(オーケー、日記は素晴らしい) ところで小説は書かれなければならないだろうか? part.1|1/26(日)略箪笥
長い前置き
僕は小説のことが好きな人間だけれども(書いてもいるし)、小説にある種の白々しさを感じることもある。面白い小説を読んでいるときでさえ、ときどき。「なんでこの人はこんなにややこしい工夫をして俺にこれを読ませようとしているんだっけ」「そもそも俺はこれに興味あるんだっけ」みたいな。
それはある方向から見れば、「小説を受け止めるのには体力が必要で、自分にはその体力がない」という話、つまり「働いていると本が読めなくなる」ということではあると思うのだけど、一方で「(この)小説は体力を使って受け止めるに値するものなんですか」という問題は残る。
小説を読まなくても、アニメも漫画もVTuber切り抜きも(日記だって)あるのにどうして小説を受け止めなければならないんでしょうか? 小説は僕の何に関係があるんですかね?
多分、いま、読まれるものとしての小説(文学)は力を失っていく過程にあって、それはいい作品がないということではなく、読者が文学と自分の関係性をうまく見出せていないということなのだと思う。文学の系譜から見た小説の価値と自分の人生から見た価値が乖離しているとも言えるかもしれない(優れた小説に感動するとは限らない)。
もちろん欲望として書きたいから書く、読みたいから読むに過ぎないという理屈はあるし、その理屈は強力なのだが、従来の文学というのはどう考えてもそれ以上のステータスを付与されてきていて、例えば読書というのは今でもメジャーな趣味の一つであり、ノーベル賞には文学賞があり(ノーベル山登り賞はないのに)…という事実もそれはそれで見た方が良さそうに思える。
だから、「小説は書かれる必要があるのか」というという問いは、「今」「特に」小説が書かれる必要があるのかどうかという問いに移動していくことになる。
ところで日記はどうだろうか? 僕自身は熱心な日記読者ではないが、「熱心な日記読者」は存在する。現に、京都文フリでは「火を焚くZINE」の横でひっそりとさざわさんの日記本を並べて売っていたのだが、でかでかと幟まで立てた「火を焚くZINE」には見向きもせずさざわさんの日記に引き寄せられていく人が何人かいた。
そのような人にとっては、おそらく日記は自身に関係のあるもの(だからそれを受け止めようという気になる)で、小説やエッセイの集合である「火を焚くZINE」は関係の薄いものなのだろうと思う。
僕も、その感覚は部分的にわかる。文フリで小説は買いにくい。面白いかどうか以前に、好みに合うかどうかもわからないものを前情報なしにどうやって買ったらいいのかわからない。一方で、日記は僕と同じ現実を生きた同種の生物の体験が書いてあるわけだから、ほぼ100%自分に関係があるものとして読める。
とはいえ、日記を売っている人はたくさんいて、そのうちどれを買うんですかと言われるとまた途方に暮れるしかないわけだけれど。
そういう問題意識で小説と日記のことを考えてみようと思うのだけど、そうしたときに参照できるものとして、文藝の日記特集はうってつけだ。というか、この文章の前半はほとんど文藝の日記特集のうち滝口悠生さんと山本浩貴さんの論考をなぞるだけのものになる。
この通り、根本的な問題意識もそのまま借りてきたものだし、答えすら半分出ているようなものではあるのだけど、僕の一歩は小さく、岩を噛み砕くには書いていくしかない。
この文章に少しでも独自性を与えるべく、滝口さんと山本さんの論の比較をしたり、自分なりの問題意識でところどころ掘り下げたりもしていく予定ではある。
さて。前置きが長くなってしまいましたが、日記は、あるいは小説は書かれる意味があるのか。また読まれる意味があるのか。
オーケー、日記は素晴らしい
まず、日記を書くことが書き手にとって意味のある行為であるということはほとんど明白だと思う。
そもそもその日にあったことを語り直すという行為が治療的で、つまり日々は思い通りにならないものであるけれども、それを文章にすることで受け入れ可能なものとして再構築することができる。
つまり、日記を書くことは世界(他者)と折り合いをつける一つの方法ではある。
また、日記を書くことで「書くための言葉」を手に入れることも(特に日記以外のまとまった文章を書かない人にとっては)もちろん意味のあることだ。
文章を書くということは(単に考えたことを記録する手法ではなく)考える手法の一種だから、これまで書けなかったことを書けるという事態はこれまで考え得なかったことを考えられるということに直結する。
僕自身も、火を焚くZINEで行った二日間の日記を3万字にわたって書いたことで、新たな書き方を手に入れたなという感じはちょっとある。
そのほか、滝口さんと山本さんもそれぞれに違った観点から日記の効用を挙げているけれども、差し当たってこの文章の趣旨としては「日記を書くことに意味がある」ということだけ確認できれば十分なので、その詳細は文藝を買って読んでもらえればと思う。
また、山本さんが主宰するいぬのせなか座『座談会9』でさらに詳しい日記の功罪についての議論がされているのでこちらもおすすめ。
※ ただ、僕は日記を(このnoteを除いて)書いていないということにも注意したくて、松本さんも言っていたけど「日記を書くのがしっくりこない/恥ずかしい」みたいな気持ちはある。この問題については後回しにしたい。
宛先の問題(日記から小説・エッセイへ)
