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「もう一度ふたりで漫才がやりたかった」。Wモアモアのボケから、東城けんになって。

「ひとすじ」は、”50年以上ひとつの仕事を続けている”方々を、フィルムカメラを用いて写真におさめるプロジェクト。
個人が自由に仕事を選べるようになり、転職や職種転換も当たり前になった現代だからこそ、その人々の生きざまはよりシンプルに、そしてクリエイティブにうつります。
このnoteでは、撮影とともに行ったインタビューを記事にしてお届けします。

2024年8月、私は人生で初めて浅草東洋館を訪れた。夏の暑い日だったが、ホールの中は涼しくて、お客さんがくつろぎながら芸人さんたちの舞台をみていた。テレビによく出る若手人気芸人さんの舞台とは少し雰囲気が異なり、お客さんの年齢層も高く、お客さんと芸人さんの距離も近いような、気軽さや親しみやすさのようなものを感じた。

その中で、15時20分の出番に登場した東城けんさんは、にこやかな表情と柔らかいトーンとは裏腹に、なかなかに毒舌に世の中の話題を斬っていく。が、年齢や年代の自虐ネタは、お客さんの年齢層ともマッチして笑いが会場全体に広がっていた。

漫才コンビを経て今はピンでこの舞台に立つ東城けんさん。彼はどんな芸人人生を送ったのだろうか。



歌手を目指して上京

ー けんさんは、どちらの出身なんですか?
東城さん:福島の田舎出身。僕は元々小学5年生くらいの頃に、歌手になりたいと思ってたの。

ー え!最初は芸人さんになりたかったわけじゃなかったんですね!
東城さん:小さい頃は福島の実家の裏山で大声で歌ってて。16歳、中学校の卒業式の次の日に上京した。上京してすぐはお菓子屋さんで働いて、そのあと2年目に春日八郎さんっていう演歌歌手の人に弟子入りしたの。そこで1年ぐらいかなあ。

ー 歌手を目指して上京されたのに1年で辞めてしまったのはどうしてなんですか?
東城さん:春日さんに付いてた時に、Wけんじ(※)と出会って、「お前は歌向かねえから漫才やれ!」って言われた。ずっと言われ続けて、洗脳されて、それでWけんじさんのところに行くことになった(笑)。
(※)Wけんじ:1960年代を中心に活躍した漫才コンビ。宮城けんさんは春日八郎さんの専属司会を10年務めていた。

ー そこから芸人人生がスタートしたんですね!最初はWけんじのお弟子さんとして?
東城さん:そうね。もうほんとに見て学ぶという感じで。相棒(のちのコンビ相方「東城しん」さん)は、俺の後にWけんじさんのところに入ってきて、最初は運転手してたね。

ー そこからどうやっておふたりでコンビを組むことになったんですか?
東城さん:昔でいう東京12チャンネル(今のテレビ東京)の「爆笑チャンネル」という番組があって、それがWけんじさんのレギュラーだったんだけど、その収録の前説に誰かいないかっていうんで、相棒とふたりでやるようになった。師匠が「ふたりでやれ」って言って。それで漫才らしきことをやり始めた。
それでだんだんと形になってきた時に、「じゃあ名前どうする?」ってなったので、、松竹演芸場の中衛さんにつけてもらうと売れる、というジンクスがあったので、その人につけてもらったの。

ー それが『Wモアモア』の誕生ですね...!Wモアモアってどういう意味なんですか?
東城さん:俺もよくわかんないけど(笑)。「W」はWけんじさんからもらって、まあ「more more」で「もっともっと」って意味だね。俺ももらった時、へえ〜そうなんだあ、みたいな感じだったね(笑)。

漫才コンビ「Wモアモア」の幕開け

順風満帆のスタートから低迷期もふたりで漫才を続けて

ー そこからは漫才コンビとしての活動を始めたんですか?
東城さん:コンビ組んでからも、しばらくはWけんじについてて、東の親父は飲みにいくから俺が朝まで一緒に飲みに行ってて、宮城の親父は相棒と麻雀とか賭け事やって、っていう毎日だったね。

ー 完全に独立したのはどのタイミングだったんですか?
東城さん:コンビ組んで3年くらい経った頃かな。これというきっかけはなかったけど、単純に弟子の仕事をしなくなってからかなあ。相棒は新宿のお店、俺は川口のお店でそれぞれキャバレーの司会の仕事をしてて、昼は漫才の稽古や舞台をやって、だんだんスケジュールが埋まるようになって。まあWけんじの弟子は10人とかいたからね、後輩に仕事を譲らないとっていうのもあるし(笑)。

