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楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BP 書籍レビュー

 今年に入り、多くの自動車メーカーが、2030年以降の新車を全て電気自動車にすると示していた方針を撤回し始めている。数年前は、先進国が今後自動車に厳しい排ガス規制をかける方針を示し、テスラモーターの株価がトヨタを上回り、自動車業界各社は100年に1度の改革と語り、ガソリン車から電気自動車の全面シフトの方針を提示していた。しかし、自動車の発達にはインフラの発達がセットであり、電気スタンドは未だ十分ではない。この現状で、消費者が積極的に電気自動車を購入するには時期尚早な状況である。電気自動車は、モータリゼーションのメガトレンドと語られ、各社一斉に電気自動車シフトを宣言した熱は冷めつつある。

 本書は、経営学者の楠木健氏が、「逆・タイムマシン経営論」という知的鍛錬の新しい「作法」を提示し、読者が、複雑に変化していくビジネスの背後にある本質的な理論を見抜き、経営センスと対局観を体得することを目指した書籍である。高度成長期前後から2010年代まで「近過去」に遡って、その時点でどのような情報や言説がどのように受け止められ、どのような思考と行動を引き起こしたのか。具体的な事例を元に、本質を見抜く論理展開は、多くのビジネスにかかわる人々に、本質を見抜くセンスと対局観を錬成させる。

 初めに著者の楠木健氏に触れる。楠木氏は、一橋大学ビジネススクールで教鞭をとる傍ら、執筆、著名企業のアドバイザリーボードメンバーを務める、日本を代表する経営学者である。2023年には、大学で要職に就くのを嫌い、定年前に退官。現在は特任教授としての立場で、国内外の研究者、企業幹部を指導している。

 まず、本書の冒頭の文書を紹介する。

 本書の狙いは「逆・タイムマシン論」という知的鍛錬の新しい「作法」を提示することにあります。複雑に変化していくビジネスの背後にある本質的な理論を見抜き、経営センスと大局観を体得する。そこに逆・タイムマシーン経営論の目的があります。(中略)
 「タイムマシン経営」という言葉があります。「未来は偏在している」という前提で、すでに「未来」を実現している国や地域(例えばアメリカのシリコンバレー)に注目する。そこで萌芽している技術や経営手法を先取りし、それを日本に持ってくることによってアービトラージを取るという戦略です。実践者としてはソフトバンクグループ孫正義会長が有名です。(中略)
 逆・タイムマシン経営論はこの逆です。タイムマシン経営の論理を反転させることによってはじめて見えてくる視点や知見がある。これが逆・タイムマシン経営論の発想です。
 私たちは毎日膨大な情報を目にします。(中略)テクノロジーでいえば「AI(人工知能)」、経営戦略でいえば「DX(デジタルトランスフォーメーション」、ビジネスモデルでいえば「サブスクリプション」、いつの時代もこうしたバズワード(流行り言葉)飛び交います。(中略)
 旬の言説には必ずと言っていいほどその時代のステレオタイプ的なものの見方に侵されています。情報の受け手の思考や判断にもバイアスがかかり、現実の仕事においてしばしば意思決定を狂わせる。本書の関心は「同時代性の罠」にあります。
 どうすれば同時代性の罠から抜けられるのか。(中略)高度成長期前後から2010年代までの「近過去」に遡って、当時のメディアの言説を振り返ると、さまざまな再発見があります。同時代のノイズがきれいさっぱり洗い流されて、本質的な論理が姿を現します。
 要するに、「新聞・雑誌は寝かせて読め」。(中略)実はこれが格好の経営知の教材になります。(中略)誰かが考察をした歴史書ではなく、「史料」に直接当たるのが逆タイムマシン経営論のスタイルです。近過去であれば、メディアの記事がそのまま「一次史料」になります。(中略)
 近過去に遡り、その時点でどのような情報や言説がどのように受け止められ、どのような思考と行動を引き起こしたのか。近過去を振り返って吟味すれば、本質を見抜くセンスと大局観が錬成され、自らの仕事にも大いに役立ちます。すなわち「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、ここに逆・タイムマシン経営論の眼目があります。

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより

 そして、その典型を紹介する。

 同時代性の罠の典型例に「400万台クラブ」があります。前世紀末の自動車業界で巻き起こったバズワードです。(中略)フルラインナップをそろえ、増大する研究費を負担するためには、このくらいの規模が必要だという言説が広まり、「年間400万台生産しない自動車メーカーは淘汰される」という「法則」が喧伝されました。(中略)同時の日経ビジネスは「400万台クラブ」をめぐる熱狂を特集記事で伝えています。

