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佐野乾山発掘記⑬

  第13話、
 里山の稜線から入道雲が沸き起こっている。強い日差しが路面に照り付けているが、夕方には雷雨に襲われる気配だ。
「角田さん、本当に何てお礼を言っていいのか。取材の段取りまでしてもらって」
「いいんですよ。その話は以前から気にかかっていたので、私もかねがね見る機会があればと思っていたんですから」
 角田を車に乗せ、江上は佐野市郊外のある旧家に向かっている。
 研究者が押しなべて佐野乾山に懐疑的である以上、真贋論争の引き金を引いた陶器200点を追いかけても労多くして功少なしで、探索する気持ちが起きない。目標としてきた一之沢家の所蔵品は盗難の憂き目にあったが、江上は認知されている篠崎源三の足跡を追い、突破口をどうにか見出そうとしている。
 その一つが篠崎の著書「佐野乾山」で言及している乾山銘と印章の入った鼓形菓子器だ。戦前、足利の郷土史家、丸山瓦全が乾山伝書の写本とともに所蔵していた。江戸時代、佐野伝書の写本を残した丸山清右衛門貞隣の息子・米吉の元に、乾山の佐野招聘に一役買った佐野の大川家のツルが嫁入り道具の一つとして持参したという。
 乾山会発行の乾山遺芳=昭和18(1943)年=には乾山の佐野来訪を裏付ける貴重な作品の一つとして掲載され、「京洛の優麗典雅な嗜好に成ったもので、比類稀なる遺作として、珍賞すべき」と紹介されている。
 当時、丸山家蔵だったが、その後、取材の過程で、佐野の旧家、小野寺家で秘蔵していることが分かった。面識のない旧家に突然、取材に入るのは抵抗がある。角田は佐野の歴史に関する生き字引だ。事情を話すと、小野寺家は佐野でも指折りの旧家で、角田は市史編纂に伴う古文書調査で何度も訪れ、当主と旧知という。早速、江上は角田に仲介を依頼し、角田の計らいで調査できることになった。
 大谷石塀に囲まれ、深い木立の中に瀟洒な和風の建物が見えた。門柱のインターホンで来意を告げ、敷石伝いに玄関の引き戸を開けた。
「角田先生にこれまでご覧頂いていなかったとは大変失礼をいたしました。どうぞ、居間に用意してありますから」
 当主は角田より若干若く、70を2、3歳超えているように見えた。旧家の当主らしく物腰は柔らかい。
 居間の座卓の上には飴色に古びた桐箱が載っている。小野寺は桐箱の紐を解き、乾山作と伝えられる木製の菓子器を取り出した。
 その菓子器は和楽器の鼓の体裁で、直径20センチ、高さ5センチ程。朱や緑青、金泥などで紅葉が八、九枚描かれ、中央の蓋の縁に深省画の署名が入っている。署名が流麗で力強い。意匠を凝らし、雅な感じを受ける。
 小野寺家が入手した経緯は「分からない」との返答だった。
 記録によると、乾山会が乾山200回忌の昭和17(1942)年、初めて公開したが、その後は所有者が変わるなどして公にならなかったようだ。
 帰り道の車中で、角田が窓外を見ながら呟いた。
「顧みられず埋もれているものがまだまだあるんですよ」
 佐野に生まれ、佐野に育ち、佐野の歴史を探求し続ける老郷土史家の言葉だけに、江上の胸にずしりと響いた。
 取材の傍ら、江上は図書館通いの日々を送っている。乾山関連の文献を取り寄せ、熟読し、専用のノートに書き留める。アンテナを立てれば、自然と情報は雪だるま式に舞い込む。そのためにも貪欲に知識をインプットしアップデートする必要がある。
 佐野乾山を紹介するスライドの存在も取材の過程で、偶然、舞い込んだ。
 内容は一之沢家の所蔵品で、同家の地元の高校に眠っているらしい。
 信頼度の高い篠崎関連のスライドだ。知り得た情報はどんなに些細でも、全て裏付け取材する。倦まず弛まず、地道に続けるしかない、と江上は言い聞かせるようになっている。
 学校側に電話で取材の趣旨を告げると、
「そんな資料が本校に保存されているのですか」
 と、担当教諭は驚き、調査を約束した。
 多分、真贋論争事件の前で、既に半世紀は経過しているだろう。佐野乾山が世間で話題にならない中で、学校関係者がその存在を知らなくても無理はない。突然の電話にも、快く調査を快諾してくれたのは報道機関の特権といえた。
 その教諭から連絡が入り、江上は東北道で直行した。その高校は市街地の一角にあり、校名は少子化に伴う統廃合と市町村合併の影響で変更されていた。
「これが台本です。スライドのナレーション用に作られたようです」
 担当教諭が差し出した台本はA4大の冊子で、背表紙に「佐野乾山」と表記され、罫紙30数枚に手書きで一之沢家所蔵の個々の乾山作品の解説が書き連ねてある。校閲は篠崎が担当していた。スライドは所在不明だという。
 作成は昭和33(1958)年10月で、篠崎が一之沢家で確認して17年後、やはり真贋論争の4年前だった。
 担当教諭の協力で、後日、江上は当時、制作に関わった元教諭を電話取材した。
 地元に眠る逸品を後世に伝えたい、と元教諭は同僚と二人で制作を思い立ち、一之沢家の所蔵品を撮影してカラースライド約20枚をつくり、ナレーション用の台本を自作したという。元教諭は当時、制作の過程で専門家の鑑定にも立ち会い、「口々に、極めて貴重だと話していた」と振り返った。
 戦後の混乱期からようやく抜け出し、社会教育の一環として地元の歴史文化に目を向け、見直す機運が高まり始めたのだろう。篠崎の調査で貴重な佐野乾山と認知されながらも時勢柄、秘蔵を余儀なくされた一之沢家も新しい時代を迎え、広く公開することに傾いたに違いない。
 ところが、事態は一変する。佐野の旧家から続々と乾山作と称する陶器200点以上が新たに現れ、真贋論争事件が発生。研究者、著名人、国会での丁々発止の議論が展開されたが、結局、シロクロ未決着のまま佐野乾山は闇に葬られた。
 その大きなうねりに巻き込まれ、戦前、篠崎が懸命の調査で探し出した一之沢家の所蔵品や佐野の旧家にある鼓形菓子器は顧みられることなく、教師らが作り上げた世論喚起用のスライドも打ち捨てられている。 
 ーーペンの力で忘れ去られた佐野乾山を掘り起こせるじゃないですか、新聞記者は
 陶芸家の茂木の羨望を交えたエールが、江上の耳の奥にこだました。
                         第14話に続く。

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