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『PTAからフェミニズムへ』2023-01-31
性表現にクレームをつけてくる女性といえば、今では即フェミニストというイメージである。
だが、かつてその位置を占めていた代表的なイメージは、御存知のとおり「PTA」だった。
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表題作初出は1960年代
つまり「母親として」の立場を笠に着て、それを神聖化しながら性表現や「俗悪メディア」を殴ってくるオバサン達である。
当然ながらこのような立場は建前上、フェミニズムとは相容れない。
フェミニストといえば建前上は「ジェンダーロール」「家父長制」を不倶戴天の敵としている、ことになっている。
一方でPTAオバサンはそもそも「母親としての責任」を振りかざして性を叩いてくるのだから、男女のジェンダーロールに基づいた各労働によって成立する「家父長制」に、がっしりと根を張った存在であるといえる。
いわば立場からして「保守的」である。
こう書き起こしてみると、水と油のごとくPTAとフェミニズムは立場が異なるように見える。PTAオバサン達は活動した時代のせいもあって、2010年頃まで表現規制の主流派であった「保守派による表現規制」の女性軍であるかのようにイメージされている。
この時代までは、表現規制は保守派がやるものであり、今リベラルと呼ばれている連中のほうが表現規制反対派という構図であった。昨年末に少し話題になった山本直樹氏のインタビューなどはその当時の「常識」がアップデートされていないがゆえの、はっきりいえば時代遅れの認識を吐露したものといえる。
が、これほどまでに根本的な立場が異なる(はずな)のに、かつてのPTAと現代のフェミニストの言い分は、まるで双子のように似通っている。
しかしこれはまったく不思議ではない。
そもそも性表現規制となると、それこそ石原慎太郎に代表される男性権力の権化みたいな家父長制オヤジと平気で共闘するのがフェミニストである。これは日本だけではなく、欧米でも指摘されている現象である。
つまりそもそも、彼女らに思想的一貫性や論理性を求めること自体が間違っているのだ。
こうアプローチを変えれば疑問は氷解する。
「女性による表現規制意見」というのは、何らかの理屈によって根差した理由があるから性表現規制を論理的に選んでいるのではなく、根本理由は単なる感情的嫌悪のみがあり、全ての理屈はその言い訳に過ぎない、ということである。
私は「宇崎ちゃん献血ポスター事件」のとき、彼らの言い分を漁り、それ以前のフェミニストの主張に照らしてどれほど整合性がないかチェックしたことがある。
内容はこちらの記事を読んで欲しい。
そしてここに「フェミニズム」が思想として無意味である理由がある。
なにしろ本人達すら自分達が言う「批判のポイント」を基に動いてなどいないのだから。
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