき、友藏が慌てて支えた。
 昌景は座敷に踏み込み、先の診察室に入ると戸を叩きつけるように閉めた。
 小五郎の頭の中を、昌景の言葉が駆け巡った。

 『お前は桂家の人間』だと。

 お清がそっと縁側に座った。座敷から、お盆を引き寄せた。

「こっちに、おいで」

 小五郎はお清に手招きされ、楠の下からお清の脇に腰かけた。
 お清は小五郎の手を握った。

「お父様の言葉は本心ではありませぬ。ついかっとなったのです。ここのところお忙しくて、お疲れなのよ。さあ、夏(なつ)橙(だいだい)(夏蜜柑)をお食べ。ちょっと酸っぱいけどね。漬物小屋の向こうで採れたのよ」

 お盆に乗った夏橙を、お清は捥(も)いで、小五郎に渡した。
 小五郎は夏橙を口に突っ込んだ。
 甘味が口の中に広がる。
 小五郎は、いくつも夏橙を口に入れた。入りきれないほど押し込んでは、ぐいっと飲み込んだ。

「母上、桂の家に行ってきます。弥之助をやっつけてやる」

 お清がおかしそうに小五郎を覗き込んだ。

「少しは強くなったのかしら。でも夕餉には、帰ってくるのですよ」

 お清は友藏を呼び、さらに夏橙を持ってこさせた。

「弥之助との稽古、思いっきりおやり。弥之助の分も、夏橙、持っておいき」

  小五郎は夏橙を両腕に抱えると、和田家の門から横丁に駆けだした。
 桂家の庭では、弥之助が木刀を持って待っていた。

「そろそろ、来そうな気配がしておりましてね」

 どうせ、楠の件で、小五郎の叫び声が、桂家にも聞こえていたのであろう。
 弥之助が、にやっと笑みを浮かべた。

「手の痛みは、いかがなものでございますか」
「大事ない」

 小五郎は弥之助の手元の木刀を鷲づかみにした。
 互いに、庭のまん中で構えた。
 弥之助が低い声で、いつものように小五郎を挑発した。

「さあ、来い。どうした」

 小五郎は怒りをぶつけた。

「えい、えい、やあ」

 小五郎は、己の激情にかられて、木刀を振りまわした。
 嵐の中で逆巻く楠が、脳裏に浮かんできた。
 小五郎は荒れ狂う楠そのものになった。幹や枝葉が暴れるように木刀をふるった。
 それでも、弥之助は小五郎が木刀を打ち込む度に「ほい、ほい、ほい」と妙な気合でかわしいく。

「ほれ、いたるところ、隙だらけ」

 小五郎の木刀は、弥之助に右から左へ、左から右へと、埃(ほこり)でも払うように流された。
 小五郎の小さな体が、弥之助に翻弄(ほんろう)される。
 だが、今日の弥之助は、いつものと違っていた。
 足を使っている。
 地面をすべるようにして、小五郎の打ち込みを、構えを変えずにかわしていく。
 たとえ小五郎が弥之助の足に追いついて、木刀を打ち込んでも、弥之助はそこにはいない。
 柔らかく木刀は流されるだけだった。
 小五郎の手には、不思議なことに、傷みはなかった。
 受け止める弥之助の木刀は、小五郎には、綿雲を打っているように手ごたえがなかった。
 小五郎は、弥之助が小五郎の手を気遣って、体捌きで打ち込みを流しているように思えた。
 小五郎が転げそうになって、構えなおした刹那、弥之助のしゃがれ声が飛んだ。

「撫(な)で肩の相手にご注意を」
「なぜじゃ」
「剣の上手は、肩の力が抜けてござる」

 小五郎が嵐のように、力いっぱい木刀を続けざまに打ち込んだ。
 弥之助は鼻歌交じりで受け流す。

「攻めようと思った時が、危のうござる」
「なぜじゃ」

 小五郎が汗を飛ばしながら叫ぶ。
 弥之助は、柳に風のように、小五郎の木刀をかわした。
 弥之助の強壮な体の動きは軽くて、足先が軽快だった。

「心の守りを忘れまする」

 小五郎は、もっと早く、もっと早くと、木刀を振る。
 小五郎の木刀は、弥之助に玩(もてあそ)ばれている。
 弥之助の声には、のどかな響きがあった。
 小五郎には、いまいましい弥之助の声だった。

