株式会社エニックス(現スクウェア・エニックス)が1988年2月に発売した、任天堂ファミリーコンピュータ用のゲームソフト。日本の大衆にRPGを実質的に紹介した『ドラゴンクエスト』シリーズの3作目で、同シリーズの中でも代表作。「ドラクエ3」と略される。
本作のヒットは社会現象となり、品不足によるゲームショップ前の長蛇の列や、本作を路上恐喝する事件が複数発生して「ドラクエ狩り」などと大きく報じられた。「ゲーム強盗」などとして、本来被害物であるドラクエ3を元凶のように書き立てる報道もあった。
当時ゲームファンであった精神科医の香山リカ氏は、著書『テレビゲームと癒し』の中で、この現象を批判している。
さらに1988年7月8日、14歳の少年が両親と祖母を殺害した事件が発生した。
これについて同月27日、作家の藤原新也が「奇妙に『ドラクエⅢ』と一致 虚構と現実を侵す?」と題する論説を『朝日新聞』に発表。
「凶器調達の発想をドラクエ3に得たのではないか」「テレビゲームと同じスタイルで現実を補足しようとしたのではないか」と空想をぶち上げた。
なぜドラクエ3なのかというと、少年が凶器を複数用意したことがドラクエ3に似ている、また犯行にあたって友達に電話で「今日やるぞ、来い」などと声を掛けていたのだが、ドラクエ3の仲間システムと同じだというのである。
以下その記事の全文である。
藤原の意見はいくらなんでも短絡的である上、ゲーム内容の紹介も、自分でやってみた体験に基づくと言っている割には、「出立のとき、百種類もの武器の中から任意に(略)選んで身につける」だとか、おかしな発言が見られる。ドラクエ3の武器は周知のとおり、冒険の途中で順次手に入れていくものであって、出発時にすべての武器の選択肢が与えられているわけではないし、そもそも百種類もない(ファミコン版では33種類)。主人公(勇者)には装備できないものを含めてもである。
また「主人公である『私』」という表現も繰り返し登場するが、これは私小説などを引用するとき「作中では『私』と呼称されている主人公」のことを指すときに使われる言い方である。ドラクエ3の主人公は一言も喋らず、自分を『私』と呼称するシーンなどもちろんない。
しかも「ドラゴンクエストⅢでは主人公の『私』は三人の友人を戦闘の旅の道連れにするのだ」とも書いているが、ドラクエⅢの仲間は専用の施設「ルイーダの酒場」で募集して初めて出会うのであり、もともと友人だったわけではない。
さらには、ボタンしかないはずのファミコンのコントローラーについて「レバー」と称するなど、藤原氏がファミコンそのものを持っていないことを伺わせる。おそらく若者がゲームセンターで遊んでいる場面を見て、ゲームは皆レバーで操作するものだと誤解したのであろう。
これらの記述から、そもそも記事中の本作をやってみた体験なるもの自体が、導入のための【嘘松】であることが強く推認されるものである。
香山氏は前掲書のなかで、この記事を読んだときのことを「ついに来るべきときが来たのかというショックを。私は今でも鮮明に覚えています」と述懐し、後々まで続くメディアによるゲーム批判のはじまりとしている。
なおこの記事には後日「アンサー」的な投書が朝日に掲載されている。が、極めて奇異かつ、該当する作品がゲームファンにも思い当たらないような内容で、作り話である可能性が高い。
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