ー そのあとは太田プロに移籍されたんですよね?
東城さん:そうそう。NHKの漫才コンクール(元・NHK新人演芸大賞)を取ってから、すごい忙しくなった。(※)
(※)Wモアモアは、師匠のWけんじも優勝している「NHK漫才コンクール」の第23回大会で優勝。

ー なんのお仕事が一番多かったんですか?
東城さん:やっぱキャバレーだね。地方のキャバレーとかは20時、21時、22時で1日3回も出番があるの。それで昼間は松竹演芸場の舞台。本当に忙しかったね。

ー じゃあその頃は芸人さんの仕事だけで生計立てられてたんですね。
東城さん:そうだね。その頃は本当にトントン、すぐにNHKの新人賞も取って、芸人としてもスムーズにいきすぎてたね。

ー 昔からずっと応援してくださってるファンの方とかはいるんですか?
東城さん:いないよそんなの。でも、昔松竹演芸場でやってる時に、変な高い声で笑うお客さんがいて。「浅草のキヨシ」って有名で。2階の末席によく座ってるんだけど、あんま漫才がウケてない時とかでも、キヨシの笑い声にお客さんも笑ってくれたりして。それにはすごく助けられてたね。

ー そうなんですね!今でもキヨシさんは来てくれるんですか?
東城さん:もう亡くなっちゃったねえ。
昔、松竹演芸場は大体17時か18時くらいに終わって、行きつけの食堂行くとキヨシがいたりして、彼は乞食でお金ないから、肉どうふを奢ってやったりしてね。
昔の浅草はそういう感じが良かったよねえ。「頑張れよー!」って店で声かけてもらったり。

ー お客さんからの直接の応援は嬉しいですよね。その頃、芸人としてのモチベーションとか野望みたいなものはあったんですか?
東城さん:野望はあんまりなかったかなあ。「この番組に出たい」とかはあったかもしれないけど。モチベーションで言うと、「相棒に負けたくない!」みたいなのはあったかもしれない。

コンビ時代のおふたりと、若い頃のけんさんの写真と一緒に

ー 相棒でありライバルだったんですね。おふたりは解散しようと思ったことは無かったんですか?
東城さん:解散は3回くらい考えたことある。最初は結成10年くらいかなあ。

ー それはどうして解散しようと思ったんですか?
東城さん:他の人とやってみたい、とかお互い思ってたんじゃないかな。NHKの新人賞取った後はこれといった波もなく、だんだん仕事も落ち着いてきて、ある程度天井が見えてきたところだったからね。
でも新しいこと一からやる度胸もない。あの頃はコンビでバラバラの仕事するとかもなくて、全部コンビの仕事だったからね。

ー 解散の話をする中でおふたりが不仲になってしまった時期もあったんですか?
東城さん:言っちゃいけないことを言っちゃうような時期はあったね。「おめえ下手だなあ」とかさ。そうすると喧嘩に筋が入ってくるというか。ふたりでいると喧嘩になるのもあるので、どっちかが外出ればいいから、それで一緒に居ないようにしたりとか。昔の松竹演芸場って地下に2つ楽屋があったんだけど、1つは麻雀の部屋、1つはポーカーの部屋で、俺は麻雀の方、相方はポーカーの方にいたね(笑)。みんなそんな感じだったよ。

ー 長年コンビ組んでる芸人さんとかでよくそういうの聞きますよね。
東城さん:まあさっきも言ったように俺はしょっちゅう先輩と飲みに行ってたし。で、飲みに行くと先輩に、「お前たちなに、別れんのかい?やめとけよ?」って言われたりとかして。で、「はい」って(笑)。「相棒と飲みにいけよ」とかも言われたけど、そう言ってる本人たちも相方と飲みに行ってはないの(笑)。

ー 芸人さんのコンビって何だか熟年夫婦のような、不思議な関係性ですよね。
東城さん:そうだね、「解散しよう」って話しても、次の日はお互い仕事行ったり。この世界以外に行くところがあったら辞めてたかもしれないけど、芸人以外にやれる仕事もなかったしね。

