ボーカル音程補正のお話
思い立ったことを書き殴る場所をつくろうと、28年生きている中で何度か思ったりはしましたが定着せず、今回も飽きて仕舞うのかなとぼんやり考えつつも急に思い立っては戻ってくるいい場所になるのかもしれません。
今回は端的(?)に、僕の思考の癖を感じつつ音程補正について語ってみようかと。
広いけど停めづらい駐車場と狭いのに停めやすい駐車場、直感に実感が伴わない事は多々あります。音程という概念を大きく捉えるために駐車場をイメージしてみようと思いますので、今日の限りではそうしてください。
要は駐車場の枠線内がドだったりラだったりするわけであります。
枠線の右端っこに留めてもド、真ん中でもド、はみ出ていても、んーシに近いけどド、みたいな感覚です。
それで何が言いたいんだというと、CDとかMVの音程補正って実際どうなん?って問いを深掘りしてみようかな、なんて思ったりしているわけです。
理論的に理解ができるかはさておき、現代世論ではピッチ補正・ボーカルエディットは正義のポジションを得ている様です。
つまりはポピュラーミュージック界において議論するまでもない当然の感覚であり欠かせない工程で、省略の余地はないということです。
ここには色々な思惑と理想がありますが、これに否定したい人は2パターンに分かれるのでは無かろうかという発想から話を始めます。
つまり、音源補正は大前提として肯定のすり込みがある上で、どんな立場で否定しているのかを考えてみようと思います。
1つ目のパターンは単純明快、音程補正の概念を知らないというもの。
知らないというだけでは踏み込みが足りない気がしますので、ボーカル編集を懐疑的に感じている、偽物のように感じるといった声がこの具体的な例になりそうです。
近頃SNSで見かけた、"The First Takeピッチ補正疑惑"を取り沙汰するようなパターンはコチラにどうぞというところですね。
批判はさて置いて、無知を断じたいのではありませんので悪しからず。
無知の知のショックが反動的に否定へと走る例を、1つ目のピッチ補正アレルギーとして評ってみようというお話です。
心地よい音程でCDを出しているアーティストが実は下手っぴだという事実には人類皆、大なり小なり悲しむなり喜ぶなり驚くなり、ショックを受けることになるでしょう。
音程補正しょーもな、と思ってる人は意外にこのパターンが多いんじゃないでしょうかね。
補正技術を嘘っぱちだと思われるのは心外かもしれませんが、そんな技術があるのかという知の衝撃は時に裏切りのように感じるのでしょうね。
2つ目は、音楽性の偏りと勝手に呟いておる事柄。音程のズレも生身のタイム感も大切な音楽の要素だという説と、音は波であり物理だという派閥は、相反するようで中々に議論の的となります。
この感性と理論の対立が火花を散らす様子は、ある意味尤もで、ある意味滑稽だと僕は思い続けているのは、僕が音程補正をする側の最たる例だからかとは理解しているつもりです。
天才は編集をしないという言葉は、あなたには理想か暴論か、どう聞こえますか。
音程を巡る、芸術性の繁栄と技術の発展の共存があたかも確定的対立事項であるかのような誤解こそが、何よりも悪しき勘違いなんだと我々の想像の範疇で判断してみましょう。
そもそも真っ向から対立してはいないという事実は言われてみれば当然、しかし途端に何故か良し悪しの対立構造にしてしまうのは、安易な論点に過ぎないからのでしょう。
それではなぜ安易な論点に飛びつくのか、という論述展開はあまり音楽的ではなく、溜め息ばかり聞こえる結末の想像が容易いので気安く避けておいて、それでもなぜこの感性と理論の誤解的対立構造に囚われるのかと考える、説明されても解くことのない引っ掛かりを感じ続けているというのがリアルなポイントなのではないかと思います。
言葉が少なすぎましたね、砕けて言ってみれば、"それなんか嘘っぽい" vs."なんか下手っぽくない?"の諍いなんだと思うと、少し腑に落ちるんではないかと思うわけです。
歌い手のリアルが聞きたいのか、それとも良い音源が聞きたいのか、という構造に素因数的な具体化ができそうですね。
でももう一歩、造り手側の視点を汲むことで色々な意図が見えてきそうな感じがありませんでしょうか。
このとき、"どう聞かせたいのか"と"なにを表現したいか"の大きな要素がつくり手には在るように、それが意識的にしろ無意識的にしろ、"自分にはこう聞こえる"というパーソナルなパロメーターが何らかの要素に引っ張られ偏りを生んでいることは想像しやすいですね。
この偏りが無数にあって、影響力も大小様々なカオス化された水面下から生まれる判断を、感情の露出と捉えるには些か肯定的過ぎる場面もあるでしょうが、芸術として迎え入れ易い動機があります。
こうして芸術なのだから保護しなくてはいけないという儚げな理想が、音程補正を避ける正体だと昇華できるというお話でした。
別アングルとして音程補正には、歌唱技術の未熟さを芸術と認識する危なさも孕んでいるとも言えるでしょう。
リスナーには制作工程が見えない以上、つくり手側の意図は知り得ませんので、理想なのか妥協なのか判断できることは少ないでしょう。
これも一つ、音程補正が嘘臭さと言われる所以かもしれません。
そして、曖昧な音程補正は音楽性を欠いていくという見解も全く無理筋ではないことを明言しておくべきなのでしょう。
そもそも論、ピッチ補正とは道具の一種ですから応用範囲にエリアがあります。
魔法ではなくツールとして、音楽性を高める工具を最適な範囲で用いるということに過ぎないわけです。
この最適な範囲こそが、"つくり手の意図"に他ならないんでしょうね。
The First Takeもエンターテイメント供給者としての意識が介在しているわけです。
音程補正は駐車場の枠内に乱雑に停められた車たちを上からクレーンで整理するかの如く、別アングル的技術な訳ですから、多角的にその役割を考えてみたいものです。
整理に失敗すれば車に傷がついてしまうかもしれませんが、音程補正の良いところはやり直しが無限だと言うことです。
時間というリソースさえ注げば、納得のいく光景まで連れていってくれることでしょう。
余談的ではありますがこの駐車場を作るのは勿論、作曲者のお仕事です。
立地・素材・色・ライン引きと、環境が整えられてから駐車場として動き始めます。
駐車をするのは歌手、それをクレーンで上から整理してあげましょうというのが音程補正ということにしておいてください。
作曲者と歌い手は音程補正に明るくあるべきだと思っていますし、エディターは作曲と歌唱のメカニズムを突き放すべきではないというのが僕の有り体な持論です。
最後まで立場をハッキリ明言しない文章でしたが、考察としてはいかがでしたでしょうか。
持論としては単純明快、ボーカルエディットをしない努力とアテにする練習をしなよと、どっちつかずな結論を置いておきます。
そもそも感性と技術は、両立しますからね。
折角現代人なのですから、どちらも突き詰めて最高の音楽性を表現することに邁進するほうが、よっぽど有意義ではありませんか。
音程操作程度で判断できるほど音程という概念は単純ではありませんよと、分かった風な言葉を遺して終わりにしましょう。