『遺族論序説』2023-05-27
※タイトル画像:フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス」より
『推しの子』問題について、表現の自由派や作品のファンのあいだで、意見の分かれている問題がある。
『推しの子』問題そのものについては、センサイクロペディアに纏めておいたので参照してほしい。
遺族だからしょうがない
今回のバッシングを始めた木村響子氏に対してどのように対応するかについて、意見が分かれているのだ。
かなり多い意見の一つが「彼女は自分の娘が死んで辛さのあまりのやらかしだからしょうがない」というものだ。
しかし、本当にそうだろうか。
木村響子氏のやらかしは、本当に娘への深い愛情、娘を失った痛切な悲しみをのみ原因として想定するべきなのだろうか。
原点に返ってみよう。
遺族とは、家族の対象者が死んだバージョンだ。Aという人物が死んだとき、Aの家族はAの遺族となる。
言い換えれば「私は親です!子供のことを心配していってるんです!」と言ってくる規制派と本質的には同じなのだ。
じゃあ、彼ら「子供を持つ親」の言っていることは、本当に子どもへの愛情ゆえに、子どもを心配していっているのが本心だっただろうか。
むろんそうではなかった。
代表的なものがこれである。
一般のツイートでもいくらでも見たはずだ。
ほとんどつねに、表現規制は「子供のため」を旗印にしてきた。
悪書追放運動も、有害コミック騒動も、児童ポルノ法も、香川ゲーム条例もつねにそうだった。
「子供のため!」「子供が危ない!」「子供に見せられない!」
今現在もフェミニストをはじめとする表現規制派は、創作者へのキャンセルのためにその言葉を繰り返している。
しかし彼らが自身がその「子供に見せられない」はずの表現を、キャンセルの仲間集めのために、子どもが使えるツイッターで毎回拡散しているのを見れば、誰一人本心からそれらを「子供に見せる」ことを危惧していないことは明白だ。
そう、彼らの「子供への気持ち」なんて嘘なのだ。
その子供が実在するかしないかにかかわらず。
実際には彼らの動機は、オタクへの差別意識や、若い世代への優越願望、あるいは規制を作ることによってメリットがあるからである。
そして、引っ込みがつかなくなったり、論破されたことが悔しかったりしてさらなる醜態を繰り返す。
「子供のため」を自称する表現規制派の、それが実態である。
しかしそうであるなら、なぜ遺族の場合は、急にその「子供への気持ち」を真摯なものだと解釈しなければならないのだろうか。
自称・子供のために声を上げる親と、自称・子供のために声を上げる遺族では、ただ単にその子供が死んでいるというだけの違いしかないではないか。
彼らの心は、子どもが死ぬと急に卑小な欲望や偏見がなくなり、純粋なる「被害者遺族」へと変身するのだろうか。
そんなわけがない。漫画やアニメの中では、家族を失うと主人公がパワーアップしたりするものだが、現実ではそうはいかない。仮にひどいショックを受けたとして、冷静さや思考力が失われるだけだ。心のスーパーサイヤ人なんていないのだ。
彼らが「遺族」になったからといって、醜い動機が消えてなくなるわけではない。
それなのに「被害者遺族」は神聖不可侵なものであり、子どもへの想い以外の動機は彼らの心理には存在しないものとして扱わなければならないという思い込みが、表現の自由派の中にさえある。
しかしそれは、まったく不合理なものだ。
今回の木村響子氏にも、こういう感想を抱いた人がいる。
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