ー じゃあ芸人さん自体を辞めようと思ったことはないんですね。
東城さん:ないね。先輩たちに恵まれたから、他に行こうみたいなことは思わなかった。

突然の相方/漫才との別れ

ー それで長くコンビを続けてきて、結局「解散」という形は取られたんですか?
東城さん:明確に「解散しよう」という話はしてないの。最初は僕が70歳の時に肺がんになって、手術のために8月-11月くらいの3ヶ月仕事休んでたの。その間相方がひとりで仕事をやるようになって、で年内はほとんど僕も休んでたから、年明けてから徐々にふたりの仕事あったらやればいいやって思ってた。そしたら、突然相方が年明けの2月に亡くなっちゃったの。

ー え...突然ですか?
東城さん:うん、本当に前触れもなく。大動脈瘤解離だって。僕も突然電話きてびっくり。だから結局、そのままふたりでできなくなっちゃったって形。

ー そうなんですね。昔ナイツの塙さんが何かで「Wモアモア師匠は喧嘩別れだ!楽屋でも殴り合いの喧嘩をしてた!」と話してたっていう記事を読んだんですけど、そういうことではなかったんですね。
東城さん:まあ殴り合いすること自体仲が良いしねえ(笑)。もちろん解散を考えた時期もあったけど、喧嘩別れとか仲悪いとかでは全然ない。

ー しんさんをお見送りするときはどういうお気持ちだったんですか?
東城さん:ほんとに半信半疑だよね。遺体を見て、ほんとに死んだんだなって。火葬まで行って、待ってる間家族が暗くなってた時に、「こういうネタやってたんですよ」って俺ひとりでやって。まあ笑わせるようなところでもないんだけどね。

ー いやいや、漫才コンビの相方の葬式でネタをやるなんて、カッコいいです...!
東城さん:まあほんとに突然漫才ができなくなっちゃったっていうのは、今考えても悲しかったね。

ひとりでも舞台に立ち続けて

ー しんさんが亡くなられて、おひとりで舞台に立つようになったんですね。
東城さん:本当は相棒死んでおしまいなんだけど、何で続けるかって言ったら、行くところがないんだよね。相棒死んじゃってから3人くらいは一緒にやろうって言ってくれる人もいたんだけど、73歳で新しくコンビ組んでもなあと思ってそれはお断りして。

ー 芸人さん自体を辞める選択肢はなかったんですか?
東城さん:でももう僕70超えてるし、他に仕事もないでしょう?今は落語芸術協会にも席はあるけど、噺家さんの世界にひとりで行っても失礼になるだけだし、、っていうので、だからここ(東洋館)だけ。漫才協会も今はほとんど元コンビのピンが多いよね。みんなそれしかやることないのよ。

ー おひとりになられてからはどういうふうにネタを考えられてるんですか?拝見させていただいて、結構最新の時事ネタなども取り入れられた漫談だとお見受けしたのですが...!
東城さん:テレビのニュースを何局か見て回って(各番組によって取り上げ方が違うので)、出番の日は早めに東洋館に来て、他の人が扱わないネタを喋るっていう感じ。結構被るのよ。今で言うと、大谷は絶対被るから外すね(笑)。

ー コンビ時代も、ネタはけんさんが考えられてたんですか?
東城さん:基本は俺がネタの種みたいなもの考えてたけど、あんまり台本とかなかったかな。「これやろう」って話して、あとは合わせながら作っていく形。まあ別にひとりだとできないとかじゃないんだけど、やっぱりふたりの方が喋りやすかったね。向こうが突っ込んでくれると思うからこっちも安心して喋れるし。ひとりだと、お客さんの反応がツッコミみたいなところもあるから難しいよね。

今回は、コンビ時代おふたりがよくネタ打ち合わせをしてた喫茶「ブロンディ」で取材させていただいた

ー 結構けんさんのスタイルはコンビ時代から毒舌ですもんね。ツッコミありきの感じはありますよね(笑)。
東城さん:笑いとるために相棒をいじり倒して、怒鳴ったりしてたからね。。すごい厳しい人だと周りから思われてたみたいよ。あんなに先輩にお世話になったのに、俺に寄ってくる後輩とかはいなかったね(笑)

ー お話させていただくと、全然そんなことないんですけどね...!穏やかで優しい方に感じます。
東城さん:舞台に優しさは必要ないからね。舞台上のキャラクターと日常の自分とは違うかもしれないね。

