映画「プロメア」のUXはスタバのフラペチーノと同じという話
※この記事はネタバレを含みます
はじめに
先日書いた「天気の子」の感想文が、結構ネット上だけではなくリアルでもぼちぼち反応もらって嬉しかったので、今日は自分が書き留めておいた「プロメア」に関する感想文をまとめてみようかなと思います。
最初に抱いていた個人的な感想
白状すると、自分はトリガー作品について微妙なイメージを抱いていました。というのも、トリガーの代表作であるグレンラガンに自分はどうにも馴染めず途中で視聴をやめてしまったからです。
一方でもうひとつの代表作「キルラキル」はなぜかすんなりと最後まで視聴でき、自分の好きなアニメ作品の一つだったりもしています。
「この差はなんだろう…?」
というのを(もしかして自分に合わないのでは?という不安がありつつ)確かめかった、というのが「プロメア」を視聴する目的の一つでした。
「プロメア」のビジュアル面やサウンド周り、演出については世間での評価は高く、とくにアニメーションの演出面では世界的に見ても屈指の作品だと実際に見て自分も思いました。
ただし設定厨な自分のシナリオに関する個人的な感想をまとめると
こんな感じになります。
つまり映像表現はすごいけど、設定やシナリオ的にはかなりガバガバだし、ちょっと納得行かないというのが自分の感想でした。
そして自分は、あくまでもコンテンツ(映像に限らず、小説や漫画なども含む)は物語やメッセージを伝えるための「手段」であって、設定やシナリオがきちんと作り込まれていることは、ビジュアルの表現よりも重要だと信じていたので、「プロメア」については、なんとも受け入れがたい後味の悪さを視聴後に感じたのです。
ある気付きによって見方が180度変わった話
ところが先日「天気の子」の感想文を読んでくれた、僕の友人でありイケメンDJ・楽曲制作者のDustvoxxくんと作業通話で「天気の子」について語り合う機会を得たのですが、「プロメア」にも話題が移り、彼からもらった一言ですごい大きな気づきを得たのです。
「ひわいさん、プロメアって『電子ドラッグ』なんじゃないですかね。VJとかDJのイベントと同じで。」
これは全く考えもしなかった視点で、実際にDJとして活躍している彼らしい見方だなと思いました。
日本ではピュアに音楽と映像を楽しむのがメインのDJ・VJイベントですが、元来はドラッグをキメて楽しむものであり、ドラッグをキメて感度が高まっている時に最も快楽を得られる音と映像(というか光)を提供するのがクラブミュージックと映像だったと自分は認識しています。
そう考えると、自分があのとき映画館で「プロメア」をドラッグをキメて見ていたら全く違った感想を持っていたかもしれません(ドラッグがなくても、せめてガンガンにアルコールを入れて徹夜明けのアゲアゲなテンションで見るとか)
プロメアは紛れもなく、設定や物語で観客を感動させるコンテンツではなく、映像と音楽の暴力で観客を殴りつける「電子ドラッグ」そのものでした。
プロメアのUX=スタバのフラペチーノ
プロメアが電子ドラッグであるという気づきの後で、自分はブルーボトルコーヒーのUXデザインの失敗についてまとめたある記事を思い出しました。端的に言えば「スタバのフラペチーノのUXは『インスタ映え』するラーメン二郎である」というものです。
この記事を思い出して、ハッと気づいたことがありました。
糖と脂とケミカルという麻薬を提供するUXはラーメン二郎と一緒だけど、それに「インスタ映え」(と手軽さ)という要素を加えたのがスタバのフラペチーノだった。
とすれば、既存の「電子ドラッグ的映像コンテンツ」に「インスタ映え」を加えたのが「プロメア」だったのでは?ということです。
既存の「電子ドラッグ的映像コンテンツ」すなわち「光と音でぶん殴って観客の脳内麻薬を出す」コンテンツについて改めて考えてみると
・DJ・VJのクラブイベント/ライブ音楽イベント
・トリガー製TVアニメ(あと、もしかすると女児向けアニメ)
のどちらかくらいしかなかったように思うのです。
どちらも、たしかに脳内麻薬が出ることは間違いないのですが、どちらも参加には敷居が高く、ややマニアックな趣味だったように思います。
前者は陽キャのパリピ、後者は陰キャのヲタクと、主なターゲット層が両極端に分かれている印象です。SNSでシェアしても一般人には刺さりにくく「ああ、ずいぶんお好きなのね」としか思われない恐れがあるわけです。
一方でプロメアは、極端な陽キャ・陰キャだけでなく、様々なターゲット層が楽しめるし、SNSでも一切の恥じらいなくシェアできるコンテンツでした。
ざっと考えても、これだけの人たちが楽しめるように巧妙に作られていたコンテンツ作品だったように思います。
逆に言えば自分のような設定厨、ストーリーの綻びは認めない人間以外の多くの人に楽しめる「電子ドラッグ」だったのかもしれません。
例えるなら、自分はラーメン二郎やスタバのフラペチーノに「素材本来の味」を求めていたようなものなのです。そもそもそういうものを求める時点でズレていたのだ、ということに気付かされました。
