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ばあちゃんの遺産整理。僕はトラックの前で3万円を握り泣いていた。
36歳の僕は、涙を流していた。
いや、正確には、涙が自然と溢れ出ていたのだ。長野県諏訪市の片隅で、解体を控えた祖母の家の前に立ち、ゴミを積んだトラックと共に、手には3万円を握りしめながら。
2024年4月、僕のばあちゃんが天国に行った。享年99歳だった。
ばあちゃんが亡くなる4時間前。それは20時頃だった。僕は、最後の息をするばあちゃんを目の前にしながら、「ありがとうね。頑張ったね。」と声をかけていた。
お医者さんは、明確なことは言っていなかったが、今夜が最期だということが僕にはなぜか分かっていた。
「ばあちゃん、悪いけど一緒に写真撮るよ。苦しいだろうけれども。」僕と姉ちゃんとそしてばあちゃんと最期の写真を撮った。
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ばあちゃんの家は築90年だった。戸は歪み、階段は急で、家屋の木材は年季に包まれている。長野県諏訪市という田舎ではあるが、人口は少なくないその町で、ばあちゃんの家だけが異様な年季に包まれており、まるでタイムスリップしたかのようにそこに立っていた。
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はやくに一人になったばあちゃんの人生
ばあちゃんの娘、つまり僕のお母さんは、一人娘だった。
お母さんは、僕が10歳の頃に40代前半という若さで、蜘蛛膜下出血で急逝した。
「お母さんは入院してるから。」と父に連れられて行った病院で、まさに、今から息を引き取ろうかと植物状態の姿の母が今でも脳裏にこびりついている。入院というニュアンスにはいろいろな状態があることを10歳の僕は知った。
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一方で、おばあちゃんは入院をしてからも長く命をまっとうした。コロナがはじまるまだ前。それは92歳くらいだっただろうか、脳梗塞で入院をしたが、一命を取り留め、その後は養老院で余生を過ごすことになった。
ばあちゃんは不幸なことに旦那にも早くに先立たれていた。だから、一人娘である僕のお母さんを頼りにしていて、いつもは家でこたつに入って過ごして寒い諏訪を過ごしていた。
一方で、よく御詠歌というお寺(?)の会合の楽団で活動をしたりカラオケに行ったり、旅行に行ったりと、活発なばあちゃんだった記憶がある。どんな環境でも人生を謳歌している様子だった。
そんなばあちゃんと残った家族との間に亀裂が入る出来事があった。お母さんが亡くなった後、僕の父と犬猿の仲だったばあちゃんとは家族ぐるみで疎遠になった。僕の兄弟たちとも疎遠になっていったけど、そんな中で僕だけは、大きくなってもばあちゃん子だった。
大学に入ってからとか、新卒で入った会社を辞めて起業をした時とか、何日も家に泊めてくれて暖かく見守ってくれていた。
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ばあちゃんはとにかく話すのが好きな人だった。僕が行くと、一日中話をしていた。ぼくはそれを”マシンガンおばあちゃん”と思っていた。じいちゃんとお母さんの墓に行く時、きつい坂を登るその間もひたすら喋り続けていたもんだから、息をあげながら喋り続けるばあちゃんの姿がおもしろくて記憶に残っている。
思い出は「ただの解釈でしかない」僕はそう思っていた
ところで、亡くなったばあちゃんの家には余るほど物があった。たまたま、亡くなる半年前に僕と兄で家の整理を軽くしたのだが、全く歯が立たないほどの物の多さだった。
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そんな物だらけの家のベッドの下から見つかったのは、早くに亡くなったお母さんの教員時代のアルバムだった。ばあちゃんのお通夜の夜、一人晩酌をしながらそれを眺めていた。
目頭が熱くなりつつも、その思い出のアルバムを見ながら、僕は心の中である不安を感じていた。それは「どのように今後遺品を処分したら良いのだろうか。どのように業者に手配をして家を解体したり、物を処分したら良いのだろうか。」ということだった。
思い出と現実の間で思考をめぐらせながら、最期の夜は過ぎていった。
火葬の日は、
棺桶に蓋をする前に(僕にとっては柄にもなく、)ばあちゃんに綴った手紙を読んだ。我が子達の目の前で、生まれてはじめて大粒の涙を流しながら、僕は手紙を読みきった。