ー ちなみに、けんさんは今は舞台のある日だけ浅草にこられてるんですか?
東城さん:うん、そう。月のうち、前半2回、後半2回の計4回だけ。

ー それ以外の日は何されてるんですか?
東城さん:特に何もしてない。ニュース見たり、今だと甲子園とか。

ー 舞台に立つのは楽しいですか?
東城さん:うん、やっぱり刺激になるんじゃない?舞台に立つのは。まあ最近はできないことも多いけど、ウケると嬉しくなったりね。結果刺激が欲しくて続けてる感じかなあ。
本当は辞めるのが一番いいんだろうけど。自分でもわかんないんだよね、なんで辞めずにやってるのか。

「東城けん」としてのクライマックスとは

ー いつまで舞台に立つとか、先のことは考えてらっしゃるんですか?
東城さん:特に決めてないね。Wモアモアとしての結論は「相方が死んだ」ってことになってしまうんだけど、こっからは自分としての結論をつくんなきゃいけないんだと思うね。

ー そうですよね、舞台を降りる時が人生を終える時なのかどうか、、
東城さん:「俺はこれを残した!時代を作った!」っていうものがあるわけではないからね。この歳になるといつ死ぬかわかんないから怖いよね。自分の人生があと何日あるのか知りたい。さっき話した、相方の葬式でひとりで披露したネタも、そういう題材だったんだよ(笑)。

ー そうなんですね...!(笑)ちなみに、やり残したことはありますか?
東城さん:そりゃ漫才はもうちょっとやりたかったよね。

ー コンビ組むまでは難しいけど、ユニットとかそういう選択肢はないんですか?
東城さん:まあ漫才ってそんな簡単じゃないしね。今日組んで今日笑い取れるわけはないから。かといって一生懸命やったからウケる訳でもないから難しいんだけど(笑)。まあ人に勧める仕事ではないね。

ー じゃあ、生まれ変わっても芸人さんにはならないですか?
東城さん:芸人は嫌だなあ。ひとりでできる仕事、手に職がいいかなあ。漫才はふたりいないとできないからね。まあ、早く死んだ方が得だよね(笑)。

編集後記

私は人並みかそれ以上にお笑いも漫才も好きで、芸人さんにお話を聞く初めての機会に、緊張しつつもワクワクしていた。昨今のお笑いブーム、漫才ブームもあって、ネタやバラエティ番組での発言だけではなく、芸人さんの思想的なもの、いわゆる”芸人としての思いや人生哲学”のようなものに触れる機会も増えたが、私も例に漏れずこういったものを聞くのが大好きなので、「どんな話が聞けるんだろう」と楽しみにしていたのだ。

けれど、けんさんは思ったよりも「お笑いへの熱い想い」的なものを語られる方では無かった。芸人人生で楽しかったことなどを伺っても、先輩との飲み会や交流のお話が多く、あまり舞台や番組、ご自身のネタの話などに触れることはなかった。「まあ、そういう芸人さんもいるのだろう」という気持ちもありつつ、「50年もやられている方なら相当なお笑い熱がある」と勝手に予想していた私は、少し拍子抜けのような感覚もあったのかもしれない。

でも、取材から帰宅して、けんさんの取材の録音を何度か聞き直すと、なんだか”そうではない”気がしてきた。この記事は、私がけんさんのお話されたことを、届きやすいようにトピックを入れ替えたりして”編集”したものであるが、様々なお話を行ったり来たりするけんさんの発言の中には、常に「漫才愛」があった。お話をしている時間でいうと、その話題について触れている時間は長くはなかったのだが、全ての質問に対する答えが、「漫才愛」を軸に語られていることに気づいた。

特に、私がこの記事上では最後に書かせてもらった「生まれ変わったら」と言う質問について。第一声で「芸人は嫌だ」と言い切るけんさんなのだが、その真意を紐解くと、漫才が好きだから、相方とやる漫才が好きだったから、できなくなることが悲しくて、「(できなくなる悲しみを味わうくらいだったら)漫才・芸人はもうやらない」ということだったのだと思う。
これは、「究極の漫才愛」だと、私は思った。「大好き」と言ってしまうよりも「(好きなものを失うくらいなら)やらない」という表現の方が、より深く濃い愛だと感じた。

Wモアモアの漫才を、私も生で見てみたかった。今よりも生き生きと毒舌でボケるけんさんを、見てみたかった。もっと長く、ふたりで漫才を続けて欲しかった。そう思わずにはいられない。だが、それでもその悲しみを背負い今日も舞台にひとりで立つけんさんを、生で見ることができて、本当によかった。同時に強く、そう思った。

野澤 雪乃

けんさんと並んでパシャリ

取材/ライター:野澤 雪乃
編集:新野 瑞貴
撮影:中村 創
監修:後藤 花菜

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