だから小説は書かれる必要がある|1月9日(木)きたのこうへい
職場の大掃除の日。年末みたいな気分。黙々とケーブルを拭き、遅めの昼休憩。まかないを食べながらスマホを開く。「火を焚くZINE」のグループチャットから大量の通知がある。なにごと。チャットを開くと、どうやら、この前この交換日記で自分が書いた日記に関する記事を滝口悠生さんが読んでくれて、Twitterで紹介してくれているらしい。そしてそれがメンバーを中心としたアカウントによって拡散されている。ようだ。この記事は、去年末に滝口さんを招いて開いた『火を焚くZINE vol.1』の感想会での、日記を書くことに関する滝口さんのお話を受けて書いたものだった。特に重要だったのは「時間を経ると自分が他者になる」という主旨のお話で、それを聞いたときに咄嗟に殴り書いた「時間=他者?」というメモを頼りに、一週間、この問いと過ごして、書いた。この文章は公開直後からいろいろな反応をもらい、書いてよかったと素朴に安堵していたのだが、滝口さんにまで読んでいただき、いよいよこの一週間とこの文章が「成仏」されたようだった。
大掃除が終わった。18時半の渋谷。今日は、滝口さんと大崎清夏さんのトークイベントが新宿の紀伊國屋書店で19時からある。松本さんがZINEのメンバーで押しかけようと声をかけていた。今行けば、間に合う。しかし今日はまだ、明日までに片づけないといけない事務仕事が大量に残っていた。イベントに行けば、そのあとは参加しているメンバーと飲みたくなるだろうし、夜は使えないと考えるのが順当。そのあと帰って寝て早起きして朝にやって間に合わせるなんて非現実的。そういう皮算用の失敗はテスト勉強でさんざ経験済み。無理だ、しょうがない。トークを諦めて、職場近くのカフェに入った。席につき、スマホを開いてモバイルオーダーの画面をスクロールする。Twitterの通知が画面上部にニョキっとくる。滝口さんが記事を紹介してくれたツイートがまた誰かによって拡散されている。あらためて滝口さんのツイートを見る。ありがたい。滝口さんは、『火を焚くZINE vol.1』の企画で本当は旅に参加してくださる予定で、でもそれは叶わず、それでもリモート吟行ということでエッセイを寄せてくれた。ZINE制作の過程でも、なかなか都合が合わず、この前の感想会でようやくメンバー一同、顔を合わせることができた。そして今日、交換日記の記事を読んでもらったタイミングで、行けば会えるという状況。これで会いに行かないって、ないだろ。仕事とか絶対どうでもいいじゃん。明日なんとかする。絶対に会って一言交わしたい。さっきまでの逡巡が入る隙はもうなかった。モバイルオーダーの画面を閉じて席を立つ。
トークイベントに遅れて参加。いちばん後ろで立ち見。
滝口さんと大崎さんによる、小説や詩をめぐる対話。滝口さんは「自分のことを書くことに興味があまりない」「友達を紹介するように、ひとのおもしろい話を聞き役で聞き、それを書くことに言葉を使いたい」と自身の執筆を語り、大崎さんは「自分のことを書かないということにどうしても欺瞞のようなものを感じてしまう」と語る。およそ正反対に見える二人の話は、でも、何事かを「書こう」とする際に内に生じる違和感の排除に妥協をしないという点で、同じ地平から発せられているように感じられた。滝口さんが「自分のこと」を書くことへの「興味のなさ」には、それをしようとしたときの「しっくりこなさ」「そうじゃなさ」が成分としてあるのではないかと勝手に想像した。そしてその違和感のようなものは、大崎さんが「自分以外のこと」を書こうとするときに感じる「欺瞞」のようなものとどのくらい近くて、遠いのか。そういうことが気になった。
トークの終盤、大崎さんが投げかけた「小説の優しさ」についての問いかけに対して、滝口さんは「なにかを言葉にすることで、絶対に希望が発生してしまう」と話した。どんなにひどい話でも、それを誰かが話して、誰かが聞き、書く。そこには絶対に希望が、救いが生じる。「聞かせる相手がいない状態が本当の絶望」。ある人のある話が誰かに話された時点で、そこにはまず救いがあり、それが書かれて読まれることにおいて、また救いが発生する。話し手から聞き手へ、書き手から読み手へと言葉がリレーされ、受け取られ、救いが連鎖する。
ひとの話を、別の誰かが聞き、書く。そこに人間が実現するもっともミニマムで本質的な「救い」があり、その方法が小説であるとするなら、おそらく日記もまたそのエッセンスを共有している。それは僕が先の記事で、「日記を書くことで他者をそこに出現させることができる」と書いたことと関わっているのだが、日記もまた、書くことでそれを誰かに「聞かせる」ことができる。
しかし、これも先日の感想会や今日のトークで滝口さんが話されていたことだが、小説は、日記と違って全体がひとまとまりの閉じたものとして提示されるから、小説内部での描写や語りには必ず「意味」が宿る。日記みたいに、「この日このときにこういうことが起きた」という「ただの出来事」の記述が存在し得ない。小説では、記述された出来事がそう書かれたことの必然性が、意味が、その全体において必ず求められ、生じる。どんなにひどい出来事も「ただのひどさ」としては存在し得ない。その出来事には、それがその作品でそう書かれたということにおいて、絶対に別の意味が宿る。出来事の意味が、必ず複数になる。それが小説の救いであるということだった。
つまり、おそらく、日記には「救いきれなさ」がある。日記はたしかに、他者を呼び寄せる。呼び寄せうる。それによって、書き手の話を受け取る存在が現れる。それは文章を書くことにおける「第一の救い」である。しかし、日記において書かれる出来事は、「ただの出来事」である。「むきだしの出来事」である。その出来事がその日記でそう書かれたのは、それが「その日に起きたから」以上でも以下でもない。その出来事に、それ以上の「意味」を付与することはできない。起きたから、書かれた。それまでなのである。その出来事が書かれた意味が単一にならざるを得ない。それが日記の限界であり、「救いきれなさ」なのではないか。
だから、小説は書かれる必要がある。日記の「その先の」救いが、小説にはある。ある出来事の意味が複数にひらかれるという「第二の救い」が、小説にはある。小説は、書かれたことを「救いきる」ことができる。滝口さんは、ずっとそういう話をしているのではないか。
この日、僕は滝口さんの『長い一日』を買い、サインをもらった。この作品は、はじめは日記的に書き始めたものを小説として離陸させたものとのことだった。それは、日記から小説へと、書くことの「救い」を完結させるためのプロセスを滝口さんが辿ったということだったのではないかと、これまた勝手に想像している。
【「火を焚くZINE vol.1」発売予定】
◆2025年1月19日(日)文学フリマ京都9 @京都市勧業館みやこめっせ1F
◆BOOTHでのオンライン販売を開始しました! 電子書籍版もあります
◆各書店でお取り扱いいただいています。