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Every dog has his day.⑮

  第15話、
 神村はいつものように社長室で待っていた。ソファに腰を下ろし、思案深げに腕を組んでいた。テーブルの上に1枚の手紙が置いてある。
「いや、早いね。さすが記者上りだ」
「そりゃ、そうですよ、所有者からの連絡なんですから、一目散でやって来ました。ところで何て書いてあるんですか、この手紙に」
 江上は神村宛の手紙に釘付けになっている。
「そこにあるだろう。遠慮しないで、どうぞ読んでかまわないよ。決して悪い話じゃないんだが」
 江上は手に取って裏返した。文面は縦書きで、女性らしく流麗な書体で読みやすい文面だった。
 ーー拝啓
 五月雨に潤う入梅の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 さて、夫久嗣が他界して早いもので、2年が経とうとしております。生前及び夫亡き後も、神村様には一方ならぬご厚情とご鞭撻を賜り、深く感謝申し上げます。
 家宝にしております例の件でございますが、神村様が御心配していることも気に留めず、度重なる失礼な物言いをしてしまうのなど大変失礼致しました。私の不徳の致すところで、改めて書面で心よりお詫び申し上げます。
 美術商の言動に惑わされ、どう扱ってよいものか悩み、右往左往してしまった次第です。振り返ると、赤面の至りでございます。
 残された子供たちとも相談し、故郷栃木市のために役立てて頂けるように対処するつもりでございます。 
 今後も変わらぬ御配慮、御指導を頂けますようよろしくお願い申し上げます。
                               かしこ
 6月4日  
                             西郷淑子
「栃木市のために役立てるって書いてありますけど、本当ですか?」
 江上は胸の鼓動を抑えきれず、声を上ずらせた。
「文面の通り、倅さんらの意見を聞いて、そういう気持ちに傾いたんだろう。栃木市の旧家だから故郷への思いと体面を保ちたい気持ちもあるんじゃないかな。どうにか栃木市の宝になればいいんだが……」
 神村は懸念を払拭できないように言葉を濁した。
「それでも心配ですか?美術商の動きが」
「彼らも商売だから、そう簡単に諦めないし、しつこいだろう。一度つかんだ獲物からそう簡単に手を引くとは思えんな。世界的に人気ある歌麿作品、しかも貴重な肉筆画だろう。既に買い手がついていることも考えられるし」
「しかも2点。高く売れるでしょうから、業者にとっては垂涎の作品に違いありません。あの手この手で引き留めているかもしれません」
 浮世絵の主流は多色刷り版画の錦絵で、絵師が版下絵を描き、彫師、摺師の手を経て作品となる。一方、肉筆画は絵師自ら作品に仕上げた一点もので極めて貴重だ。歌麿は錦絵約200種類を手掛けたとされるが、確認された肉筆画は40点程しかない。
「西郷家のこともあるが、ところで栃木市の方は大丈夫なんだろうか」
「と、言うと、買い取る気はあるかということですか」
「今後、どう進展するかは予測できないが、準備しておいて間違いはないだろう。市も財政難だし、買うとなれば市議会の議決、なにより市民の理解が必要なはずだ。民間と違って行政は諸手続きで時間がかかる」
「買い取り価格にもよるでしょうか、3年前の女達磨図の件もあるので、買い取ることに問題はない気がしますが」
「江上さんらの活動のお陰で関心も高まっているから心配ないか。それより、西郷の奥さんにどうアプローチするかだ。取らぬ狸のなんとかになっちゃ笑い話にもなんないからな。さて、どうするか」
 神村は組んだ腕の左手を顎に当て、首を傾げた。
 文面を読めば、栃木市への譲渡は既定路線にも思える。だが、美術商が完全に手を引いたわけではない。問題は市側でどう接触し、言質を取るかだ。江上は所有者と一切、面識はない。
(やはり、ここは神村さんしか……)
 江上の思いを汲み取るかのように、神村は腕組みを解き、口を開いた。
「江上さん、今日はこの後、予定は入っているのかい?」
「いや、別に、大丈夫ですけど」
「よし、じゃあ、車に乗せてくれ」
「ええ、いいですけど、どちらへ」
「西郷さんの所だよ」
「いきなり、今日、これからですか」
「そうだよ。逡巡しても始まらないだろう。気持ちが変わると困るし、善は急げだ」
                        第16話に続く。
 第16話:Every dog has his day.⑯|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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