おじさんでもママでもなく、ポケモンマスターに俺はなる!ということでもない話
角突き牛のことは、「おじ」と呼ぶ。
というのが、伝統的な角突きの文化の中にある。
私の暮らす魚沼地方では「おじさん」のことではなく「弟」のことで、アクセントは「お」にあり、聞いてみたことはないけれど山古志でもそんな感じだろうと思う。〇〇さんのおじ、というと〇〇さんの弟のこととなるし、△△さんちのおじ、というと△△さんの息子のうち次男三男・・・を指す、みたいな住む人暮らす人の感覚に頼る独特のニュアンスもあったりする言葉。
元々の角突き牛は農耕に用いられていた短角牛で、家の土間の横みたいなところに牛が暮らすスペースがあったのだから、実際に家族と共に暮らしていたわけだ。そう思えば、家族のなかで「弟」という位置づけにあったというのも理解しやすくないだろうか。
この「おじ」の使い方もまた少し独特で、
「おーい、おじー!」
というふうに呼んだりはしない。これは「弟」だと思えば確かにそうだ。
では誰か他人に対して「うちのおじは・・・」と主語のように使うのかというと、それも聞いたことはない。牛持ち同士が「俺のおじは・・・」「いやおらち(俺のうち)のおじは・・・」と討論しているというのに出くわしたこととかはない。昔はあったのかな。
じゃあどうかというと、自分と牛の間での声かけに使われているのだ。年配の牛持ちが「・・・なあ、おじ?」なんてにこにこしながら話しかけたりしている。なごむ!
また角突きのときに注意してみると、勢子が勢をかけるときに、
「そらいけ!おじ!!」
と言っていたりもする。弟に「そらいけ弟」とはいわないのだけれど、この辺が絶妙で微妙な角突き界(めっちゃミクロな世界)独特のニュアンスかなと思う。
私は飛将のことを「おじ」といったことはなく、名前で呼んでいる。私には弟が実際にいるので、そこに若干の違和感があるのと、私と飛将の関係性(あくまでも私が感じているものだが)にはそぐわないような気がするから、主に名前で呼んでいる。
近年増えている女性の牛持ち、私もそのひとりなわけだけれど。牛に対して自分のことを「ママ」としている人もいる。また私のことを「ほら、飛将、ママだよ」みたいにナチュラルに使用してくる人もいる。犬を飼っているひとたちがよくパパ・ママといっているような気がするので、その感じなのかなと思う。私は牛を産んだ覚えはありません、とまでいうつもりはない。ないがさすがにちょっと飛将のママってことはないよなあと思うし、飛将も息子のつもりはさらさらないと思う。知らんけど。
じゃあどういったご関係で?となると、なんとなくしっくりくると思ったのが「サトシとピカチュウ」みたいな関係だ。
といって私はポケモンをよく知らないので恐縮だが、聞くところによれば、サトシがなぜピカチュウらを闘わせているかというと、ポケモンマスターになるためで、ピカチュウらもサトシから強いられているわけではなく、そらいけといわれれば目の前の相手と戦って、勝つやら負けるやらして、その結果サトシはレベル的なものが上がりポケモンマスターへと成長していく、みたいなことのようである。
私がなぜ牛を持ってまで角突きをしているかというと、何者かになるためではないが、アイデンティティを得ることになってはいるだろう。飛将をはじめ角突き牛たちも、ピカチュウらと同様に無理やりさせられているのではなく、あの赤い球を投げると同じく角突き場に放たれ本能で闘うのだ。レベルも上がらないし、何か儲かるわけでもなく、牛持ちの指示通りに活躍するわけでもない、そこに残るのは自己満足と角突き界でのごくごく小さな名声でしかない。
主従関係というのも違う。飛将がいるから、私という牛持ちがいる。ので、どちらかといえば飛将が主といったほうがしっくりくる。決して思い通りにはいかないが、飛将のためにできることは全てやる。こう決めているので、下僕は私だ。
こんなふうに考えてみると、「牛持ち」という言葉は角突きにおける牛に対する人間の立ち位置を端的に表現できていると思う。牛の主人ではなく、ただ牛を持つ人間。でもきっと、サトシとピカチュウのような信頼関係は築けるはずだと、私は信じている。