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『宗教的なものを壊す表現(1)』2025-02-24

 ゲーム『ASSASSINS CREED SHADOWS』に対して、新たなテーマで批判が集まっているようだ。

 このシリーズでは作中で様々な建物や物体を自由に破壊できるし、モブキャラを襲ったりできる仕様になっている。
 その破壊できる建物の中に、実在の神社の形状をそのまま使ったと思われるものがあったという話である。
 件の神社は、兵庫県姫路市にある射楯兵主神社。世界遺産・姫路城のすぐ南東にあり、地元ではかなり存在感のある神社のようである。

 さて、このことを得て「弥助問題」以来この「シャドウズ」を批判していたXのアカウント達は勢いづいている。
 とりわけ
・過去作でヨーロッパの聖職者は殺せなかったし十字架など破壊できなかった宗教物がある
・今作でもヨーロッパ人の商人は殺せない
・にもかかわらず日本人相手は一般人でも神職でも殺せる

 といった点で、人種差別表現としても騒がれているようだ。

 実際には本作が未発売であることもあって、情報はあくまで公開された一部の動画から来ており、画面を詳細に見ると、
・神社の祭壇は破壊できても鏡(御神体と見られる)はプレイヤーの攻撃で壊れていない。
・神職もプレイヤーの攻撃(矢)を喰らって逃げ散っており、間違いなく殺せているシーンは未登場。
・殺せない商人はヨーロッパ人だからでなくゲーム上の必要性(要するに道具屋を殺してしまうとゲームに支障が出るため)である可能性もある。

 といった指摘も出てきている。

 しかし「宗教的崇拝の対象を傷つける」のが良くない、というこの大義名分は、シャドウズ批判のための新たな武器、それも一、二を争う強力な武器になるように彼らには思えたのである。
 「信仰心を傷つける表現だ」ということが表現の自由の例外になるという感覚の人は少なくないからだ。

 しかし、ここでちょっと落ち着こう。

 宗教的信仰心を傷つけるということが、表現の自由に遠慮させる大義名分になるということは、全くの大間違いである。
 そもそも日本国憲法は、神道と結びついた軍事国家からの解放を意識して作られている。天皇は神道上の神の子孫、いや神そのものですらあり、国の方針とはその天皇の教えであるから、反抗したり「不敬」となるような表現は許されなかった。
 それを恣意的に活用して(もちろんそれだけではないが)軍部は日本人を抑圧して戦争に駆り出していた――というのが、まあ左翼的というか教科書的な言い方である。
 連合国側というかアメリカの都合で、日本が再び一致団結して刃向かってこないための抑止力として、学問や言論、結社、ひいては「表現」全般を擁護し、再団結(軍国主義化)の動きに自動的に歯止めがかかるように仕向けた、とそう言ってもいい。

 ようするに宗教や信仰を、自由な表現による批判や揶揄から除外するということは、日本国憲法的にいっても本末転倒なのである。

 別に日本と神道だけに限った話ではない。
 欧米を見れば、地動説でも、進化論でも、LGBTの権利についても、宗教こそが表現の自由の最大の抑圧者のひとつであり、人権というシステムの根幹に「宗教という抑圧」からの解放が強く意識されている。なぜなら直接の抑圧者である国王が、王権神授説という形で宗教を盾に取っていたからだ。
 イスラム圏に至っては現在進行形で言わずもがなである。

 宗教からの自由なくして、言い換えれば宗教を批判・揶揄・侮辱・冒涜する自由なくして、表現の自由はありえない。

 今回の稿では、実際のゲームでどの程度日本の宗教関連のキャラや事物を壊せるのかは措いて、壊せる&殺せるのだという批判側の主張をひとまず前提にした上で、それがフィクションとして実際にそれほど許されない表現であるかという前例を見てみたい。

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