『善とフェミニズムは、なぜ両立しないのか(1)』2022-07-18
フェミニストは、常に綺麗事を言って他者を攻撃する。
しかしフェミニストの場合、その綺麗事が本音であることはない。「決して」と付けてさえ、それほど誇張ではないだろう。
それはフェミニストによる「炎上事件」が起こるたびに、彼女らの発言する「批判のポイント」が毎回矛盾することで分かる。
フェミニストは「女性」や「未成年」や「性被害者」を守ると口先では言っていながら、自分達のクレームがまさにその当事者に迷惑をかけたとしても心を痛めることは決してない。
ましてそのことに当事者が抗議した場合、フェミニストは絶対に反省することはなく、集団でその当事者を攻撃し、なんとか沈黙させようと侮辱や嫌がらせを繰り返す。そして誰一人、当事者を庇いはしない。その当事者を別の女性が庇えば、今度はその女性に矛先が向かう。
フェミニズムの矛先が、である。
そうした当事者や女性を庇うのは決まって「性差別者」であるはずのアンチフェミの側であった。
またフェミニズムによる炎上に対し、「謝罪」をしてしまった当事者や、庇った女性達がどういう目に遭うか、我々はよく知っている。
フェミニストはそこで矛を収めることはない。
相手の謝罪はフェミニストにとって「相手が悪かったという証明」であり、「だから幾ら叩いても構わないのだ」という殺人許可証なのだ。
その最悪の例が歴史学者の呉座勇一氏であり、下着メーカーのアツギ社である。
謝罪に追い込まれた当事者もまた、「女性」や「子供」や「性被害者」と同じように、弱者である。
その弱者に対してフェミニストは全く容赦することはない。
フェミニズムは女性による平等を求める運動だということになっている。
にもかかわらず、そこには平等や公正さによって生じる自分達自身の負担に対する覚悟は言うまでもなく、弱者に対する思いやり、優しさ、愛情もまったく存在しない。
早い話が、フェミニストは自称と180度逆の「大嘘つきで、弱者に対して酷薄な悪人」ばかりの集団だということである。
残念ながら事実だ。
彼らによるクレーム攻勢をウォッチしている者はみんな知っている。
しかし、なぜなのだろう?
フェミニズムは「弱者救済」しない
大前提としなければならない事実がある。
女性は本来、優しくもなければ思いやりのある生き物でもないということだ。ひとまずはこれを相対評価として聞いて欲しい。
伝統的家族像に親しんでいる人には、女性は思いやりがあって優しいのが基本的性格なのだと思っている人が多い。
だが、なぜそう思うのだろうか?
それは伝統的家族像において、育児などのケア的役割が割り当てられているからだ。
しかし、それが本当に女性の、たとえば「母性愛」などという本能に基づく性質なのかというと、そうではない。
これはミソジニストだけではなく(ミソジニストの一部はむしろ母性愛本能説を信じているかもしれない)、フェミニスト自身が言っていることだ。それを主張する本だってある。
ここでは同書の内容に深く立ち入らないが、フェミニスト自身も「母性なんて神話だ!」と強く主張しているということだけ理解してもらいたい。
では、なぜケア的役割は女性に割り当てられたのか。
男性社会によるイデオロギー、という答えは不完全も不完全だ。「○○神話の原因は社会によるイデオロギーだ」というのはほとんどトートロジーでしかない。
それは単に、より過酷で、危険で、負担の大きい仕事をする能力において女性が劣っているから、男性がそれを負担している間の後方支援が「弱い方」に任されたというだけの話なのだ。
友達二人でオンラインRPGを遊ぶところを想像しよう。
2人の使うキャラクターは両方とも戦士で、片方がレベル3で、もう片方はレベル10だとしよう。双方とも魔法は使えず、打撃攻撃ばかり。回復は薬草を使うしかない。
どっちが回復役に回るだろうか。
もちろん、弱い方である。誰が使っても効果が同じ薬草はレベル3の戦士に任せ、優れた腕力を持つレベル10の戦士が攻撃に回った方がはるかに効率的だ。
男女の性役割も、おそらくは同じように誕生したのだろう。
女性には、男性に比べて積極的な優しさや思いやりがあるわけではないのだ。
だが、フェミニストの弱者に対する異常な酷薄ぶりは、どうもそれだけでは説明できそうにない。
実はそこに女性の本能が絡んでいる。
性選択の帰結
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