佐野乾山発掘記⑫
第12話、
「そうですか、取材を拒否されましたか。どんな事情があるにせよ、研究者として好ましいことではありませんね」
先日の乾山研究者の記者対応に、元美術館長の伊藤は穏やかな口調で疑問を投げかけた。
「県内で佐野乾山を研究している学芸員はいますか」
「残念ながら乾山を語れる専門家は栃木県内にいないでしょう、私の知る限り。専門書の著者を丹念に調べ、取材協力者を見つけるしかないようですね」
「でも、都内の美術館で開催中の乾山展でも佐野乾山はほぼ無視されている状況なんです」
「やはり、あの事件の後遺症なんでしょうかね」
伊藤は唇を噛み、視線を落とした。同じ研究者としてやりきれないようだ。
3日前、江上は篠崎源三の連絡先を聞こうと、佐野の郷土史家、角田に電話を入れた。その際、戦前、篠崎が探し出した乾山作品の盗難の噂を尋ねると、角田は伊藤の名を挙げた。旧知の中で、以前、伊藤がその乾山作品の展示に関わったことを耳にしていた。
「この図録にある通り、昭和47年、ですからもう40年余前に私の勤めていた美術館で、一之沢家の乾山作品を並べました」
図録には篠崎が戦前、一之沢家で確認した「鮑貝形松桜菓子皿」「丸形夏山水画菓子皿」「梅蘭水仙絵火入」が写真入りで紹介されていた。解説には、
ーー元文2年、下野佐野の茶の友、須藤杜川、大川道顕らに迎えられて、佐野に遊び、「陶法伝書」を記し……世にこれらを佐野乾山と称す
と、書き添えられている。
展示は真贋論争事件の10年後で、一之沢家の所蔵品は佐野乾山の本物とみなされていた。
「それで、これらが盗難に遭ったと……」
「そうでした、当時の新聞をお探しでしたね」
伊藤は手元のファイルから新聞のコピーを取り出した。
衝撃の見出しが江上の目に飛び込む。
ーー″佐野乾山〟など盗まる 国宝級含む30点 美術マニアの犯行か
「やはり盗まれてしまったんですね」
「一度展示した経緯もありましたから、この時は本当に驚きました」
掲載日は30年前、昭和60(1985)年10月8日、地元紙は一面トップで伝えていた。
記事によると、一之沢家の当主が前日の7日、蔵に入り、荒らされているのに気付いた。犯人はその年の5月下旬から10月までの間に入口のカギを壊し侵入、多数の収蔵品の中から乾山作品など貴重な美術品ばかりを選んで盗んだ。総被害額は一億円を超えるとしている。
ーー盗まれた乾山作の「色絵松桜図鮑皿」や「色絵三友図火入れ」は、伝承や乾山が残した記録帳をもとに佐野乾山の実在が実証された最も確かで由緒正しい作品で、国宝級もさることながら美術品や研究者にとってはなくてはならない史料価値の高いものだ
地元の文化財保護審議委員の談話で、記事はしめられていた。
「ところで、佐野乾山についてはどうお考えですか」
「私の専門は仏像、彫刻なので、専門外の乾山についてコメントできる立場にありません。専門とする研究者が責任をもって検証しなくてはならないでしょう」
伊藤はその新聞や図録のコピーなどを江上に提供した。
「研究者のリストも入っています。心ある研究者は必ずいるんです。江上さんの熱意があればきっと出会えるはずです」
八方ふさがりの状況だ。一歩進んで、一歩後退している感じだ。タブーの祟りだろうか。落胆する我が身が恨めしい。
探し求める乾山専門家の当てはない。真贋論争に言及した大学教授にはあっさり取材拒否された。都内で開かれている乾山展では佐野乾山の展示が除外されている。腫れ物には触らずの対応で、監修する研究者も多くは語りたくないのだろう。
元美術館長の伊藤に取材する前、江上は県内でも名の知れた美術史家に佐野伝書の写本の件で打診したが、仲介した知り合いの学芸員経由で、
「佐野乾山は一切、勘弁してほしい」
と、拒否されていた。
またネットで検索を重ねて、篠崎の業績を踏まえて佐野乾山に言及する論文に出会えた。京都府内の美術館に在籍する学芸員の長浜だと分かった。早速、江上は電話を入れたが、もろくも肩透かしを食らった。
「佐野乾山の研究は棚上げになっているのが現状でしょう。研究者ですか?都内で乾山展が開催中で、そちらに当たられたらいかがでしょう」
江上にとって、堂々巡りで埒が明かない。乾山研究者として論文を公表しながら、やんわりと取材を拒否し、難題は他の研究者にたらいまわしする。しかも研究者の一人として、当然、乾山展の内容は熟知しているだろうに。
一方、一之沢家所蔵の佐野乾山は既に30年前に盗まれていた。伊藤によれば、その後の消息は不明という。犯人が捕まり、戻っていれば幸いだが。
一之沢家の所蔵品で、江上は取材の戦略を描いていた。
調べを重ねるにつれ、篠崎が見出したその所蔵品は研究者の間で、ホンモノとみなされているようだった。あの事件後、県内の美術館で展示され、その後、33年前にも都内の美術館でも公開されていたからだ。今回の乾山展でも乾山の佐野来訪は認知され、その裏付けとして乾山自筆伝書の陶磁製方が明記されている。
徒手空拳で見解を求めても口をつぐむなら、一之沢家の物証を確認して、研究者に迫りたかった。「これは佐野乾山なのか」と。
伊藤の家を持し、江上は国道50号を西進し、自宅に向かっている。佐野アウトレットパークを過ぎ、彼は側道に入り、交差点を左にハンドルを切った。
郷土史家の角田から須藤杜川の墓の写真と手書きの地図が郵送されていた。添え状には「墓所のある光明堂への道のりは入り組んでいるので」と認めてあった。
その地図と車のナビを頼りに、農作業中の男性に尋ねて、ようやく辿り着いた。入口脇が須藤家の墓所で、角田の写真を参考に、沈流斎杜川居士と刻まれた墓石を見つけた。取材バックから佐野乾山のコピーを取り出し、側面の墓碑銘と照合する。
ーー理右衛門号杜川……松村一斎君諱包休之子也
ーー次日弼……出為天明郷大川道顕嗣
篠崎によれば、須藤杜川は天明郷の旧家、松村一斎の次男で、須藤家の女婿となり、一斎の長男で杜川の実兄に当たる彦九郎とともに乾山と交流を深めた。また杜川の次男、弼は同じ天明郷の旧家、大川道顕の養嗣子になった。
碑文から、戦前、篠崎が確認した佐野乾山作品に銘として残っている須藤、松村、大川家の関りが読み取れた。
佐野乾山に巡り会うため、篠崎は10年の歳月を調査に費やしている。その著書・佐野乾山の一節を思い出した。
ーー其の伝記も事蹟も不明の裡に葬られて居ることは誠に遺憾に堪へない
取材を通じ、権威、既成への反発が江上の胸中にも芽生え始めていた。
第13話に続く。