コンテンツの寿命を「BBQの火起こし」に例える話
というところまで考えて、作業用BGMとして「ダ・ヴィンチ・コード」はじめ、ロバート・ラングドン教授シリーズ三作を見ていたのですが、ふと「物語」と、それを表現する「ビジュアル」との関係を考えていて「BBQの火起こしのようだな」と思ったので書き留めておきます。
というのも、ラングドン教授は聖書や古文書に書かれた「物語」と、その物語を題材とした「美術品」「建築物」をもとに謎を解いていくのですが、あくまでも長く広く人に伝わり記憶されるのが「物語」=情報であって、「美術品」「建築物」などのビジュアル的な表現物は比較的そこまで長く広く人に伝わらない&記憶されないのではないか?と思ったわけです。
例えるなら、コンテンツにおけるビジュアル的な表現物は「文化たきつけ」や「バーナー(トーチ)」のようなもので、長く燃え続けるのは木炭=「コンテンツにおける物語」ということです。あくまでも前者は一時的なもの、もしくは後者に火を点けるための「着火剤・カンフル剤」であるという考えです。
思い返してみると、古い作品でも名作として人々に広く長く記憶されているコンテンツは、ビジュアルの素晴らしさよりも物語性が大きく影響しているように感じます(もちろん例外はあると思うのですが)
その最たる例が「聖書」であり、これが木炭だとすれば、物語を広く長く燃やすための着火剤・カンフル剤=教会のステンドグラスや聖楽、美術品や建築だったのではないでしょうか。
ここで、最近ファミ通が発表した「平成のゲーム 最高の1本」のランキングを思い出します。
そもそも1~10位をすべて「物語を楽しむ」ことが主目的の一つであるRPGが占めており、プレイの爽快感を楽しむことが主目的であるFPSやレースゲーム、パズルゲームや音ゲーなどが入っていないことが「コンテンツが人々に広く長く記憶されるために必要な要素=物語」であることの証左のように感じます。
加えて、上位に食い込んでいるタイトルが必ずしもビジュアル表現が豊かな最近のゲームばかりではないことも重要なポイントだと思います。
もちろん古いゲーム=より幅広い投票者に票を入れてもらいやすい、ということもあるでしょうが、逆に言えば「よりビジュアル表現が豊かな作品が後にたくさん出てきても、それにかき消されない強烈な感動・記憶を植え付けていた」とも言えるのではないでしょうか。
だからこそ、登場が20年近く前にもかかわらず、このランキングの4位に食い込んだ「ファイナルファンタジー7のリメイク」が決まったとき、世界中のゲームファンが熱狂したのだと思うのです。
おそらく「プロメア」はそういった意味で、そこまで長く広く人々に記憶される作品にはなれないし、そもそもそういう目的で作られた作品ではない気がしています。
例えばGoogleトレンドでプロメアを調べると、公開から3ヶ月にもかかわらず勢いがかなり下がっています。ビジュアルを主体としたコンテンツは「文化たきつけ」のように一気に燃えて鎮火してしまうことがわかります。
比較として公開から18年も経つ「千と千尋の神隠し」を調べると、しばしば大きな盛り上がりを見せつつも、一定の話題を長く持っていることがわかります。まさに「火が十分について燃え続ける木炭」のような状態です。こういったコンテンツは、決して火が絶えることなく新しい世代・地域に燃え広がっていくように感じます。
まとめ ~プロメアの罪と罰~
今回の記事をまとめると
という感じです。
最後に、自分がこの作品で唯一絶対に許せないことが「マイノリティがマイノリティたる原因=アイデンティティがなくなってマジョリティーと同じになった」というラストです。
これは例えるなら「ゲイにノンケになる薬を飲ませた」とか「黒人が白人になる魔法をかけた」のと同じです。
いやもちろん仮にそうだとして、そこに徹底的に向き合った物語であればよかったのですが(たとえば「ナッティー・プロフェッサー」のように)この「プロメア」という作品に関しては、あくまでも物語や設定は「電子ドラッグたる映像や音楽」を引き立たせる「アイコン」として消費されるような設計だったし、差別やダイバーシティーについて全くもって考慮が不足しているように感じました。
いっそ電子ドラッグとしてガバガバ設定で行くなら、中途半端に社会問題を取り入れないでほしかったと思うばかりです。
一方でとても皮肉なのが「プロメア」という電子ドラッグを引き立たせる「アイコン」のうち、主人公「ガロ・ティモス」とライバル「リオ・フォーティア」の友情が、たくさんの腐女子・腐男子たちの妄想を掻き立てて、新しい「物語」を生む「燃え続ける木炭」となっていることです。
「プロメア」という、差別やダイバーシティをどちらかといえば軽んじて描いた作品から、男性同士の恋愛や、元被差別者のその後などを描いた二次創作が多く生まれているという状況はとても興味深いです。
本家の一次創作が、ビジュアル重視で(長く語り継がれることを考慮していない)コンテンツだとしても、ファンによってそれが補完されて、結果として長く語り継がれるコンテンツになりうるのかもしれません。
今回はこの辺で。またぜひお会いしましょう。