自転車という魔物にとり憑かれて。
東京・上野に店舗を構えるスポーツ自転車専門店「横尾双輪館」。外観は新しく、2階にはカフェスペースも併設されているが、実は創業98年の老舗。店内には昔の名選手の自転車も飾られています。
以前の記事で取り上げた、ときわ台のおもちゃ屋フジヤの藤田さんが、横尾双輪館のオーナーである横尾さんを紹介してくださり、今回の取材に繋がった。
人生で一番嬉しかったことを聞くと、口を開けて大きく笑いながら話してくださった横尾さん。
1964年の東京五輪に競技委員として参加した横尾さんは、自転車という魔物を通して、どんな喜びを得てきたのでしょうか?
長男として家業を継ぐのは当たり前
ー 横尾さんは何きっかけで自転車屋で働き始めましたか?
横尾さん:親父が自転車屋をしてたからそのまま働き始めたって感じだね。僕は2代目。中学卒業後から働き始めて、高校は夜間学校へ行ったけど、日中は仕事を手伝わされて。これといった始めたきっかけなんてないね。
ー 中学卒業後すぐに働くのは当時だと当たり前でしたか?
横尾さん:当たり前だと思う。この辺の下町の子供は小学校へ出ると働きに行かされてた。僕は男6人の兄弟の一番上だったから親父の仕事を継ぐことになった。別に自分で選んだ仕事じゃないし、そういうもんだと思って今日までやってきた。兄弟の2番目は昼間の高校、3番目は私立の高校にいった。
ー だんだんグレードが上がってますね。
横尾さん:そうそう。4番目が夜の大学、5番目が昼間の大学、6番目は勉強好きじゃないから車の方にいった。子供が多いから、下に行けば行くほど就職のためにも学歴が上がっていったね。
ー なるほど。そもそもの質問ですが、横尾さんは自転車は好きだったんですか?
横尾さん:特に好きでもなかったね。ただ手伝うようになったときに、ちょうど後楽園競輪場が開設された。今はもうないけどね。親父が競輪用の自転車をもらってきて、競輪の練習をするようになったね。
ー 競輪!
横尾さん:高校時代にはインターハイと国体とかにも出てね。昔は競輪の選手って自転車の息子が多かったんですよ。正直、親父も僕のことを競輪の選手にしたかったんじゃないかな。プロにはなれなかったけどね(笑)
自転車はスポーツ!遊びなんだ!
ー 仕事を手伝い始めた時、世の中に自転車は普及してたんですか?
横尾さん:自転車は増えてきたけど、仕事に使う自転車だったね。
ー 仕事に使う自転車というと?
横尾さん:荷物を運ぶのに使う自転車。昔は実用車っていって、自転車と違ってそれが主だったし、メーカーもそれしかないんだから、日本は遅かったんですよね。僕は競輪をやってたりしてたから、遊びの自転車が欲しいなって思って。
ー 遊びの自転車は、例えばスポーツ用とかってことですか?
横尾さん:そうだね。ツールドフランスなんかも100年以上歴史があるけど、あれは遊びの自転車。やっぱり当時の自転車屋の仲間にも実用車じゃなくて、遊びの自転車を普及させたいと思う人が増えてきたんだよ。僕も遊びの自転車の価値を普及させようと思って活動していたね。
ー その当時からしたらだいぶ目新しい普及活動だったんじゃないですか。
横尾さん:だいぶ反発はあったよ。1958年頃、多くの自転車屋がオートバイを作り始めていて「自転車屋はこれからオートバイだ!」っていう時代だったからね。
僕らはその流れに反発して、オリジナルのロード自転車を作るようになったから。バカ息子って周りから言われたりしたね(笑)その当時、僕は30ちょっと前くらいだった。
やっぱり自転車はスポーツだっていうのを知らしめたい気持ちがあったのが大きいね。
東京五輪の写真集がフランスで評判に
ー ちょうどロード自転車を作ってるタイミングで、桑沢デザイン研究所に通われてたと年表にありますね。
横尾さん:兄弟とか親戚が印刷関係の仕事をしていたこともあり、夜間に通いながら、ちょっと勉強したんだよね。
ー 何を勉強していたんですか?
横尾さん:グラフィックデザイン。その経験が東京五輪で役立った。
ー 日本ではじめて開催された東京五輪!デザインスキルが東京五輪にどういかされたんですか?
横尾さん:東京都の競技連盟が役員を増やさなくちゃっていうので、台東区近辺の自転車屋に声がかかった。自転車競技の理事長が台東区にいたの。それで、僕も競技委員会を手伝うことになったんですよ。
ー 東京五輪の自転車競技委員!すごい!
