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未知と理解との関係性

 未知という状況に僕はどれだけ立ち向かえているのだろうか。

そう思うことが、無駄に博識な知識での渇望と、自己保身への端的な足掛かりとして根本的な原因となっているのだろうと、思考回路の癖というか脳内ガイドというか、反射的な自問自答の合図となっているような気がして、掘り下げ気味の自己分析をまたしてもふとしてしまう無駄に冴えた深夜寝る前です。

健全な睡眠前には何も考えず、何も為さずスマホを裏に向け、明日を楽しみに寝てしまえと、あまりやる気のないマトモな部分の僕は言っている様子ではあります。

幼いながらに、自分の疑問を真剣に考えてくれる人は少ないと知ってしまったことが、いつからか予測と予想と当て勘と確信の独自訓練になっていたんだなと大人の僕は感心し、本を読むよう仕向けてくれた両親にはやたらと感動と感謝を心に留めています。

インターネットという大海を知ったのはかなり遅く、活版と人の中に潜るしか情報を得られない筈だった準少年にはなぜか、魅力的であるとともに背徳的な裏技ツールの様な、大口叩いて言えないくらいには後ろめたい、背中を丸めて隠すくらいのものでした。

しかしいつからかスマートフォンの台頭と共に万人共通の仮想現実として君臨し、情報爆発が人と全ての関係性を蹂躙しきった頃には、自由と正義の名の下に、未知への宿罪を背負うかのような、良く言えば好奇心旺盛な探求者への道のりを進んでいたような、そうでもないような気がします。

書きながらもなんかやたらと大袈裟だなと思う筆者本人ですが、噛み砕きつつ良く言えば調べグセがかなりあるというコトに尽きるということです。

結局本質心根は幼い頃のまま、ただ単に求める答えに近い何かを見つける手段を得た魚になったと、いい時代になりましたんでやたらめってら活用してますよと、それだけのことなんです。

もちろんそんなことが言いたいわけではなく、そんなことは遠の昔にわかってもいたことで、じゃあなんなんだというお話がやっとここから、面倒くさくて長くて煙に巻いたような言い回しの導入から始まることになります。

準くんはいつも結局なにを知りたかったんだろうか。

この疑問が出るまでに、随分長いこと生きてきたなと思いますし、結論らしい結論に納得したのはやっと最近なような気がして、自分という葦としての癖をなんとなくわかった気がして嬉しかったから筆を執ったという次第です。

ええ、単なる自分語りで御座います。

何を知りたくて何を答えてほしくて、何を考えていたのか、事例は様々でしたが共通項と本質は凡そ似通っていたんじゃないかと思い返すわけです。

それは結局、自己を相手が理解してくれるには?というある種根源的な、ある意味唯独的な、身勝手で煩雑な本質なのではと理解しています。

知らないことは理解しないと相手のことは理解できず、相手を理解しないと自己は理解されない、だからまずは相手の答えを求めるんだと、簡潔に述べるならこういうわけです。


 よくIQが20違うと会話にならないと言いますが、これはある種の誤解を生みます。

誤解とは、IQの高者と低者で会話にならないと判断に至る理由が余りにも全く、違うと思いきや本質は同じだからであると言うことで、つまるところコミュニケーションを諦めてしまった悲しい事件だと結論付けています。

考えている次元が違うとか、見ている世界が異なるとか、そんな低次元で当然な議論は的を射ておらず、単なる思考停止に過ぎない諦めの格好例は考えものです。

理解することを諦めてしまった、言葉を尽くすことを止めてしまった、自分の思想を押し付けてしまった、相手の感情と対立してしまった、話を逸らしてしまった、会話の目的を自分本位に変えてしまったなど、ディスコミュニケーションはいくらでもあり得る悲しい出来事だともう共通の見解になったかなと思いますし、思ってくれたら嬉しいです。

だから僕は最後までコミュニケーションを取りたいし最後には僕という考える葦を理解してもらいたいんだと、受け入れてほしいんだと、思います。

まあIQや頭の良さは結局グラデーションなので、一人の中にも分野や時系列で大きく変動しますよ。

だからIQ20違うから会話が通じないとか、ダサい諦めの言い訳なんかしてないで、究極まで対話と会話を擦り付け合う憎たらしいコミュニケーションを、骨の髄まで疲れ切ってもいつまでも、僕を理解してくれるまで続けましょうと、主張をするわけです。

最後まで受け入れてくれる相手と自分は、共により高みへ向かっていることに他ならない存在だと、最大限の感謝を心に留め、決してネガティブキャンペーンなんかしないように。

バレますから。



以下、的確なChatGPT4oの要約。

筆者は幼い頃から自身の疑問に対して真剣に考えてくれる人が少ないと感じており、そのため独自に知識を追求してきた。情報を求める手段として本を読むことやインターネットを活用するようになり、その結果として博識な知識を得ることができた。しかし、本質的に求めていたのは「自己を相手に理解してもらう方法」であり、相手を理解することで自己も理解されると考えている。

筆者は、IQが異なる人同士のコミュニケーションが難しいとされるのは誤解であり、理解する努力を放棄することが問題であると主張する。最後までコミュニケーションを続け、自己を理解してもらうための対話を大切にし、ネガティブな態度を避けるべきだと結論づけている。

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