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『オタク差別は存在しない? 藤田直哉の「属性」デマ』2024-12-27

※タイトル画像:弘文社『社会学事典』

「オタク差別は存在しない」という人がいる。
 大抵そのような主張をする人は、いわゆる左派とかリベラルとかいう部類の人間で、彼らごひいきのカテゴリ――「女性」だの「韓国人」だの「LGBT」だの――に対する差別認定はゆるゆるで、どんな無理な理由でも女性差別は認定できることになっている。なにしろ単なる萌え絵のポスターでも「女性差別」なのだ。
 しかし、オタク差別は認定してはいけないらしいのである。
 不思議な話だ。

 その不思議を誤魔化すために彼らは色々な思いつきの理由を挙げるのだが、筆者の知る限り、それらの中に、既に「差別である」と認められている○○差別と論理矛盾を起こさないものは一つも無い。
 すなわち、オタク差別が存在しないという理由はどれもこれも、既に認められている他の差別をも否定せずにはおらないのである。

 その「オタク差別否定チャレンジ」に新たな挑戦者が現れた。
 藤田直哉という人物が、こちらの文章をひっさげて挑んできたのである。

 ポストがリンクしている文章はこちら。

 この文章では、次のような理屈でオタク差別の実在を否定している。

フェミニズムによる批判に反発する「オタク」が、「オタク差別」について言挙し、その苦痛を訴えかけたときに、反差別の人々が「オタク差別は存在しない」と言い、感情的な反発を受けることがある。これも、「オタク」は属性ではないので、定義上、「オタク差別はない」という結論にならざるをえない。

 だ、そうだ。
 リンク先では、大した長さでもないのに何度も何度もこの同じ主張が繰り返されている。

主観的にはつらく、それを「差別」の問題だと誤認してしまう。実際、バカにしたり排除する点において、「差別」と構造は似ているのだ。しかし、差別は「属性」によるものと定義されているのだから、これは「差別」ではないと否定されてしまう。実際、定義上は、差別ではないのだ。

「属性」ではなく、従って「差別」ではないが、傷つきが蓄積する「排除」

繰り返すが、「オタク」は属性ではないので、「差別」とは言えないのだ。

 オタク『属性』ではないのだから、従って『差別』ではない――この論理を成立させるためには、次の2つの条件が満たされなければならないことは一読しておわかりと思う。

1.差別とは「属性」をターゲットとしたものだけであり、そうでないものは差別ではない。

2.オタクは「属性」ではない。

 さて、まずは属性とはなんなのか、この文章ではどのようにその定義を紹介してくれているだろうか。
 答えは「ない」である。
 なんと藤田氏の文章では「属性」の定義を一切示していないのだ。

「そうはいっても、この文章には『第2回』とあるじゃないか。そんなのは第1回でとっくに書いてあるんじゃないの?」

 いや、私ももちろんそう想像して確認した。
 しかし驚くべきことに、第1回を読んでも、属性の定義なんてそんなものは影も形も書かれていないのである。

「え……じゃあ、もしかすると『差別は属性が相手じゃないといけない』ってのは、専門的には当然の前提だったりするのかも……」

 では、実際に流通している差別の定義を確認してみよう。
 『新社会学事典』(有斐閣)にはこうある。

差別 discrimination
生活者が、あるカテゴリーの人々に対して、忌避・排除する行為の総体をいう。この場合、①行為全体が排除の意識性格からは問わない。②カテゴリーが実在意識の産物かどうかは問わない。③行為客体が個人の集合か個人かは問わない。現代日本における、この種の代表的なカテゴリーとして、被差別部落、障害者、在日韓国・朝鮮人、女性、アイヌなどがある。すべて、偏見に基づく負の意味づけにより、非対称的に「しるしづけられた」ものである。これは、「遠ざけ」る方向と「見下す」方向を同時に含む。ここに、忌避・排除の契機がある。社会の常識的な秩序には、忌避・排除行為が日常生活に存在する事実を歪曲し隠蔽する、さまざまな権力作用がはたらくとされている。「近代市民社会」幻想に基づく「均質なる個人」を前提とした「平等主義規範」の言説が、その典型である。この種の言説が、差別が「ある」のに「ない」ことにしていく役割を果たす。差別の正当化にもつながる。→差別問題、偏見、少数民族問題
[文献] Simpson, G. E. & Yinger, J. M., Racial and Cultural Minorities: an analysis of prejudice and discrimination, 1953.
◆江嶋修作

有斐閣『新社会学事典』1993

 ここでは「差別」という言葉を非常に広く取っており、その対象になるのは「あるカテゴリーの人々」という事実上無限定なものとなっている。
 その直後に書かれている①~③の注意も、どれも差別の定義を狭くするようなものではない。むしろ「○○だから差別じゃない」という話をシャットアウトする目的で書かれているようである。
 ①の「意識的か無意識的か問わない」とは「差別のつもりじゃなかったの」という言い訳を弾くものだし、②の「カテゴリーが実在か架空か問わない」とは、実在しない(たとえば魔女)ものからの防衛や退治を掲げて行われる差別行為を排除しないという趣旨であろう。③は、差別の例を挙げられた場合に「そんなのはそいつ個人がやったことで、社会的に差別があるわけじゃない」という言い逃れを封じたものだ。
 いずれも、差別の定義を狭くして差別者認定を逃れようとする試みの逃げ場を封じるような注意となっている。言い換えれば、こうした方法で差別の定義を狭めようとする試みが常に行われてきたということでもあろう。

 そもそも最初の一文を見ただけで、藤田論がいかに的外れなものであるかが分かる。
 なにしろ藤田氏はオタク差別を、前述のとおり

「差別」ではないが、傷つきが蓄積する「排除」

 であると分類しようとしたのだが、『新社会学事典』にはまさしく「あるカテゴリーの人々に対して、忌避・排除する行為の総体」とあるのだ。
 排除は差別なのだ。
 したがって、排除であって差別とは別のものだ、という藤田論は最初の一文で完全崩壊しているといってよい。

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