 いつ何が起きるかわからないという意味で自動車産業は今、火山の中にいるようなものだ。世界的な自動車再編が勃発したのは、自動車が過剰供給になっているからだ。しかも、電気自動車など新技術の開発に莫大な投資が必要になっている。そして、国と国の壁が取り払われ、市場が1つに統合された。こういった事態が一斉に起きたため、生き残りを賭けた戦いが始まった。(日経ビジネス1999年4月19日号)
 
 (中略)多くの自動車メーカーが生き残りをかけて「400万台クラブ」入りを目指します。しかし、それは幻想でした。象徴とされたダイムラークライスラーは2007年に解体されます。(中略)リーマンショックを経た2009年にクライスラーは破産法の適応を受けています。GMも同時に破綻し、富士重工業、いすゞ、スズキと結んでいた提携をすべて解消しました。(中略)熱狂から20年後の現在、「400万台クラブ」はすっかり死語と化しています。(中略)それもこれも、ダイムラークライスラーの合併時に指標となった生産台数がたまたま400万台だったからで、もともとこの数字にまともな論理的根拠はありませんでした。(中略)言うまでもなく「規模の経済」は当時も今も自動車産業の根幹を支える論理の一つです。しかし、その他にもいくつかある論理のうちの一つに過ぎません。(中略)
 それ以上に見逃せないのは、「400万台クラブ」は因果関係の理解において錯乱しているということです。(中略)競争力のある商品を開発し、それを効率的に作って売ることができてはじめて台数が伸び、その結果として規模の経済を享受できる。これが事の順番です。M&Aによって一足飛びに台数の合算値が大きくなったとしても、それは競争力を保証しません。

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより

 次に、逆・タイムマシン経営論の効用を述べる

 投資家ウォーレン・バフェットの数々の名言の一つに「潮が引いた後でだれが裸で泳いでいたかが分かる」というのがありますが、まさにその通りです。
 本質を見極める。一言で言えば、ここに逆・タイムマシーン経営論の効用があります。(中略)本質とは何でしょうか。「物事の根底にある性質」「そのものの本来の姿」を指す言葉ですが、本質の一義的な特徴は「そう簡単に変わらない」ということにあります。だとしたら、変わらない本質をつかむにはどうしたらいいでしょうか。もっとも有効な方法は歴史的変化を遡ることです。(中略)
 多種多様な技術が生まれ、市場環境は変化を重ねてきました。日本経済を牽引する業界も、繊維から鉄鋼、自動車、半導体、そして現在のソフトなサービス業へと変遷していきます。しかし、歴史の流れに目を凝らすと、多くの物事が変化していく中にも変わらないものが見えてきます。(中略)変化を振り返ることによってはじめて不変の本質が浮き彫りになる。逆・タイムマシーン経営論はこの逆説に注目します。(中略)逆・タイムマシーン経営論の本領は「パストフルネス」(past = 過去)にあります。
 未来予測はどうやっても不確かですが、過去は既に確定した事実です。過去の事実は膨大に蓄積されています。歴史はそれ自体「ファクトフル」なものです。しかも、そこには時間的な奥行きがあります。何がどうしてそうなったのか、個別のファクトだけでは得られない因果関係についての理論を知ることができます。
 加えて、歴史的事実には統計データにはない強みがあります。それは一つひとつのファクトが豊かな文脈を持っているということです。特定のファクトが生起した背景や情況といった文脈を理解し、それを自分のビジネスの文脈と相対化し、ファクトを自らの文脈に位置づけて考える。本書で繰り返し強調する「文脈思考」はファクトから自分の仕事に役立てる実践知を引き出す上で決定的に重要です。さらに言えば、あらゆるビジネスパーソンにとって「パストフルネス」は差別化の武器として大いに有用です。(中略)
 人々の情報需要もスマートフォンという限られた画面が中心です。その結果、キャッチーで刺激的なワンフレーズで物事が語られる傾向がますます強くなっています。裏を返せば、これは情報のコモディティ化に他なりません。単に情報や知識を持っているだけでは「その他大勢」に埋没していまします。スマホ時代にあって、膨大な断片的情報から本質を引き出すセンスを持つ人はいよいよ希少です。(中略)
 「われわれが歴史から学ぶべきなのは、人々が歴史から学ばないという事実だ」これもまたウォーレン・バフェットの名言です。言い得て妙です。だからこそ近過去の歴史に学ぶ経営知は、強力な差別化の武器になり得るのです。

