このnoteを始めることになったきっかけは、とあるグループの話 京都で活動していたグループに、その公演や世界観を文章で伝える役割の人が居たらしい その存在が一般の人にわかりやすく伝えていたのだそう その話の中で、僕にやってみないかと声をかけてくれた 演出の庄は、親友で表現の深い話が出来る数少ない存在です だけど僕はHIxTOで役割を見出せないでいた。作品にダンサーとして入れないでいた でも、縁があるのなら何か形があるはずだ
昨日はHIxTOではじめての路上パフォーマンス オシャレな神戸の街並み 道ゆくカップルや家族にコンテンポラリーダンスはどう映っただろうか 何かやってるけど足を止めることでもなかったかもしれない 目が離せなくなったかもしれない 感動したかもしれない 笑ってるかもしれない コロナだから怒ってるかもしれない コロナだから応援してるかもしれない 僕個人の意見は、真剣に稽古場のように路上パフォーマンスで魅せる稽古を
コンテンポラリーダンスと言われる分野は、とても抽象的な世界だと思う 伝えたいことに溢れている世界なのに、伝わらない矛盾を感じる 言葉に出来ないからこそ、奥深い無限の可能性を秘めた世界なのかもしれない それでも、言葉として伝えられない歯痒さを僕自身は感じてしまう 僕は言葉が好きで、歌もメロディや音楽よりも歌詞が心に共鳴するものが好きになる 言葉には力がある 言葉には心がある 彼の描くコンテンポラリーダンスを言語化出来たら そんな話からこのnoteを実験的に始めま
今日の稽古の前半は一人一人が何故踊るのかについて話し合いました その中で、今この瞬間を感じるからという理由があった 踊ること表現することで自分の心と身体がここにある 生きているという感覚が増す それは、僕たちが作品を通して感じてもらいたいことに繋がっていると思う 現代を生きる中で薄れていく『生きている』という感覚 安心安全の世界を手に入れた僕たちは、その経済を回す為に社会に生かされているようにも思う 個性が求められない世の中で、生きることに慣れ同じ毎日をこなして