曖昧な記憶を泳ぐ、燃やす。(無人島にカルピスソーダはあったのか?)
えー、曖昧な記憶の中を生きています。
これは人間みんなそうなんじゃない?という意味での曖昧さです。程度の差こそあれ、誰しもが非常に曖昧な記憶を抱えながら、そしてそれを書き換えながら生きているよねという。
ただ私は最近かなり真剣に明晰夢のトレーニングをしていて、余計に現実と夢との区別がつきにくくなってきた。明晰夢や金縛り、幽体離脱・・・についてはまた明日じっくり考えてみたいなと思っている次第。
【思い出ぽろぽろ】
さて、私はかなりの時間をつかって思い出を振り返ります。思い出にどっぷりつかって生きています。
ちょこちょこメモしながら暮らしているし、日記も10年以上つけているし、暇があればベランダでボーッとしながらいろんなことを思い返す。
それでも記憶はいつだって曖昧です。まあもちろん、そうやることできっちり覚えていられる人もいるようだが、私の脳みそがちょっと弱いのかな。それでも、一般的に、みんな曖昧だよね?味方だよね?
比較的覚えていやすいのは感情と結びついた記憶かと思います。
「びっくりした」「悲しかった」「ちびるほど笑った」「初めての気持ちだった」
あの、インサイドヘッドでいうところの玉ちゃんに色がつく感じ。色は覚えている。むしろ色で覚えている。
一方で実際の出来事はどんどん忘れていきます。
基本的には細部から忘れていくようだけれど、意外とそうでもなかったりもするよね?
「誰といたかは忘れたけど、あそこの焼き鳥屋で〇〇についてめっちゃ話したんだよな〜んであそこの梅サワーがめっちゃ美味しくってさ」
些細なことばかりが残っていて、大切な記憶がポーンと抜けてたりする。こりゃ大変だ、一緒にいた人間違えたりする。海馬もっと頑張れよ!
また、脳と記憶のメカニズムを勉強したところで無駄ではあるまいか。
新しい知識を覚えるのにはいろいろと応用できるが(人の名前覚えるときとか、勉強するときは便利だね!)それでも「思い出」という記憶のまとまりは、どうも私の脳には正確に記憶されないらしい。こまったもんだ。
【そこにカルピスソーダはあったのか】
ひとつ、思い出話をします。
中学1年生のとき、友達と一緒に沖縄の無人島で4日間を過ごした。
安室島という地図にも乗っていないような小さな無人島。今でもその名前でちゃんと存在してるのかしら。
そこで見た星空が、ちょっと忘れられないほど綺麗だった。
最初の方はテントの中で3人窮屈に寝ていたが、何日か経つと、私たちは浜辺でそのまま眠るようになった。
並んで横になりながら見た星空は、私がこれまで見たどんな星空ともかけ離れていた。無人島だからもちろん地上に明かりなんてない。ゾッとするほどの量の星の光が夜空を覆っていて、私は人生で初めて天の川というものを見た。いや、あれほんとにすごいよね、想像以上にちゃんと川だよね。あまりの星空に「怖い」と思ったのもこのときだけかもしれない。怖いけれど、永遠に見ていたい。
しかし困ったことに、私は異常に眠かった。異常に。
無人島での暮らしに体力が奪われていたし、圧倒的な暗闇と波の音、すべてに心を許しながら友達と寝転ぶ波打ち際、ひんやりとした砂のなかに今にも沈んでいきそうな心地がしていた。
起きていたいから話をしようとするんだけど、眠すぎて何もわからない。かろうじて「・・・ぅん」とか「・・・ね」とか呟いてみるだけ。
もっとこの美しい星空を見ていたいのに、まぶたが閉じてきて、あぁ、悔しい・・・
しかしそのとき私は猛烈に思っていた。
「カルピスソーダが飲みたい」と。
今だったらオリオンビールになるんでしょうか、わからない。
ただあの瞬間、異様にカルピスソーダが飲みたかった。人生であれほどカルピスソーダを欲したことはない。カルピスソーダをくれえええ!!