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより

 そして、逆・タイムマシン経営論から見えてくる同時代性の罠について

 われわれはさまざまな同時代性の罠を3つのタイプに分類しています。(中略)
 第一のタイプが「飛び道具トラップ」です。先ほどの「400万台クラブ」もそうですが、AIやIoT、ブロックチェーンといったそのときどきで目を惹くテクノロジー、DXなどの流行の経営トレンド、「オープンイノベーション」や「サブスクリプション」「プラットフォーマー」といった注目のビジネスモデル ー 同時代の人々は「これからはこれだ!」という飛び道具めいた言説に飛びつきがちです。(中略)毎度きらびやかな成功事例が宣伝されるのですが、同時代の人々は、成功事例に埋め込まれた文脈を無視して、対象を万能の飛び道具であるかのうように課題評価しがちです。
 第2が「激動期トラップ」です。同時代の人々は時代の変化を過剰に捉え、「今こそ激動期!」という思い込みにとらわれます。(中略)
 3つ目のタイプが「遠近歪曲トラップ」です。すなわち「遠いものほど良く見え、時間的、空間的に遠い事象を過剰に美化するトラップが生まれます。」(中略)遠近歪曲トラップに嵌ると、実効性のあるビジョンや戦略が出てこないばかりか、現状をかえって悪化させるような間違った意思決定に走りがちです。

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより

 そして、逆・タイムマシン経営論の意図について

 逆・タイムマシン経営論が意図するのは、「情報収集」や「スキル開発」のための技法やフレームワークの提供ではありません。本書が提示するのは、情報とつき合う際の「思考の型」であり、正しい状況認識と意思決定の「センス」、引いては自らの価値基準となる「教養」を錬成するための「知的作法」です。忙しい毎日に追われて近視眼的な思考に流れがちなビジネスパーソンが長期視点を取り戻すうえで、逆・タイムマシン経営論は最も有効な方法論であると確信しています。

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより

  本書は、「飛び道具トラップ」、「激動期トラップ」、「遠近歪曲トラップ」について、近過去(高度成長期前後から2010年代まで)の新聞、経済紙から、経営の文脈無視で、同時代性の罠に陥り、失敗に終わった多くの実例を丹念に紐解いている。その分析を通し、「思考の型」、「センス」、「教養」を錬成するための「知的作法」を学ぶことが出来る良書である。ビジネスを行っている人だけに限らず、自らが新しい何かを切り開こうとしている全ての人々に一読をお勧めする。

 おわりに寄せた楠木氏の文章を最後に紹介する。

 日々われわれが情報源として触れている新聞や雑誌やウェブサイトは「ファストメディア」です。人々は瞬間的に目に入った記事をざっと見て、すぐに次の記事へと目を移します。最新の情報や断片的な知識であればいくらでも手に入ります。しかし、そこには肝心の論理はありません。「いつ」「だれが」「どこで」「何を」「どのように」は知ることが出来ても、なかなか「なぜ」に注意関心が向かないのです
 次から次へと記事を流し読みするだけでは、論理をつかみ取れません。情報のデジタル化はそのままメディアの「ファスト化」でもあります。皮肉なことに、情報を入手するコストが低下し、そのスピードが増すほど、本質的な論理の獲得は難しくなります。即効性を競うファストメディアとは一線を画し、読み手に完全な集中を求める「スローメディア」と向き合う必要があります。
 スローメディアの主役は本です。著者の独自の視点で事象をつかみ、その切り口の上に本質的な考察と洞察を展開する良書を読む。昔も今もこれからも、読書が知的鍛錬の王道であることは間違いありません。(中略)
 歴史はそれ自体「ファクトフル」なものです。しかも、記事や情報のアーカイブは山のように蓄積されています。幸いにして、アーカイブへのアクセスも容易になりました。私たちはかってないほど「パストフル」な時代に生きています。今や逆・タイムマシンは誰もが使える知的鍛錬の乗り物です。近年の情報技術の発達のおかげで、逆・タイムマシンの性能はかつてないほど強力になっています。われわれが逆・タイムマシン経営論を提唱する所以です。 

楠木健「逆・タイムマシン経営論」日経BPより


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