コメントに揺さぶられる。
氣読みを広めたく動き出して地味に忙しい毎日のわたし。
忙しくなるとあれもこれもと手を出したがるわたし。
ipadで絵の練習をちょっとして、氣読みをして、家事をして、息子さんの二学期の面談とか、年賀状とか…どうして忙しい時にマルチタスクに挑むのか、もはや自分でもわかりません。
そんななかチェーンナーさんのnoteが気になってしまいました。
読んでいくとこちらのお二方と何やらコメントについて勉強会を開催されるとのことで
こちらのお二方はわたしにとっては初めましての方なので
ちらっとお邪魔させていただきました。
本来ならコメントをするのが筋なのでしょうが、わたしにとってコメントは
ハードルが高いというより塔並みのレベルですのでそっと退散。
それでもコメントについて考えること数日。
わたしも昨年、コメントについて書いたことがある。
基本的にはコメントへの想いは変わっていない。
noteには書き手、読み手、聞き手と三つの役割を個々人が好きなように利用しているのだと感じる今日この頃なのですが、
コメントって聞き手さんの役割なんだと思います。
で、わたしはもっぱら書き手と読み手。
聞き手のハードルは高い。
わたしもnotoを書いているからにはコミュニケーションをとりたくないわけではない。
いや、むしろコミュニケーションをとりたくて仕方がないのだけれど
何だろう、
コメントにかける時間がわたしの場合、書く、読むよりも恐ろしくかかってしまう。
これは普段の会話でもそうなのだろうけれど、
わたしは口下手、話べた。世間話が苦手。
どうしても相手と対峙すると、相手の方の何かを余計に感じてしまうと思い込んでしまうというのか、
うまく説明できませんがガンダムのアムロのように何かを感じてしまうのです。そして意識の進みが行動よりも早いので、追い付かなくなるというのか、手が、口が追い付かなくなるんです。
ですのでエネルギーを消費するペースがこの対話においては途方もなく激しいので、どうしても自分から積極的にはなれない。
素直に思ったことを伝えればいいのだけれど…
特に中途半端な共感覚なのか、わたしは文字を読んでいると映像が浮かんでくる性質で
コメントはその飛び込んでくるものがダイレクトな気がします。
ものすごくおかしなことを書いていますが
ここはわたしの本音ということで…
早い話
コメントには本当にお人柄が出てしまいます。
だからこそ、わたしには大切にしたい聖域なのかもしれない。
とはいえ、コメントを頂くのは非常に嬉しい。
おそらくわたしのnoteにコメントくださる方はコメント上級者の方ばかりだ。
この、コメントしにくい一方的なわたしの主張や呟きを見事に拾ってくださる。
わたしは間違いなくコメントに、コメントをくださったnoterさんに救われているし、この上のない親近感を抱いている。
わたしの大切なコメンテーターさんたちですので
できればわたしだけのコメンテーターさんでいて欲しい。
少々、お勉強会のルールから外れてしまいますが、わがままをお許しください。
もしかしてわたしはコメントが欲しいし、コメントがしたいのでは??
とうっすら感じてきてしまった。
確かに、脳内ではいつも激しくコメントをしている。
わたしが好んで読んでいるnoterさんの記事は実に面白く、時に涙、時に笑いと感情の起伏に富み、臨場感がある。
まずはその脳内コメントを文字にすればいいのかもしれないのだけれど
いつも字数がオーバーしてしまう。
時々は衝動でコメントしてしまうこともあるのだけれど、
まぁ、それは勢い任せで、何かと失礼はないかと気になってしまう。
そして、コメントをすると、そのお返事にまたコメントしたくなり、
永遠とその方とお話したくなってしまう。
そう、わたしは身勝手な羊。
いろいろ勝手気ままに書いてきましたが、
コメントはいただけると、すごく嬉しい。
けれど、コメントするのは難しい。
これはわたしの日常でも同じ。
わたしにとっては
ちょっとした気持ちや、大きな感動や感謝、読みました。などなど、もろもろを含めての「スキ」がちょうどいい。
チェーンナーさん、shogoさん、雅樹(かつお)さん
勉強会、ありがとうございます。
考える良い機会になりました。
いつかは粋なコメントをしてみたいものだ。