「強いお父さんにもそういうことがあるんだ。」なんて思ってもらえたのであれば、多少小恥ずかしいが、まあいいだろう。
さて、後から冷静になった時に気づいたことだが、その言葉はばあちゃんへの思いであると同時に、集まった親戚のみなさんへの、けじめであり考えの表明なのだな、と振り返ったものだった。
亡くなった人への「思い」とか「念」とかいうのは、周囲の人たちへの礼や義の表明でしかないのだと。
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だからだろうか、家も、残った物たちへの捉え方も、また"「思い出」というただの解釈"でしかないと冷静に感じている自分がいたい。
だから僕は、「残念だけれども、解体屋さんが手配してくれる物の廃棄業者さんに、家のものすべてを廃棄してもらおう」そう決めていた。
この時から、僕と故人との物語がはじまりだした。
「生かす」ジレンマ
ばあちゃんの生前、そして遺品整理などにあたっては親戚のおじさんが面倒をみてくれた。ばあちゃんが一番お世話になっていた人で、僕も小さい頃から最後まで本当にお世話になった。
そのおじさんが、家の解体についてさまざまなアドバイスをくれた。
アドバイスの中で、おじさんはいつもこう言った。
「ただ捨てるのももったいないから、誰かが何か使ってくれたり引き取ってくれたりしたら嬉しいじゃんね。いろいろな業者さんに聞いて、引き取ってもらえるものがないか探してみたらいいじゃん。」
気持ちではそれはわかっていた。しかし、正直なことを言えば、「面倒事をやることになってしまったな。」と思っていた。
僕は東京都の杉並区に住んでいたから、ばあちゃんの家まで往復6時間程度車を走らせなければならないし、日頃から仕事だけじゃなく、子どもたちの世話もあり、けっして時間に余裕がある生活をしているわけではなかった。遺品整理は僕にとって思い出を楽しむどころか、むしろ辛いものだと考えていた。
そんな気持ちがありながらも、ばあちゃんが亡くなったあとの書類の手続きやら不動産についての打ち合わせ、お寺の行事などが重なり、結局のところ月に2回くらいはばあちゃんの家がある諏訪に通った。いま振り返ってもよく頑張ったと思う。
そして諏訪にいく時には、必ず遺品を譲ることができないか、さまざまな古物の買取業者を手配をしていろいろな遺品の整理をしていった。
まずは、宝石類。
二束三文だったから、大切そうなオパールやいくつかの宝石は売らずに回収した。
次に、着物。
実は、僕は知らなかったが、死んだばあちゃんは着物を100着以上持っていた。寝室やクローゼットにびっしりとしまってあって本当に驚いた。着物は一着ずつ和紙に包まれていて、とても大切にしていることが分かった。
この話を親戚や周りの人に話したところ、驚くことにほとんどの人はこう言っていた。「おばあちゃんは着物が好きでいつも着物を着ていたんだよ。」と。僕が生まれてからは、多少身体がごしたかったからだろうか、着物を着ている印象は僕の記憶の中では強くなかったのだ。
こういった具合に、故人の物を一つ一つ見ると、その人の生き様や考え方が頭の中に浮かび上がってくるのを感じた。
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そんな着物だけど、引き取ってもらえるものは5点くらいで、金額も二束三文だった。親戚のおじさんは「着物は良いのを買ってたから、結構お金になるかもしれないぞ。」と言っていたけれども、現代では需要と供給の関係でこれが現実のようだ。「これが現実かぁ。」と思うと同時に、残った着物をどうしたら良いだろうかと、僕はおじさんとの約束を守れないかもしれないと不安が過りだしていた。
その後も家電、書籍、骨董、といくつかの買取業者に依頼をした。また仏壇や神具についても、供養をしてくれる業者さんに費用を払ってお願いができた。それでも物の数に比べたら多くを引き取ってもらうことはできなかった。
ここまでの業者さんが引き取ってくれたものすべてを合わせても家にある物の量が100だとしたら、せいぜい0.1くらいだっただろうか。分かってはいたが、今では”価値の無くなってしまったモノたちの行方”を、僕はどうしていったら良いか、日に日に悩んでいた。
故人との対話
今思えば決して不思議なことではないのだが、家の整理をしている中で僕はあることに気づいていく。この家は、亡くなったばあちゃん、おじいちゃん、そしてお母さんが生まれ育った家なのだということだ。
ばあちゃんは、
