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自分の感情の波に押し流される時

気持ちにゆとりがなくて、
できないことにばかり目が留まることがある。


いつもならそういうときでも、
「今日はそういう日だったんだ。明日リベンジしよう。」
と前向きに捉えられる。


でも、どうしてもそれができないとき
自分の力ではもうどうしようもできない。


やらなければいけないことはこれだけあって、
やろうと思えばできるはずだった。
なのにできなかった。


そんなことをずっとぐるぐる考えてしまう。


なんなら、
過去の嫌な記憶まで引っ張り出してきて、
ネガティブに浸ってしまう始末。


色んな思いが交錯し、
よくない思いに飲み込まれ、
狂いそうな気持ちになり、
自分を失いそうになる。


そんなときに私に語られた御言葉がこちら。


これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。
(略)
放っておきなさい。
(略)
おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。
そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。

新改訳聖書2017  第二サムエル記16章10〜12節

聖書は文脈も大切だけど、
「ことば」をもって語りかけてくれることがある。
今回がまさにそうだ。


私を嫌な気持ちにして、ネガティブにさせるのは
「人」だけではない。
過去の記憶や、思考もそう。


私は私をネガティブにする全てのもの・こと・人・状況・思考とは
全く関わる必要がない。
これを放っておくことができる。
(第二サム16:10,11)


とはいっても、嫌な思いがねっとりとわたしの思考にまとわりつく時、
好きな賛美を口ずさんだ。


そうしたら不思議だけど、
涙が込み上げてきた。


私はこれを、聖霊の働きだと信じている。


神様は私たちを喜びとしてくださっていて、
私たちを祝福したくてたまらないはず。

その根拠は詩篇にある。

神は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者 神を求める者がいるかどうかと

新改訳聖書2017 詩篇53篇2節


それなら、なぜネガティブに捉われてしまうのだろう?
それは、神からくるものではないものを
わざわざ自らキャッチしてしまっているからだ。


神からくるのは、
恵み・平安・喜び・楽しみ。


憎しみ・憤り・不安や疑いは、全て悪からくるもの。


これに負けそうなとき、
私は弱い。


でも神は、私が弱い時に現れてくださる。

私が弱い時にこそ、私は主によって強くあれるから。

しかし主は、
「わたしの恵みはあなたがたに十分である。
わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

(略)

私が弱いときにこそ、私は強いからです。

新改訳聖書 第二コリント12章9〜10節


神様は私たちに完璧であることを求めてない。
神様に寄り頼むことを求めている。
私自身は弱いけど、それでいいということ。
強さは主が補ってくれるから。


でもだからと言って、
ネガティブな感情に振り回されてばかりの状況はいただけない。


そんなときの私の武器が、
賛美だったようだ。


主を賛美することで
私の心は癒され、
主の愛に満たされて
ネガティブに打ち勝つことができた。


きっとこれからも私の頭の中で、
ネガティブな思考が氾濫を起こすことが絶対にある。

でもその度に、
賛美をもって打ち勝っていきたい。

そして、日々の喜び・楽しみをキャッチして
目を向けていきたい。


今読んでいる本の中で、
「自分の頭の中を、悪魔の遊び場にしてはいけない」
との言葉がある。

ネガティブが思考を支配している状況は、
まさに、
私の頭の中が悪魔の遊び場になっているということ。


私は主からくるもの以外の全てを、
主イエスの御名によって断ち切り、
賛美をもって勝利をおさめていく。


私と同じように、自分の感情にしばられて苦しい人が
主のことばによって癒され、強められますように。


主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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