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Every dog has his day.⑲

  第19話、
 雪は栃木市内にある、と実しやかにささやかれている。
「巴波醤油の猪野瀬さんが所蔵しているって言われていてね。あくまで噂で、真偽は分からないんだが」
 歌麿調査を頼まれた際、市長の末永は市内でも指折りの旧家の名前を挙げた。
 調査の過程で、約20年前、平成3(1991)年11月の新聞各紙に目が止まった。
 ーー歌麿の肉筆画あった!幻の雪発見
 江上の在籍した栃木新報の見出しはセンセーショナルだった。
 県内の郷土史家、渡辺達也の出版した著書「歌麿と栃木」の紹介記事で、渡辺が知人を介して、同市内での所蔵を確認したと報じている。所蔵家の名は了解を得られなかったとして伏せてあった。
 早速、図書館でその著書を熟読した。
 ーー雪の写真を見せ確認した
 ーー市内の名士も見たと言っていた
 ーーその所蔵家は市内のある好事家から手に入れた
 貴重な記述があるが、既に渡辺は他界し、確認しようがない。江上らは一つでも裏付けをとれないか周辺取材に駆け回った。
「猪野瀬さん所蔵説が広まったのは、確かに渡辺さんの著書以降かもしれない。ただ、渡辺さんも自分の目で確かめたわけではないし、誰も見た人はいないと思う。もちろん市内に所蔵されているのにこしたことはないが」
 浮世絵コレクターの西園寺は腕組みをし、大きくため息をついた。
「この渡辺さんの著書では所蔵者を特定していないし、あくまで猪野瀬家で持っているかもしれないということでしょうか」
「だろうね。ただ、猪野瀬家は醤油醸造で財を成し、市内でも別格の素封家だから、高額な雪を買い取れるとなると猪野瀬家しかないと見られている。戦中戦後、すこぶる羽振りがよかったから」
 「雪」「月」「花」は明治20(1887)年までには釜伊から人手に渡り、海外流出したことが海外の記録で分かっている。その後、浮世絵コレクターの長瀬武郎が昭和14(1939)年までにフランスで雪を買い取り、日本に持ち帰り、同23(1948)年、東京の銀座松坂屋で展示されるまでには手放した、と彼の手記で明らかだ。
「僕が展示に駆り出されたんだよ、あの銀座松坂屋の展示だろう。画商の金子孚水が持ち込んできて、それで借りて飾ることになったんだ」
 東京国立博物館の元絵画室長だった池ノ上は当時を振り返った。半袖シャツのラフな格好だが、真贋鑑定で鍛えらたのだろうか、眼光が異様に鋭い。
 雪の消息を追い、江上らは都内湯島の老舗画廊・天心堂に行った。「門外漢だからいいのよ、こういう調査は。しがらみも遠慮もないでしょ」。女将の石田は快く、亡夫の懇意だった池ノ上に連絡、取材の運びとなった。
「雪は金子が持っていたんでしょうか」
「違うね。所有者はほかにいたと思う。海外から日本に戻して、再度、日本から出たことにすると、浮世絵は高く売れたんだ。多分、そんな思惑があったんじゃないかな」
「とすると、雪はやはり海外に」
「多分、流れている」
 銀座松坂屋での展示から43年後、渡辺は雪の栃木市内所蔵説を公表した。画商・金子の手を経て、海外再流出を含めた曲折を経て、栃木のあの旧家に収まったのだろうか。
 
「もう少し早くこういう動きを起こしていれば、間に合ったんだが」
 帰路の車中、江上は池ノ上の呟きを反芻している。
 官であれ民であれ、これまで雪の所在調査を本格的に進めていれば所在不明にはならなかった、と池ノ上は自戒を込めて訴えたかったのだろう。
 新聞紙上に時折、国宝、重要文化財の所在不明のニュースが載る。所有者変更の届出義務がある文化財でさえ、散逸の危機にさらされている。ましてや日本を代表する浮世絵師・歌麿の大作といっても文化財指定されていない以上、単なる美術品として自由に売買され、海外流出の懸念は消えない。
「東博にいた頃、浮世絵の価値は認めてもらえなかったね。江戸時代の絵画でいえば幕府や朝廷の御用絵師だった狩野派、土佐派ならまだしも、たかだか町絵師が描いた絵画なんて、っていう評価だった」
 池ノ上は当時の国や美術界の姿勢に疑問を投げかけていた。
 浮世絵は江戸時代に発展した風俗画で、版画1枚の値段がわずか掛けそば1杯程度といわれ、庶民の文化としてもてはやされた。幕末以降、写真の普及などで廃れる一方、明るく華やかの色調や平面で大胆な構図などがフランス印象派の画家らの目に止まり、海外で高い評価を受け、数多くの作品が海外に流れた。池ノ上が在籍した戦後になっても、美術界の権威主義ははびこり、浮世絵は軽視されていたことになる。
 江上は手元の資料に視線を落とした。「雪」「月」「花」の流出経緯や参考文献などをまとめた独自の資料だ。
 3幅とも海外流出後、「月」は明治36(1903)年、フランスの美術商ビングを通じて、実業家チャールズ・ラング・フリーアが取得し、自ら創設した米国のフリーア美術館、「花」は同じくビングらの手を経て、昭和32(1957)年、米国のワズワース・アセーニアムが取得し、それぞれ所蔵されている。
 残る1点、「雪」は故郷の栃木市内に戻っているのだろうか。せめて海外流出せず、国内で眠っていてほしい。
 電車は速度を落とし、車窓を民家や雑居ビルが流れていく。もうすぐ栃木駅だ。
(仕切り直しだ。裏付け取材をしなければ)
 車窓に蔵の街並みが見え始めた。
                       第20話に続く。
 第20話:Every dog has his day.⑳|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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