旅行が好きでたくさんのアルバム写真があった。よくあった写真は、60歳を超えて(おじいちゃんが亡くなった後)からの写真たちだった。独り身になりつつも人生を楽しんでいた姿がそこにはあった。昔の人の写真は笑っている写真が少ないのだが、ばあちゃんはアルバムの中でなかなかに笑顔を見せていた。
居間には、たくさんのワインや小物が飾ってあったが、よく見るとそれらはどれも記念品のモノたちだった。何か旅行に行ったり記念の時には一つモノを買ってはそこに飾っていたんだということを、その時にはじめて知った。
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また、ばあちゃんが家に飾っていた置物はどれもかわいらしくて女性的だった。生きていた時は気にもできていなかったけれど、洋服やバッグなどもどれもたぶん年齢と比べたら5歳から10歳くらい若い印象があるモダンなモノだった。
「ばあちゃんは、すごく女子だったんだな〜。」と僕は遺品を整理しながら思った。
じいちゃんは、
僕が生まれる前に亡くなったから、どんな人か話でしか聞いたことがなかった。聖人のような人だったと多くの人が口々に言っていたのが幼い頃から記憶に残っている。
俳句の先生だったから、家の至る所に俳句を書いた木板が飾ってあって、なんとも味を出していた。その詩が上手いのかどうかは今の僕にも分からなかったが、とにかく字は上手だった。
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遺品を整理していると、俳句を書いた巻物がたくさん出てきた。さらに、巻物の中の一つにはなかなか著名な画家の作品が出てきて5,000円ほどで買い取っていただくことができた。(調べると、20,000円〜150,000円くらいの価値がある画家さんの絵画だった。)
また、じいちゃんは生前時計屋を営んでおり、数人の従業員を雇っては、家でセイコーなどの時計を作ったり修理する人だった。
そんなじちゃんが作ったのであろう、なんとも味わい深い古時計も見つかり、僕はやはりそれをどうしようか迷っていた。
「じいちゃんは、細かい仕事ができる機微がある人で、アーティストでもあったんだなー。」と遺品を探索する中で知ることになった。
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そしてお母さんは、
遺品が特に特別におもしろかった。基本的には書類や書籍、写真がほとんどだった。東京で小学校の先生をしながら、同時に大学教授のように勉強熱心な人だったようだ。
小さい頃から親戚やばあちゃんからは「お母さんはとにかく頭が良くて、活発で、太陽のような人だった。」と聞かされていた。
例えば小学校の頃の通信簿。成績は抜群に良いのだが、落ち着きがなかったとか書かれていたりして、言い伝えられていた姿が頭に浮かんだ。
また、驚いたのはお母さんの書いた小説だ。いつ書いたがは明確ではないがどうやら中学3年生〜高校2年生くらいに書いたと思われるが、はっきり言えば才能の塊だと思わされるようなそんなストーリーや語彙や表現で、”文学少女”という言葉を用意に想起させた。
家にある(おそらくお母さんが集めたであろう)書籍は1,000冊を超えた。特に、文庫やシリーズものが多く、ミステリーも多かった。書籍の買取業者さんはとても丁寧に教えてくれて、「本の数が多く、文学的で頭の良い人だと思う。あとは、女性には珍しくミステリーが多いので、想像力豊かで好奇心の高いような人だったと思いますよ。」と教えてくれた。(本の並びからそのようなことが分かるとは、書籍、恐るべし。)
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漫画本はドラえもんや、あぶさん、三丁目の夕日、ガラスの仮面など、僕が小さい頃に読み漁った本と、それ以外にもたくさんの少女漫画があった。お母さんの部屋には一つ勉強机があって、若い頃のお母さんがそこに座って勉強したり、小説を書いたりしていたであろう姿が僕には容易に想像できるのであった。
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「お母さんは、やっぱり僕のお母さんなんだ。僕が今動画というクリエイティブな仕事をしているのは、その通りだったんだ。」と、遺品を整理しながら自信をもらうことになった。
神様、仏様
遺品の整理をはじめると、思い出のものが多く、僕は結局段ボール2箱分以上のものを引き取ることにした。また、この遺品を使って自分なりのアートを作ろうと画策して、その素材となりそうなモノも引き取っていった。
