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思い出の長すぎるバンド名

1985年(昭和60年)。中一の春。曇天の夕方。東京の港区。僕は同級生の仲良しN君とK君と下校するところだった。

学校の校門を出て20メートルほど歩くと、坂の向こうから背の高い外国人がこちらへ歩いて来る。皆、住宅街には似つかわしい真っ黒い服装。その集団はなにやら五~六人ほどいる。妙に足が細くて長い。観光客風では無いので怖い気もしたのだが、中学生の好奇心で我々は彼らに手を振ってみる。すると白人の集団は「こっちへおいでよ」的な雰囲気を示すのだ。詰入り学生服の我々はダダーッと彼らの元へ駆け寄った。

授業で覚えた拙い英語で「ハロー・マイネーム・イズ・ヒトシ・オダジマ・ナイスチューミーチュー」と話しかけると、オウム返しで東洋人風の真似をして返して来る。見かけに寄らず気のいいお兄さんたちのようだ。一員が「あっちへ一緒に行こうぜ!」的なジェスチャーをするので、好奇心旺盛な僕ら三人はキャッキャと着いて行く。歩きながら服のディティールを見ると何日も着込んでるような袖口の汚れ。良く見ると黒ではなく迷彩柄の軍服の人もいた。印象としては毛の抜けた外国の犬のような佇まいだ。間近で見る白人の肌の白さに驚く。中でも中心人物のような人はずいぶんと目が綺麗だった。よく見ると中には黒い詰襟(学生服)を着ている人もいて同じ服だねと笑いあう。しかし、この人たちは一体誰なんだろう?

今の若い人は驚くかもしれないが、当時は東京都内でさえ外国人を見かけることはまだ珍しく、バスや地下鉄に外国人が乗り込んで来ると乗客全員がその人へ視線を送ってしまう。そんな様子だったのを思い出す。僕は外国人を見つけるとずーっと顔を眺めてしまう。そんな僕を母は『あんまり見てはダメよ』と諭すのだった。

テレビのクイズ番組の一等賞金は必ずハワイ旅行だった。クラスのお金持ちの子が夏休みにハワイへ行ったとなると朝礼台に上がり全校生徒を前にして「ハワイの思い出」なる作文を読むということが普通に行われていた。そのくらいまだ外国や外国人は特別で、任天堂ファミリーコンピューターが発売されても戦後の”ギブミー・チョコレート”的な感覚はそこらじゅうに残っていた。

通う中学校の前に建設中の巨大なマンションがあった(後に女優の宮沢りえが住む事で有名になるマンション)。外国人集団はブルーシートをくぐり建物の中へとどんどん歩いて行く。夕方のせいか他の作業員らしき人はまばらだった。内部はこんな風になっているのか。中一三人は歩幅が小さいのでタタタターッと走って着いて行く。

中庭のようなゾーンにベンチがあり、そこへ皆で座る。彼らはカバンの中にある教科書を見たいとか学生帽を被らせてくれとか言って来る。外国人たちはそれを肴にベラベラ話すが我々に内容はわからない。皆、鼻がシャープで目が澄んでいる。シルバーの長い睫毛。僕はその瞳を眺めていた。

N君が少しだけ英語ができるので職業などをきく。彼らは『音楽をやっている』と言う。バンドマンというわけだ。僕とK君は、洋楽を少し聴き出した頃なので『ドュ・ユー・ライク・ワム?』『ドュ・ユー・ライク・マイケル・ジャクソン?』と訊くと、メンバーのうちの二名は寄り目をして両手をパッと開き「んなワケないっしょ」な呆れポーズをする。その時、やっぱり外人さんはこのポーズするのかと我々はケラケラと笑う。笑う僕らを見てバンドマンたちは不思議そうな顔をしていた。

話を聞いて行くと彼らはドイツから来たのだという。ドイツってどこ?ソーセージとヒトラーをなんとなく想起。バンド名を何度か訊いたが不可解な長い名前だった。メンバーで一番イケメンの美しい瞳の男が両目を横にひっぱって「日本人ってこんなカンジでしょう?」とモノマネをする。N君とK君も比較的に目が大きいタイプの子だったので、僕だけ妙に東洋人的な顔なのか…とシュンとしてしまう(笑)。

刻々と時は過ぎ工事現場は薄暗くなる。するとそこへ髪を赤く染めた日本人の女の人がやって来る。黒革のコートに黒革のブーツだったと記憶している。僕らがバンドマンたちと遊んでる様子を見て「あらまぁ」と言う雰囲気だった。仲良さそうに英語で話し出すので通訳の人だとわかる。「彼らはね、ヨーロッパで若者に絶大な人気なのよ」と彼女は言う。『この人たちはベストヒットUSA(小林克也が司会をする土曜深夜の人気の洋楽番組)に出るんですか?』と訊くと『うーん。そういうのには出ないわね。けど彼ら、今日のスーパータイムに出るのよ。“スーパータイム”知ってる?』と。スーパータイムとは、故・逸見政孝と幸田シャーミンが司会の夕方六時の帯ニュース番組(フジテレビ)だ。一瞬、この赤毛の女性は何を言ってるんだと思った。ベストヒットUSAにも出ない洋楽アーティストが“スーパータイム”に出るなんて、中学生を納得させる嘘にしても意味がわからないぞと。スマホがあればすぐに検索したところである。しかし、通訳の女性も純粋そうな顔で言うもんだから嘘を言ってる様子はない。あまりに掴めないので再度『“スーパータイム”に出るって本当なんですか?』と訊くと、本当だと言う。バンドのメンバーも出るんだぜって顔をしている。我々も現金なものでテレビに出ると知り、この人らもしかしたら凄いんじゃないか?となりノートや教科書にサインをもらう事にする。何か絵のようなものを彼らは描き出す。それは、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の"目玉のオヤジ"を簡素化したようなキャラクターだった。通訳の女性が『これは彼らのトレードマークなのよ』と。意味がわからな過ぎて『目玉のオヤジみたい』と言うしかなかった。彼らが水木しげるの存在を知っていたのにも驚いた。中学生の脳では処理し切れない情報量ゆえ、若干クラクラする。