横尾さん:その時に作ったのがこの写真集。先輩に「記録を残さなきゃいけないんだ」って言われて作ったんですよ。オランダが優勝した1964年東京五輪、自転車競技の記録。これが日本よりもフランスで評判になった。
ー 日本ではなく本場フランスで評判になったんですね!
横尾さん:有名な自転車雑誌の編集長をしているダニエル・ルブールさんが本で褒めてくれて、フランスで絶賛された。6ページにわたって特集を組んでくれたんだよ。褒められて、すごく嬉しかったね。
ー どんな風に絶賛されたんですか?
横尾さん:当時の日本の自転車は競輪がメインで、ヨーロッパ人からはギャンブルとして見られていた。その印象を変えたくて、競輪選手たちの真剣な表情にフォーカスを置いたから、「日本でもスポーツとして、自転車を好きな人がいるんだって思った」って書いてくれたね。褒められたことは今でもうちの自慢だね。
ー これは横尾さんが1人で作られたんですか?
横尾さん:桑沢デザイン研究所でグラフィック以外に写真も勉強してたから、写真は自分で撮った。競技委員をやってたから、公式カメラマンじゃなくても結構自由に写真を撮れたんだよ。
そもそも表彰式でさえ、今みたいに写真撮ってるカメラマンがいなかったくらい(笑)もったいないと思ってね。
文章も自分で書いた。デザインのレイアウトは学校の友達に優秀なのがいたから、その人に任せた。1人で作ったわけではなくて、親戚だったり同業者だったりが応援してくれて。色々なタイミングが不思議と重なった感じだね。
レジェンド選手の自転車が2台
ー これまで働いてきて記憶に残ってる出来事はありますか?
横尾さん:2人のレジェンドの自転車を手に入れたことかな。
1つはイタリアの「不死鳥」ジモンディが実際に使ったビアンキの自転車。もう1つはベルギーの「人食い族」エディ・メルクスが実際に乗ったロードバイク。東京五輪にも出てた2人の自転車。
ー 失礼を承知でお聞きするのですが、これらは相当なお宝なんですか?
横尾さん:ヨーロッパだと博物館とかにあるレベルだね。個人所有は多分いないんじゃないかな。日本のお客さんより、外国から来たお客さんの方が写真を撮っていくよ。
ー そんなすごい自転車、どこで手に入れたんですか?
横尾さん:話が長くなるけど、1980年はまだ日本でこういうイタリアのロードバイクを取り扱ってる店がなかった。
そんな中で、イタリアのメーカーの「ビアンキ」が日本のサイクルショーに自転車を並べて日本で売る代理店を探してたんだよ。そこでビアンキの自転車をうちの店で買い取った。子供車から大人車まであったから売るのは大変だったね。いろんな人に売るのを協力してもらった。
ー その時にもらったんですか?
横尾さん:そうそう。当時の商社は、こうやって買い取ってくれた自転車の販売店に対して、選手の自転車特典を出していたんですよ。委任状をつけてね。そもそも日本にあるっていうのが不思議だし、よく手に入ったと思うよ。
ー それはラッキーでしたね
横尾さん:タイミングがよかったんじゃないかな。この自転車もそうだし、オリンピックもちょうどタイミングいいし。一般的な自転車じゃなくて、スポーツ自転車専門店にしたタイミングもよかったんだと思う。あと10年生まれが早かったら、年齢的にできてなかったし、逆に20年遅かったら、若い人に任せようとしていたかもしれないしね。
自転車は魔物。とりつかれる
ー これまで仕事を続けてきて、やめようと思ったタイミングはなかったですか?例えば雑誌の編集の道に行ったり、自転車の開発にいこうとか。
横尾さん:そうね、他の道を選ぶまではいかなかったね。他のことを考える余裕はなかった。
やっぱりいろいろタイミングが合致したので、そういう良いチャンスを逃さなかった。
ー やめようと思うタイミングはなかったと。
横尾さん:やめてどうすんだっていうことになっちゃうしね。そういうとこまで頭がいかなかった。
ー 逆にあと何年続けたいとかもあるんですか?
横尾さん:いや僕はもう、来年90だから(笑)店の仕事は息子がやってるから、息子次第だね。
ー 最後に横尾さんが思う自転車の良さを教えてください。
横尾さん:やっぱり全身運動だからさ、身体にいいんだよね。腰は痛いけど、いまだに膝は大丈夫。自転車は身体にいいから良かったのかな。今はバランスとるのが難しくなってきちゃったけど、80半ばまではツーリングしてた。
ー 膝が丈夫なのは、自転車のおかげかもしれないですね!
横尾さん:自転車は魔物だよ。他の人も言ってるんだけどね。その魅力にとりつかれちゃう。不思議なものだよ。
取材後記
店舗紹介
横尾双輪館
〒110-0015 東京都台東区東上野3丁目1−14
営業日時:金~火曜日 10:30〜17:00
定休日:水・木曜日