そして僕はある驚いたことに気づいたのだ。整理をすればするほど、捨てるのが勿体なくなっていく自分がいたことに。「あー、おじさんが言っていた感覚はこういうことなんだな。」と、考えながらも、ますますじゃあどうしたら良いのかが分からなくなっていった。
そんな僕を救ってくれたのが三者三様の神様たちだった。
まずは、100着以上あった着物。
東京は青梅で着物の引き取りとリメイクを行っている「青梅きものリサイクル」の川崎茜さんが、1/3くらいを引き取ってくれた。昔からの知人で活動を応援していただけに、このような形で助けてもらうことになるとは思わず本当に嬉しかった。
茜は、着物を一つずつ丁寧にみながら、中には「これは奥さんや子どもでも着れると思うから持って帰りなよ」と僕に預けてくれた。そして数着を持って帰った。男モノの着物もあってそれは僕が持って帰ることにした。
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次に、お世話になったのが諏訪市の図書館だった。
おじさんから「図書館に寄贈ができるかも」と言われて、なるほどと思って聞いてみると、なんと本当に引き取ってくれるというのだ。文庫などシリーズのものはダメだったが、合計で830冊近い本を引き取ってくれた。
図書館の職員さんは本当に丁寧だった。
例えば、「館内におけない場合にはフリーマーケットで出すけど大丈夫ですか?」と聞いてくださったり、さらには、寄贈した本の中に1冊だけ、死んだお母さんが手作りで作った絵本があったそうで、それを教えてくれた。一ヶ月後に取りに行った際には、ビニールの袋に入れて保管してくださっていた。
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さて、それでもまだまだ大量の家具やものがある。
そんな状況を一変してくれた奇跡のような業者に出会うことになる。
やはりおじさんが教えてくれたのだが、それは「ここに相談してみたら、机とか柱とかいろんなものを持っていってくれるかもしれないぞ。」というにわかに信じられないような物の回収業者の話だった。
諏訪市にある「リビルディングセンタージャパン」という中古家具の買取業者さんだった。
リビルディングセンタージャパン(リビセン)は、年季の入った家具や柱や小物などを引き取っては自らの店舗で店頭販売をしてくれる。僕はまさかと思っていたもんだから、まずは店頭に足を運んでみたのだが、そこはまるで中古家具のドンキホーテのような空間だった。
古くなった物だけじゃなく、木材一片、扉1枚、地域の祭りの旗など、ありとあらゆる年季の入ったものが店頭販売されていた。
そして、なんと、あの古時計とまるで似たような古時計たちも並んでいるではないか。それをみて僕はすぐさま依頼を頼むことにした。リビセンさんはすぐに快く受けてくれた。
数日後、家の解体を間もなく控えたある日、リビセンさんが来る日がやってきた。
リビセンさんから田知本さんと岸本さんという若い男女のスタッフさんがやってこられた。2人は家の中のくまなく見渡すと、「これかわいい!」「おお、これはすごい!」などと、まるで宝の山をみるかのように話をはじめた。
明らかに今までの買取業者さんとは、雰囲気も、関わり方も違っていた。
すると
「じゃあ、レスキューしますか。」
と岸本さんが言った。
リビセンさんは物の回収を買取とは言わず必ず「レスキュー」と言うのだ。とても素敵だと思った。
彼らは家にあるありとあらゆるものを回収していったのである。窓のガラス、記念品、あの古時計、人形、そして図書館でも引き取れなかった書籍、机、食器、etc…。
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中でも驚いたのは、おじいちゃんが時計作りをするための作業台として使っていた机だ。それはばあちゃんがお化粧代にしていて物もいっぱい置いてあったから、まさかじいちゃんの作業机だとしるよしもなかったものを、まるで解体業者のようにガンガンと接続部分を外しながら取り外して”レスキュー”してくれた。(↓はその様子。)
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僕はそれらの光景を見ながら、ずっと信じられない気持ちでいた。
そしていつしか僕も、「これはどうでしょうか?」「こんなのもありました!」「この結霜ガラス外せそうだから僕外しますね!」と、そこで長い時間過ごし続けたばあちゃんの思い出たちを、気づいたら一緒に手伝いながらレスキューしていた。