「力を抜けば重くなる」
「なぜじゃ」
「さあ、なぜでしょね」

 弥之助は、歌のように節をつけた。
 小五郎の突きは、空を切った。

「息は腹にこめるもの」
「なぜじゃ」
「腰の遊びがなくなりまする」

 強烈な弥之助の一撃に、受け止めた小五郎は吹っ飛んだ。
 弥之助からすれば、軽い打ち込みにすぎないであろう。
 小五郎はあっけなく尻もちを着いた。小五郎は跳ね起きると、弥之助を黙らせたい一心で上段を突いた。
 弥之助は体を捌(さば)き、小五郎の木刀は泳いで空を突いた。
 弥之助が横から踏み込んだ。

「考えた時は、遅うござる」
「なぜじゃ」

 弥之助は答えず低い気合を発した。腹に響くような重さがあった。

「感じたら、打つ」

 小五郎の頭上で、弥之助の木刀は止まった。
 稽古が終わると、二人は向き合い、礼をした。
 流れる汗とともに、小五郎の怒りは抜けて、苦い思いが胸のうちに残った。
 弥之助と小五郎は濡れ縁に座ると、小五郎は弥之助から手拭きを受け取り、汗をぬぐった。
 風が心地よかった。
 小五郎と弥之助は、お盆に乗せた夏橙を手に取った。
 弥之助は夏橙の皮をむきながら、小五郎に一房渡して、嗄(しゃが)れ声で明倫館のことを話し始めた。
 いつもの奉公人弥之助に戻っていた。

「いずれ、明倫館の稽古場に行くことになりましょう。その時は柳生新陰流の内藤作兵衛先生のところに、行かれるがよいでしょう。今の内藤先生も素晴らしいお方ですが、先代と九郎兵衛様とは、よく稽古をした仲でございますよ」

 弥之助も、一房夏橙を口に放り込んだ。
 酸っぱそうに、細い目をさらに細くした。
 頑丈な顎(あご)が夏橙を力強く噛み砕く。

「怒りは剣を下手にします。ただ、最後の突きは、ようござった」

 秋になり、楠をお城に献上すると、庭は埋め戻された。
 和田家の庭は、日当たりもよくなり広くなった。
 小五郎には寂しい思いだけが残った。
 しばらくして、小五郎にとって義理の姉のお捨が、急に胸の苦しみを訴えた。
 お捨は、夫である文譲の介抱も虚しく息を引き取った。
 天保十二年(1841年)十一月十二日にことである。
 九歳になっている小五郎にとっては、和田家で初めての家族の死であった。
 昌景はしばし考え、座敷にお捨の妹のお八重を呼んだ。
 なんと、昌景はお八重に、跡継ぎである文譲の後妻になるよう命じた。
 家を守るためであると。
 小五郎は茶の間で、耳を立てていた。
 座敷から出てきたお八重は、俯(うつむ)いたまま唇を噛んでいた。

 数日後、昼過ぎのこと、和田家の縁側に座っている小五郎の脇に、お八重が腰を下ろした。
 お捨の息子の卯一郎を、寝かしつけた後だった。
 お八重が楠のあとの地面を指さした。

「楠のかわりに、何か植えないと寂しいわよね」

 小五郎は足をぶらぶら振って、先ほどから考え続けていた。
 お八重に自分は何ができるだろうか。
 ふと足を止めた。
 小五郎はお八重を見つめた。

「姉上は、これで、ええんか」

 小五郎なりにお八重の幸せを一生懸命思いつめていた。
 小五郎の言葉に、お八重は唇を噛んで俯(うつむ)いた。
 目が潤んでいた。

「私、文譲兄さんが好きよ。尊敬もしているし。でも、お兄様としてなんだけど」

 お八重は、楠のあった場所に目を向けた。
 お八重は、まるでお捨が楠の場所に立っているように語りかけた。

「お捨姉さん、ごめんね。私、姉さんみたいに、しっかり者じゃないものね」

 お八重が唇(くちびる)を震わしている。

「私だって夢があったの。どんな方が、旦那様になるのかしらって。どこの家に嫁ぐのかしら。うまくやっていけるのかとっても不安だけれど、きっと仲良くなれるわ、なんて」

 お八重は小五郎に、胸のうちにずっと育んでいた夢を語った。
 和田家を出て、きっと新天地にいけると。
 でも、今は違う。

「和田家を守らないとね。父上のお言いつけの通りに」
「違うよ、姉上」

 小五郎はお八重を睨(にら)むようにして見た。

「姉上にしか、できないことがあるって」
「え、なに。教えて」

 小五郎は、お八重姉さんも、お清のようになってほしいと思った。

「母になればわかる。きっと、わかる」

 小五郎は和田家で生きる道は、これしかないと思った。
 小五郎には、お八重の顔を見るのはつらかった。

「俺、強くなって、お八重姉さんを守ってあげる」

 小五郎は弥之助の待つ桂家に向かった。

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火山竜一  ( ひやま りゅういち )
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