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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑪

  第11話、
 新緑の頃、蔦重は東海道を下り、遠路、西国に足を延ばした。
 尾州の書肆、永楽屋東四郎、さらに伊勢松坂に国学者の本居宣長を訪ねた。永楽屋は宣長の著作物の独占的な版元で、江戸で急成長する蔦重の耕書堂と連携し、双方の販路拡大を図る狙いがあった。
 吉原細見を足掛かりに、蔦重は黄表紙、洒落本、狂歌絵本などの戯作や錦絵を商う地本問屋としての地歩を固めた。4年前、山東京伝の洒落本3冊でお上の禁令に触れ、身上半減。経営再建のため儒学書、仏書、歴史書など硬派の書物を扱う書物問屋にも加盟し、経営の多角化を模索している。今回の西国遠征もその一環だった。
 無論、日の本一の書肆になる大望を成就するための戦略に基づいているが、蔦重は原点を見つめ、新たな思いに駆られている。
(二度と写楽の二の舞はさせねえ)
 写楽はわずか10か月で蔦重の元を去った。「写楽とは名ばかり、写すのは苦でしかなかった」。去り際の苦悩に満ちた写楽のセリフが耳の奥にこびりつき、片時も離れない。あれほど惚れ込み見込んだ男をどうして一人前の絵師に育てられなかったのか。
 振り返れば、北尾政演、志水燕十、窪俊満、喜多川歌麿……。彼らの才能を見出し、飯を食わせ、芸の肥やしにと時には吉原で遊ばせ、育て上げた。一人前の絵師、戯作者らに育て上げるには膨大な時間と金がかかる。商いは人なり、である以上、個々の芽がほころび開花するまで耐え忍ぶしかない。
 なぜ、写楽を見捨てた、否、写楽に愛想をつかされた背景に、経営難に陥り、それでも大版元になる野望に目がくらみ焦った。資金に詰まるから目先の利益に飛びつき、大事な元手を失う。人材育成は先行投資であり、その費用捻出に西国への販路拡大は急務と判断した。
 帰国後、蔦重はある男に目を付けた。
 名は瑣吉で、3年前、山東京伝の紹介で食客として受け入れ、耕書堂の手代として働かせた。その後、元飯田町中坂の履物屋・伊勢屋を営む会田家の未亡人、百に婿入りし、戯作づくりに励んでいる。
「瑣吉よ、どうだ創作活動は進んでいるか」
「旦那、今は瑣吉じゃございません。滝沢清右ヱ門でございます」
「婿入りして会田の姓は名乗らねえのか」
「私は武士の出でございます。それに婿入りしたのは戯作づくりに専念するための便法であることはご存じでしょう」
 日々の糧に追われ、読書に勤しみ、思案にふけ、筆を走らせるのもままならない。履物屋の婿入りは打算であり、蔦重や山東京伝の後押しでもあった。
「それで戯作の一つもかけたのか。食うのは心配なくなったろうが、商売もあるし、嫁姑がいちゃ、思うようになんねえだろうが」
「姑にゃ顔合わせりゃいびられましたが、その姑も体壊して床についてまして。医者の見立てじゃ、長くないようで。お陰様で戯作に集中できるようになった次第です」
「そりゃ、姑には気の毒だが、お前さんにとっちゃ、不幸中の幸いってことか。風向きが良くなってきたんじゃ、丁度いい。一つ用件があるんだが」
「何でしょう、私に」
「一つ戯作を仕上げてみねえか」
「そりゃ、ありがたい話で。是非、やらして頂きたい。それで版元は私にどんな戯作をやらせようという考えでしょう」
「瑣吉、いやすまねえ、滝沢清右ヱ門しか書けねえ読み物をお願いできねえか」
「私しか書けないですか……」
 瑣吉は眉間に縦皺を寄せ、困惑の表情を見せた。
「版元ととして正直に言わせてもらうが、お前さんの書いた物はどれも堅苦しくってどうにも面白かねえ。師匠の山東京伝のように粋で洒落の利いた戯作を仕上げろと言ったところで、どだい無理な相談のようだ。だがな、お前さんには抜き出た教養がある。俳諧師、医学も学んだ上に、古今の和漢の読み物に通じている。なにより、戯作やりたさに婿入りする心意気は半端じゃねえ、と感心しているんだ。それにな、私にとっちゃ息苦しくて仕方ねえんだが、このご時世、お前さんにお誂え向きとは感じねえかい」
「私に、追い風が吹いていると。ますます分かりませんな。私だって、老中松平様以降のこの世知辛い浮世は好ましいとは思っておりません。濁る田沼の水ぞ恋しき、と嘆いている方でして」
 老中松平定信の失脚後も幕府による文化統制、奢侈禁止、倹約奨励の嵐は吹き荒れ、粋、洒落、風刺に象徴される戯作、錦絵への取り締まりは強化の一途をたどる。一方で文武奨励が叫ばれ、忠孝信義、勧善懲悪の風潮がもてはやされるようになっている。
「時流が変わっちまったんだ。評判になりてえなら、流れに乗るしかねえ」
 蔦重は自嘲気味に吐き捨て、
「ところで、お前さんが目指す戯作を教えてくんねんか。一体、何が書きてえ」
 と、瑣吉の顔を覗き込んだ。
「旦那のおっしゃるように私は堅物でしょう。世に出回る黄表紙、洒落本、どうにも軽佻浮薄で馴染めませんでした。私はかねてから、じっくり腰を据えて読んでもらえるような長編の戯作を書きたいと思っていました。平家物語に保元物語、漢籍なら水滸伝に西遊記もありましょう」
「そりゃ、壮大で面白え。やってみねえ」
「本当に書いていいんですか」
「いいと言ってるだろう。版元・蔦重が必ず、刊行してやる。ただ、念押ししておくが、時流を見据えてな」
「旦那様にそこまで見込んでもらい感謝の言葉もありません。ただ、……」
「ただ、何でえ。はっきり言いな」
「時流に逆らうなとおっしゃいますが、旦那はお上に盾突いてまで戯作を売り出し、身上半減の憂き目を見たことがあったものですから」
「瑣吉よ、はきちげえるな。時流に阿ろと言ってんじゃねえ。見方につけろと言ってんだ」
 瑣吉を一人前の戯作者に育て上げる方便でしかない。時流に竿を立て、お上に睨まれ、将来、大輪の花を咲かせるはずの才能の芽を摘まれるのは何としても避けたい。才能を開花させ、表舞台に引き上げてやるのが版元の役目だ。蔦重は二度と写楽の失敗の轍は踏まない覚悟だった。
                        最終第12話に続く。


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