これはきたのさんによって引用された滝口悠生さんのトークイベントでの言葉なのだけど、僕の解釈では、ここでは「日記には宛先がないけれど小説には宛先がある」という話がされている。
つまり、小説がそのあらゆる細部に至るまで意味(≒必然性)を持たねばならない(あるいは意味があるものとして読まれる)のは、それが「だれかに宛てて書かれている」という事実に由来するから。
逆に、日記に必然性がない(そして滝口さんによれば必然性がないことも書けるのが日記の特長の一つなのだった)とすれば、それは誰にも宛てられていないことによるものだ。あるいは宛先の意識が比較的弱いことによって。
※ ここで「意味」を「必然性」と言い替えたのは「意味がない」というフレーズが価値判断に見えて紛らわしいからというだけで、特段の意図はないです。
あるいはこういう言い方もできるかもしれない。日記は自分だけに宛てられたものであるから、(自分以外の誰にも)必然性のないことを書ける(一方で、日記に書かれた全てのことは自分にとって必然性を持つ)(ただし、意外とそのようなことが読者から一定の必然性を持って読まれるということはあり得る)。
日記を書くことには確かに多くの良い効果がある。しかし、「誰かに宛てて書かれた」文章(例えば小説)の方が、より誰かに読まれる可能性を秘めている(読者を求めている)という点で「救いがある」。
別にそれが小説でなくて良いという気はするものの、話の区切りとして、僕たちとしては一旦これを小説を肯定するきっかけととらえておきたい。
ここまでは滝口さんの話を自分なりにこねくり回して来たけれども、山本さんも「宛先」を重要なテーマとして扱っている。
前提として、山本さんは素朴なレベルで他人に宛てて書くということに意味を見出している人だと思う。だからこそ、日記についての興味が交換日記、往復書簡という方向へ移っていく。
一方で、山本さんの「宛先」は「誰かに対して宛てる」というところにはとどまらない。
日記の宛先は「日記帳」であると山本さんは言っていて、「日記帳」とは、文章が書かれる場であり、日々文章が書かれた時間が並べ直される場であるということだから、それは「(通時的な)私自身」と非常に似通っている。もちろん「私」というフィールドにおいて文章というのは書かれるものだから。
ということは、上記で「日記は自分だけに宛てられている」と書いたのと同じことのようだけれども、少し違っていて、なぜなら私自身が日記帳に宛てて日記を書くわけだから、日記帳は「私」に対するものとして二重化された「私のようなもの」だ。
ところで、山本さんは日記以外の文章、すなわちエッセイや小説も複数の日記の集合したものとして捉え直していく。それによって、日記ではない、任意の文章表現を書くことも「日記帳」に宛てて書くということになりうる。
山本さんが日記の集合としてエッセイや小説を扱っているのは、滝口さんがエッセイや小説と日記では扱うことのできる時間が違う、と言っていたことと真逆のようだが、実は概ね合致する感性だなと思う。
滝口さんはエッセイ・小説に流れている時間は日記と違って長期間だと考え、山本さんは、それはエッセイ・小説が日記の積み重なりだからだという言い方をする。
ここでの言い方の違いは見ているゴールの違いであって、山本さんは日記を元にして他のジャンルを根拠づけようとしているのだった。
「日記帳」を書いていくこと、というのは行為としては単に文章を書いていくということとあまり変わらないわけだが、その結果として重層的に固定された自分の時間を育てて行き、(疎外されていない)自分自身のものとすること、およびその過程で他人の日記帳を引き受けたり自分の日記帳を他人に伝えたりすることで自分の役に立てていく、というということ自体が自分の生にとって本質的なものなのだ、というのが山本さんの主張だ。
つまり、小説というのは誰かに宛てて書かれたものであることは確かであるとして、それが誰に宛てられているのかというのはあまり明らかではないけれど、小説を日記の延長として捉えれば、それは自身の日記帳に宛てて書かれているということができるので、小説を書くということを自分の生に接続することができるし、小説を読むことも他人の日記帳を引き受けるというイメージで捉えることができる。
日記より小説の方が「誰かに宛てられている」から救いがある、という主張と逆で、日記帳に宛てて書かれる日記の延長だから小説にも意味がある、というような根拠づけがなされているわけだ、平たく言ってしまえば。
それによって、小説が誰にも届かないとしても、たとえ世界が明日滅んでしまうとしてさえ(この辺の例は『座談会9』に依っています)小説を書く意味というのを信じることができる。
とはいえ、これでハッピー!小説は書かれるべきです、とはやっぱり言えないのであって、僕たちが「小説」というときの「小説」って小説の歴史に連なっているアレであり、「日記が発展してフィクション性を帯びたもの」とは直感としてある程度の懸隔がある。
そもそも、フィクションである必要があるかどうかということもここでは検討していないし、今までの伝統は一旦うっちゃっておいて新しい、素朴な小説的なものを立ち上げるべきなのか、いやいや高度な表現である従来の小説は引き継ぐ価値があるのかとか、そういうことについても考えていきたい、ということで、
次回に続く…!
略箪笥
京都出身。日記について考えているが、日記は書いていない。どう考えても。
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