だから私は飲んだ。
朦朧とする意識の中で私はカルピスソーダの缶を開け、それはシュワシュワと音を立てながら私の喉をつたう。
もちろんめちゃめちゃ美味かった。最高!!!カルピスソーダ最高!!
そこで記憶は途切れる。zzZ
さて、私はそれから何年もの間、この沖縄の無人島で飲んだカルピスソーダの味を大切にしながらに生きていきます。今でも夜にカルピスソーダを飲むと、あの星空のことを思い出します。
「あ〜あのとき飲んだカルピスソーダの味、忘れられないよな〜」って。
しかしある時気づく。
そこにカルピスソーダはあったのか?
もちろん食料はちゃんと持ってきていたけれど、そこにカルピスソーダがあったとは考えづらい。重いし贅沢です。ただの飲料水をできるだけたくさん持ってきていたはず。
また、浜辺を歩いてカルピスソーダを取りに行った記憶なんてない。疲れでだるい身体で、落ちてくるまぶたと必死に戦ってたんだから。
でも私の記憶の中にはあのカルピスソーダの味がきちんと刻まれているし、缶を開けた時の音や、缶を持つ右手の砂混じりの感触だってちゃんと覚えている。夢にしてはあまりにリアルすぎる。
だから私は本当にそこにカルピスソーダがあったのかと問われると、未だにわからないのです。冷静に考えるとなかったかもしれないけれど、確かに飲んだ。うん、あったよなぁやっぱり。
【毎秒ごとに書き換えていく思い出、燃料としての記憶】
わりとどうでもいい話をタラタラとしてしまったな。
まあ衝撃だったということです、あんな大事にしていた思い出なのに自分の記憶が全く曖昧で。実はこういうことばかりです。信じていた記憶なのに、冷静に考えるとちょっとおかしい。あるよね?
えー本題。
私たちは毎瞬間、記憶の中を泳いでいます。
私たちが「現在」と認知するものは、認知した瞬間にもうすでに過去になっています。いつだって、ちょっとずつの過去を生きています。
もっと言えば、私たちの思考は過去現在未来を自由に泳ぎ回ります。
時間の進み方は一定ではないし、数直線的ではない時間の中をぐるぐると。
(もう本当にさ、時間を→→→的に考えるの無理ないか?とよく思う。「実は今日が明日で、明日が昨日だったんですよ」などと言われても私は「そんなはずはない!」と断言することはできない、そんなことだってあるかもしれない)
時間の流れも曖昧、人の認知も曖昧なものなので、記憶というのはさらに曖昧です。
私たちは日々、いろんなものをいろんなように認知し、いろんなように記憶し、いろんなように書き換えていく。
同じ時間の中で、同じものを見て、同じものを聞いていても、人はそれぞれに異なった思い出の中を泳いでいくのだ。
悲しいですか、それとも愛おしいですか。
いや、そもそも同じものを見ていましたか?それは確かですか?確かにあなたはそこにいましたか?
あーもうわからないです。わからなくってもいいです。
なぜなら私たちはそれを燃やし続けることで生きているのだろう、と思うからです。燃料としての記憶を。
忘れ続けながら、選びながら、書き換えながら、燃やす、燃やす。
思い出の正しさ以上に、その思い出の温もりが人生を温めてくれているというのはどうやら確からしい。
ひとつひとつ思い返してやることのできない、正しいかも定かでない、それでも大切であり続ける曖昧な記憶の集積が、もうだめだと言いそうになった孤独な夜の心を灯してくれていたように思う。
そんな夜が幾度もあったはずだ。
そんなことも忘れていくのだけど。
あぁ、どうせ忘れていくであろう「たかが」の日常をそれでも真剣に生きようとするのは、きっとその「たかが」の記憶の集積やその温かさが、いつかの私を助けるからなんだな。といつからか思うようになった。
だからさ、と私は思う。
もう海馬も大脳皮質もなんやかんやも頑張んなくていいよ。曖昧な記憶であったって、それを大事にしてたっていいよ。今のところはそう言ってあげようと思う。
私はこれからもあのカルピスソーダの味を何度も思い返しながら幸せな夜を過ごす。
私の記憶は曖昧でしか有り得ないが、それでいいや、いつも温かければ。
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