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Every dog has his day.⑳

  第20話、
 栃木市中心部を南北に貫く日光例幣使街道沿いには黒漆喰を塗りこめた見世蔵、白壁の土蔵など重厚な建造物が立ち並び、蔵の街の由来になっている。江戸時代末期、大火が相次ぎ、当時の年寄りの肝いりで耐火性に優れた蔵造りが普及し、現在にその姿を伝える。その街道の西側に並行して巴波川が流れ、しっとりと落ち着いた情緒に一層の趣を与える。
 江戸初期、日光東照宮の造営を機に巴波川を利用した舟運が盛んになり、栃木市は物資の集散地として栄えた。特に肥料商、麻問屋、荒物問屋などが軒を並べ、全国各地を販路に蔵の街の経済を支えた。
 蔵の街の入り組んだ路地を探索するには自転車が都合いい。江上はペダルを漕いで、旧家を訪ねては情報収集に当たっている。
 爽やかな秋晴れに雲一つなく、例幣使街道を観光客らしい中年グループらが散策を楽しんでいる。
 黒板塀が長く続き、塀越しに数棟の瓦葺の屋根の連なりが見える。通りに面した見世蔵の藍染の暖簾には栃丸醤油と染め抜きされていた。江戸初期の創業とされ、県内でも指折りの歴史を持つ醸造所として知られる。
 江上は店員の女性に名刺を渡し、当主との面会を申し入れた。
「こんにちわ。ご活躍のようですね。鐘馗図と相撲図の展示会には行きました。歌麿の素晴らしい作品がまた見つかって、喜ばしい限りです」
 当主の石丸庄兵衛は小太りの体に法被を羽織り、肉付きのいい両頬に大きな耳が福々しい。年の頃は80近くか。
「歌麿展を見て頂いて有難うございました。いかがでしたか、展示内容は。急ごしらえで至らない点が多々あったとは思うんですが」
 両図発見後、初の特別展が1週間、市内の文化施設で開かれた。江上らの研究会が企画運営し、両図をはじめ、栃木市と歌麿に関わるこれまでの調査結果、各種文献資料などを展示。市民ら3000人以上が訪れ、研究会の制作した初の報告集「とちぎの歌麿を追う」も飛ぶように売れ、増刷するほどだった。
「歌麿との関りを市民にも分かりやすく紹介されていたと思います。大変勉強になりました。特に雪のコーナーは興味深かったですね。よく調べられていると感心しました」
 次の最大のターゲットは雪だ。雪を紹介するコーナーを特設し、市内で見つけたモノクロ写真の拡大パネル、最後の展示とされる昭和23(1948)年、銀座松坂屋での展示目録、文献資料を広く公開した。
「まだまだ調査途中で、不十分なのはお恥ずかしい限りです。でも、研究会は調査内容をできるだけ早く公にし、広く知ってもらうことで、市民から貴重な情報を頂き、新たな発掘につなげたいと思っています」
「そうですか。歌麿は新たな栃木市の魅力になるでしょうし、それに本当、雪が見つかればよろしんいんでしょうが」
 当主の石丸は意味ありげに口を閉じた。
「そうなんです、雪の所在なんです。栃木市内に里帰りしているとの噂もありますし、どうにかその糸口を見つけようと、地元関係者、研究者、浮世絵商などから情報を集めているんです」
「里帰りの話でしょう。何かいい情報はありましたか」
「例の渡辺さんの本が発信源のようですが、裏付けが取れなくて。あの本が出版されて以来、もう20年も経過してますし。それで今回、こちらに伺った次第で」
「それはどういうことでしょう」
「御存知とは思いますが、里帰り説で噂されているのが市内の名家として知られる猪野瀬さんでして。猪野瀬さん宅とこちらが同じ老舗の醤油醸造業で、何か、雪に関する情報を聞き及んでいないかと考えまして」
 石丸は細い目をつぶり、少し間を置いてから眉間に皺を寄せ、両眼を開いた。
「参考になるかどうかは分からないんですが」
「何か、知っているんですか」
「実はですね」
 石丸は大きく息を吐くと、淡々と事情を話し始めた。
 
 20年前に話は遡る。
 栃木市中心部、栃木県醤油工業協同組合南部支社の会議室には加盟組合員約10人が集まり定期会合が開かれていた。南部支社には西は足利から東は真岡までの醤油醸造所17が加盟し、年四回、定期的に集まり、原材料資材の安定的な確保、消費者ニーズへの対応、消費拡大のための事業などが協議されていた。
 理事長は巴波醤油の猪野瀬。群を抜いた醸造量、売り上げを誇り、テレビ、ラジオで自社商品を盛んにPRし知名度も高い。名実ともに県内醸造所の雄で、戦後の組合設立以来、理事長職を務めている。
 この日の協議事項も一段落し、組合員が湯茶に手を伸ばし、場の雰囲気が和み始めた時だった。
「栃木では今、浮世絵師、歌麿の絵が話題になっていてね」
 猪野瀬の低い声が響いた。前触れもなく、組合とは無関係な話題を切り出され、会員らは何事かと周囲の人と顔を見合わせた。
 折しも渡辺の著書が出版され、新聞各紙で雪の話題が取り上げられ、猪野瀬所蔵説が巻き起こっている最中だった。
 猪野瀬は回転椅子を窓に向け、独り言のように続けた。
「江戸時代、栃木で描いた大作で雪月花という3つの肉筆画なんだが、月と花はアメリカに行ってしまったが……」
 猪野瀬は逡巡するように口元を引き締め、宙を仰いだ。
(これは、もしかすると)
 出席していた石丸は猪野瀬が再度、口を開くのを待った。
 石丸は既に懇意の郷土史家から、渡辺の猪野瀬所蔵説を茶飲み話で仕入れ、その著書にも目を通していた。
 会議室は静まり、出席者の注目を待っていたかのように、猪野瀬は回転椅子を正面に向けた。
「残るもう1つの雪も1度は外国に出たんだが、日本に戻ってきて、実は私の家で所蔵しているんだ」
 そう言い終えると、猪野瀬は事務局に目配せし、会合を終了させた。猪野瀬は席を立ち、理事長室に戻った。
「そういや、戦後まもなく、その雪とやらを見た気がするんだが」
 栃木市の組合員の一人、古老の磯部が口を挟んだ。会議室には組合員数人が残り、雪の話で盛り上がった。
「それはどんな絵で?」
「でかい絵だったなあ。雪景色の芸者屋だか料亭に、芸者らしき女が何人も描かれていたような気がする」
「猪野瀬さん宅で見たんですか」
「いや違うな。はてと、どこだったか」
「醬油工場の方ですか」
「よく覚えてねえ。たまたま見かけたんだ、街中だった気がするが……。とにかく当時は食うのに必死の毎日で、絵なんか興味もなかったしな」
                      第21話に続く。
第21話:Every dog has his day.㉑|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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