モノたちをトラックに積みながら、僕はとあるものを目にした。
それはたぶん僕が30年以上前、ご飯を食べる時に座っていたであろう幼児向けの椅子だった。
100人の人に聞いたって、「引き取ってくれる」とは言ってもらうことができないであろう、”ゴミとされるはずだったその椅子”が、丁寧にトラックの荷台に積まれていった。
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彼らのレスキューは予定をこえて3時間にわたり、トラックを2往復もさせた。
リビセンさんは、一点一点すべてを金額計算してくれて、なんと3万円以上のレスキュー費用をいただくことまでできた。タダでも持っていってくれたら嬉しいと思っていた物たちがお金にまでなった。奇跡だと思った。
僕は、捨てなければならないと思っていた思い出の品々の山を目の前に、3万円を握りしめながら涙を流した。
田知本さんと岸本さんを目の前に、ポロリと言葉が出た。
「嬉しいねえ。ありがたいねえ。」
その言葉は、自分自身に言った言葉なのか、はたまた、死んだばあちゃんや、お母さんやおじいちゃんに言ったものだったのか、未だ僕の中で定かではない。
リビセンさんは、さらに解体の日も再び家を訪れてくれた。
解体の日には壁・床・天井まで外すから、家の柱や板なども解体業者さんと連携をとりながらレスキューしてくださり、それもなんと7,000円以上になった。
もちろんその間も、丁寧に連絡をくださったり、対応を教えてくれた。
少子高齢化の日本。古い物の行方に困っている社会課題がある中で、
事業そのものが、そのまま社会課題の解決にもなる。
「こんな素晴らしい会社があるんだ。」自営業をしている僕にとってそれは刺激以外の何ものでもなかった。
そして後日、茜にわたした後の残りの着物等を、友人の辻村くんが紹介してくれた、千葉で「時由地材」というブランドで着物の引き取りやリサイクルを行っている本谷さんがすべて引き取ってくださった。車いっぱいに積んで運んでくださった。多いに感動した。
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こうして、半年以上かかった家の整理が無事にすべて幕を閉じた。
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僕の中では、まるで奇跡が起きたような出来事の数々だった。
90年という時間の中でばあちゃんと一緒に過ごしてきた、板や、時計や、着物や、数々の置物たちも、きっと喜んでくれているんじゃないかと、心から思えている自分がそこにはいた。
素晴らしい事業に共通していたこと
三様の神様たちに共通していることがあった。
それは、連絡した最初から引き取ってくださる最後の時まで一環して丁寧で優しかったことだ。
「どうしたら良いんだろう。こんなモノ持っていってもらえるんだろうか。」
そんなふうで不安になっていた僕の心が、みなさんに会って、優しくしていただいて、少しずつ明るいものになっていった。
そんな安堵の気持ちを、さらに驚かしてくれる出来事がおきた。
2025年の年明けのこと。
リビセンさんからとある封筒が届いたのだ。僕は何か領収書のようなものかなと思って、数日間開くタイミングがなく机においていた。
電話がなった。電話に出ると、リビセンの田知本さんだった。
「池上さん!あの頑張ってレスキューしたおじいちゃんの作業台。引き取り手の方が見つかりました!一目惚れしたと言っていました。池上さんが書いた思い出カードを読んで、すぐに購入を決意されていたようです。本当によかったです!」
僕はおもわず「え!?」と大声を出し、すぐに目の前にある封筒を空けた。
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衝撃的だった。
感動して、僕はまた泣いた。(笑)
「サービスで感動させる」多くの事業者たちがとってつけたようにそんな言葉を使っているだろう。でもここまでやっている会社、仕事、スタッフさんはどれだけいるだろうか。
事業が社会課題の解決になり、
それが人を感動にまで繋げてくれる。
最高の形じゃないか。なんてすごいんだ。
ばあちゃんが亡くなり、家の処分を自分が全部やらなければならなくなり、最初は面倒と思っていた、10ヶ月もかかった遺品整理。
そこで出会ったのは、 もう戻ってこない故人たちとの、生前の姿や心の中での対話をすること。
そして、ゴミとなるはずだったものを、誰かにとっての宝物にしてくださる、素晴らしいサービスだった。
どうかこの話が、僕と同じような人に多く届いてくれたら嬉しく思う。