最後に通訳の女性にバンドの名前をきいた『長い名前なのよね。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンていうの。けどね、長いからノイバウテンね』と。自由さに満ちたイカした喋り口だった。その名前を聞いて、僕らは「なんじゃそりゃ」と思った。僕は忘れないように国語のノートの隅っこにシャープペンで「ノイバウテン」と書いた。

本格的に夕方になって来て辺りはどんどん暗くなる。暗くなると昭和の中学生は不安になる。門限が近づく。名残惜しいが、ノイバウテンと通訳の女性とバイバイをして別れた。彼らのシルエットは工事現場のブルーシートの藍色へと消えて行った。

帰り道。巨大マンションの建設現場を背にして坂を下る中一三人組。標準語に駆逐される寸前の江戸弁風情が残る東京の子供たちの会話。

N君『なんとかかんとかノイバウテンだって(笑)長すぎるよな。覚えらんねーじゃん』
K君『ぜってー売れてねぇよな。知らねぇもんな(笑)』
N君『目玉のオヤジ知ってたな。ビビったよな!』
僕『ビビった。けど、スーパータイム、今日出るって言ってたじゃん』
K君『ぜってー出ない(笑)』
N君『マジで出ると思う?』
僕『一応、みようぜ。急いで帰ろう。あとで電話するね!』

三人は坂の袂で『じゃあねー!!』と手を振って別れる。

帰宅しジャージに着替える。姉は部活でまだいなかった。『台所にお味噌とハムエッグがあるわよ』と夜の出勤支度をする母。僕は『さっき変な外国人に会ったよ。バンドをやってる人らでさ、今から“スーパータイム”に出るんだって』と話すと、母は怪訝な顔をしそそくさと化粧を整えるのだった。

夕方六時。ダイヤル式のテレビをフジテレビ「8」に合わせる。“スーパータイム”がはじまる。オープニングでCGの文字がくるりと回転する。体育座りでじーっとニュース画面を見る。18時25分を過ぎても、なかなかその、なんだったか、なんとかノイバウテンは出て来ない。まさか、嘘を付かれたのか… と不安が過ぎる。

番組の後半、CM後の箸休め的なコーナーに変わり、司会の逸見さんが『さて、なんともユニークなバンドが来日しました。なんと、工業廃材を楽器にしたバンドです』と紹介。そのバンドの海外でのライブ映像が流れる。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン。画面テロップにそのバンド名が出る。やはり長い。あの美しい瞳の男はやっぱりボーカルだった。レポーターが彼らのリハーサル風景に潜入する。軍人のようなメンバーが大きな分厚い鉄板を棒でゴーンと叩き、チェインソーで鉄を切ってギューンと火花を噴射させていた。この世の終わりのような印象の映像だった。これは、一体何なんだろう…と思った。バンドなのに楽器を持っていない。廃材で音楽が出来るのか?と。メンバーのインタビューも挿入された。レポート映像からスタジオに切り替わる。逸見アナウンサーは怪訝な顔で『よくわからない不思議な世界ですね』と締め括る。そしてCMへ。体育座りの僕は茫然としていた。

放送後、K君とN君へ電話をし、ひとしきり『スゲーな観たか。なんとかバウテン!!』と興奮して話し合う。その夜、やっと冷静に考えれる時間が訪れた時に、あの人らはコンサートのために日本へやって来て、あそこの工事現場に楽器(=工業廃材)を探しに来たんだなと考え当たる。まだ実験音楽的なものを全く知らないのですごいやり方だなと思った。一体どういった経緯を辿り、大人たちはこの複雑なものを楽しむに至っているのかと思い耽った。謎だらけであった。翌日、学校のクラスの皆にサインを見せアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの話をすれど皆、ポカンとしていた。

その数年後。オルタナティブ・ロック好きの高校生になり、音楽マニアのための雑誌『フールズメイト』を手にするようになる。後半ページのレコード評でノイバウテンを知る。目玉のオヤジの絵のジャケットを見つけるのだった。読めばノイズ・インダストリアル・ミュージックの帝王だと書いてある。あの端正な顔立ちのボーカルはブリクサ・バーゲルトというカリスマでオルタナティヴ界の美形アイドルなのだと知る。バンド名を直訳すると「崩れ落ちる新しき建築物」。映画監督の石井聰互がドキュメント映像を撮影したのだと言うことも知る。そして色々調べて行くと、あの現場にいた赤毛の通訳の女性は高名な音楽ライターの水上はるこさんだと分かる。

日本の、東京の、杉並区の机の上で37年前に「なんとかバウテン」と遭遇した思い出を反芻し文にしている。彼らは我々との戯れの時間を日本の思い出として記憶していてくれているだろうか。 創作そのものに興味を持って行く段階で、こうした偶然に出会うことは深い一助になる。彼らにダンケシェンと言いたい。そのあと、もちろんノイバウテンの轟音サウンドに魅了されていく。

80年代、日本の中学生とアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの遭遇記でした。


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