役に立つってどういうこと?
朝夕めっきり涼しくなってきましたね。
東洋医学的に
秋は「収束の時期」と言って、
物事が「収束する」季節。
よく、実りの秋と言い、
なんとなく秋は「収穫」
つまり、なにかを「得る時期」のように感じていました。
最近読んだ東洋医学の本の中で「収束の時期」という言葉を見つけたときに、
なるほど、今年の私の秋はまさにこれだなと納得。
収獲より、収束でした。
秋分の日あたりから、怒涛の日々で、
環境の変化が目まぐるしく、
心も体も追い付いていない状況でした。
頭に熱がこもって、鼻血がでるのでは??という感覚。
でも、熱も鼻血も出てくれず、
ずっと熱い頭を抱えながら、
今は収束の時期だから。
焦らずに、焦らずに。
心穏やかに過ごそう。と意識していました。
秋が来ると次にやってくるのは冬。
冬は熊が冬眠する季節。
春の芽吹きに向けてエネルギーを蓄える季節。
来る冬に向けて、
ゆったりと過ごそうと思いつつ、
この秋の想いを綴りたいなと思い、noteに向かっています。
私、この秋の色々な出来事によって、
気づいた気持ちがありました。
それは、
「存在しているだけでいい」と認められたかった。
という気持ち。
無意識の心の奥で、私は「認められたかった」。
何を?
存在を。
存在を認められるって、どういうこと?
それは、
「役に立つ存在だ」
「いてくれて助かった」
「あなたの力があってよかった」
そんな風に誰かに喜んでもらうということ。
つまり、
「私は誰かに喜んでもらえる、役に立つ存在だ」と思いたかったんです。
自分からも、他人からも、そう思われたかった。
役に立つってどういうことなのでしょう。
「何か」をしていないと役に立たないのか?
喜んでもらわないと役に立たないのか?
それって、どこか、しんどい。
「存在」という言葉の中に
「(人の役にたつ)存在」という枕詞が勝手にくっついている。
なんとなく、物心ついたころからある感覚
「役に立たないといけない」
「働かざる者食うべからず」
そんな雰囲気が、世の中にあるような気がして、
このしんどさを感じているのは私だけではないような気がしています。
自分で自分のことを愛したい。
自分で自分のことを愛する。
他人は関係なく、
私が私を愛する気持ちを大切にしたい。
そんな風に思いつつ、
心の奥の見えない部分で
「役に立つ存在だと認められたかった」
そんな生きづらさの「しんどさ」に
気づいたと同時に
もう一つ体感していることがあります。
それは、
私はたくさんの愛を知っているんだな。
ということ。
生まれた瞬間から、
もしくは、生まれる前から、私は愛されていたし、
今も、愛されている。
そして、役に立っているかどうかとは別の次元の話として、
私の命として、今生きている。
それらは事実。
役に立っているかどうかという見えない尺度は置いておいて、
私は生きて存在している。
それは事実なんですよね。
子供達を見ていると、自分が役に立っているかどうかなんて関係なく、日々を生きている。
その姿が愛おしくてたまりません。
今、夫の紹介で一冊の本を読んでいます。
私の中に生まれた、「役に立たなくては」という気持ちの正体を解き明かしてくれそうな1冊です。
今ちょうど半分読んだところ。
読み進めていこうと思います。
■存在を認められたいという想い。
■私は役に立っていないといけないのか。
キーは、
なのかなと
今、感じています。
わからないことも、そのままでおもしろいんだろうな、きっと。
さて、収束の秋。
無理せず、心穏やかに、冬眠の冬を迎えたいなと思います。
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