喘息の夜と大出血する老婆とスピリチュアル
僕は幼い頃から喘息だった。
今とは違い、自前の吸入器などない。発作が起こるのは基本的に夜。救急対応している病院に行っては、吸入する。そんなことを一体何度繰り返しただろう。
親も大変だったのだろう、発作が起きても放っておかれるケースがまれによくあった。そんな夜は一人で毛布を被ってじっと耐える。ソファの上に座ったり、床に座って座面によっかかったりしていた。苦しくて寝転がれない時間をそうやってどうにか耐え忍んでいた。
壁紙の柄が謎にゆるいアートな幾何学だったりして、眺めているのが楽しかった。いや実際は楽しくなんてないのだが、携帯ゲーム機などもない時代だ。文字も読めない頃は本も読めず、やることなどない。天井の模様をじっと見続けたり、オレンジのサブ電灯を見続けたり、それらをぼやけさせてからぐるぐるさせたり、そういったことでとにかく暇を潰していた。
自分の呼吸をどうにか深くしようとしたり、浅めに吸って楽っぽい感じにしてみたり、色々やっても、なかなか朝は来ない。辛い時間は長かった。
朝方、あたりが青くなってくると、親を起こしにいってみたりしたが、当然のごとく起きない。あの頃は共働きだったはずなので、両親も疲れていたのだろう。
ある日、例の如く救急病院に行った。大抵は幼い自分が優先されるのだが、その日は違った。
老婆が待合室にある四人掛けのソファにただ一人座っていた。老婆の手元には朱に染まったトイレットペーパーがうずたかく積もり、足元は血の海になっていた。寝巻きの前面は血まみれだった。俯いていて生きているのか死んでいるのかすら分からない。
当直の看護師さんはあちこちバタバタ走り回っていた。
そんなに血を流したら死んでしまうだろう、というくらいの膨大な量の血だった。
フィジカルに死にそうな血だらけの老婆。床に広がる大量の血、薄暗い夜の病院。大量の恐怖要素を前に、僕は純粋に怯えた。
怯えたが、喘息の苦しさもまた現実だった。いつもより少し待たされたが、なんとか処置室で吸入をすることができた。
吸入を終えて待合室に戻ると、すでに老婆の姿はなかった。床にはまだ血の海とトイレットペーパーの残骸が残っていた。
救急対応では薬をもらえないので、翌朝再び病院に行った。病院は普段通りに動いていた。薬が処方されるまでの間、母と一緒に売店までお菓子を買いに行った。救急の待合室を覗いてみたが、血の海はもうない。昨日のあのお婆さんは何か非現実的なもののように思えてきた。
病院帰りには病院前の町中華で、母と二人よくラーメンを食べた。病院で吸入さえ済ましてしまえば具合は良くなる。その店に入る時は、いつも晴れやかな気分だった。
子供がそんな具合でしょっちゅう体調を崩すので、親もあの手この手で僕を健康にしようとした。乾布摩擦、当時の僕は「かんぷうまさつ」と発音していたが、をさせられたり、プールに行かされたりした。
引っ込み思案だった僕は、スイミングスクールの軍隊式な感じが苦手で、上階のガラス張りの見学ブースにいる母の姿を絶えず探していた。行きたくなくて行きたくなくて、小学校入学前と後で2回スクールを辞めた。集団行動に対する恐怖は憎しみに変わり、それは今も心の奥底に残っている。
色々やっても僕の喘息は一向によくならなかった。季節の変わり目、台風、急な冷え込み、まるで気圧の変化に対する精度の高いセンサーであるかのように、僕の気管支は反応した。
絶望した親は、とうとうスピリチュアルに手を出した。居間の一角に、仏壇用のスペースなのか床の間の亜種なのか良くわからない謎空間があった。よく分からない掛け軸が飾ってあるそこに、朝一番に行かされるようになった。
コップ一杯の水を前に手を合わせ、折り畳まれた紙を開く。その紙に書かれていたのは、恐らくは真言ベースの呪文。いや、お経なのか。それを百八回唱える。
短い一節だったが、さすがに百八回は多い。十回唱える度にマッチ棒を一本置く。数えているうちによく分からなくなってくるが、信心が足りていないと治らない気がするので、少し多めに唱えていた。そして最後に、謎の梵字が書かれた小さな紙片を飲み込む。
結構長く続けていた気がするが、まあ当然、治るわけなかった。百八回真言を唱えるという如何にもイカサマな甘い作り込みに騙されるような、教育の足りていなかったうちの親も悪いが、クソみたいな寺もあるものだ。自分が第六天魔王だったら確実に焼き討ちしていたところだ。
小学校三年になっても、まだあまり身体は強くなかったし、喘息もバリバリ現役であった。その日は、いつもと違う公園で遊んでいた。そこには、隣のクラスの岩城君がいた。彼は重度の喘息患者らしいという噂を聞いていたが、噂通りに彼は走るとすぐに肩で息をしはじめた。こっちまで苦しくなりそうな息の仕方だった。
彼は半ズボンから、何かを取り出し、それを口に加えた。流れるような動きだった。数秒の後、彼の肩の揺れはおさまった。
それが、僕とハンディ吸入器との出会いだった。この世にはなんと素晴らしいものがあるのか。まさに文明の進歩、人類の躍進だと思った。
次に病院に行った時、すかさず吸入器が欲しいと僕は医者に訴えた。
だが、僕のキラキラと希望に輝く瞳を身もせずに、医者は素気無く言った。曰く、あれは対症療法に過ぎない。痩せて体重の少ない僕には身体への負担も大きい。もう少し大きくなるまでは、飲み薬にしておけと。
言っていることは分かった。分かったが、納得などできなかった。できなかったが、昭和の医者に逆らえる小学生などいない。僕は諦めざるを得なかった。
それから少しして、スタンドバイミーとそれをオマージュしたマザーのせいで、吸入器は軟弱なやつのアトリビュートとなる。
中学生になり憧れの吸入器を手に入れた頃には、陰でこっそりと使うアイテムと化していた。
成長するにつれ喘息の症状は徐々に軽くなったが、大人になるまで寛解することはなかった。毛布と全てのフカフカした布製品を家から一掃した現在、喘息に悩まされることはなくなった。
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