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自転車から転んだら死んだおばあちゃんに会いたくなった話

左手が痛い。

2週間前くらいに自転車で転んだときに捻挫したのが今でも残っている。

日常生活には支障ないが痛いのはテンションが下がる。

左手をケガしたのは高校生の時以来だ。

部活が卓球部で練習のやりすぎで左手を故障した時期があった。

当時は左利きだったのでプレーできない状態になったけど、

部活を休みたくないから無理して練習していたのを覚えている。

昔から好きなこと、楽しいことを休むのが我慢ならない。



なぜか突然、思考が停止した。



高校生のときのことをあまり思い出したくないのだろうか。

たしかに高校生はそんなに楽しい時期ではなかった。

まあ元々学校に行けていない時期が長かったから、学校自体に良いイメージがない。

かといって家が楽しい訳でもなかった気がする。

家族とはそれなりに仲良い方だと思うが、「家族団らん」という状態でもなかった。

我が家は特殊で、隣の家がおばあちゃんの家だったので、

おばあちゃんとは毎日のように会うことができた。

どちらかというと、僕はおばあちゃんの方が好きだったと思う。

おばあちゃんは、とにかく僕の味方になってくれた。

世界仰天ニュースのVTRに出てくるような「孫が可愛すぎて食べ物を与えまくる」みたいな感じではなかった。

モノを与えることは少なかったけど、僕のことは手放しで迎えてくれた。

そして今になって思い返すと非常に上品な人間だった。

自分が大人になって気付いたが、町を歩いていて目にする老人よりも明らかにきれいで上品だった。

見た目だけでなく、言葉遣いや振る舞いなどが、庶民の割には出来すぎていた。

おばあちゃんが外食に連れて行ってくれるときは、洒落たレストランが多かった。

フォークとナイフを器用に使って食事していた姿が懐かしい。

そして意外に早くに死んだ。

年齢でいうと70歳くらいだったと思う。

女性にしては少し短命である。

また夫である、おじいちゃんは30代で死んでいたから、おばあちゃんは早くからシングルマザーになって自分の両親(ひいおばあちゃん、ひいおじいちゃん)が死んでからは、最後まで独りぼっちだった。

子供は僕の父親だけ。

だから逆に言うと、おばあちゃんも寂しかったのかもしれない。

そんな時に僕みたいな孫が隣に住んでいたら、つい優しくしてしまうのだろう。

そんなおばあちゃんが死んだとき、僕は9歳くらいだったから正直おばあちゃんのことは深く知らなくて、大人になってから父親を通じて色んな遍歴を聴いて「へーそんな人だったんだー」となった。

ひいおばあちゃんは、ちょうど日本が戦争をしていたときにおばあちゃんのことを産んだ。

実際にはおばあちゃん以外に4人産んだため、おばあちゃんは5人兄弟の一人だった。

戦争中のため、色んな町を転々としていて、満州(中国)にいた時期もあった。

満州というと、日本が降伏したときにソ連(ロシア)が満州にいた日本人を逮捕したりシベリアに送ったりしたのを教科書で読んだが、その辺には運良く被っていなかったらしい。

おばあちゃんはおじいちゃんと結婚したときには二人で暮らしていた。

僕の父親が生まれて間もなくして、おじいちゃんは仕事場の火災事故で死んだらしい。

当時の新聞にも載った大事故だったが、父親は生まれてすぐの記憶は無いそうだ。

当時は男が働き、女は子育てという明確な役割分担をする文化だったから、

おばあちゃんは悲しいだけでなくシンプルに困ったと思う。

結果的におばあちゃんは、自分の両親の家に僕の父親を連れて引っ越した。

おばあちゃんは僕の父親以外に子供を作るどころか、再婚すらしなかった。

というかメンタル的にそんな余裕がなかったんだと思う。

自分の両親から支援を受けながらも、食っていくために在宅での仕事を開始した。

サラリーマン的なことはやったことがないので、裁縫について勉強して、

自宅で個人向けの洋裁教室を開業した。

言われてみれば僕もおばあちゃんの家に行ったときに、ミシンや糸、布など洋裁に関する道具をたくさん見ていた。

両親からの支援と自分の実業で何とか僕の父親を食わすことができたので、

おばあちゃんは途中から資産運用も始めた。

僕の父親は2浪していたが、2浪を許すくらいの貯えを作ることができていたのだ。

ここからは僕の推察だが、おばあちゃんはお金に対して真面目だったと思う。

僕の父親を2浪させたりするくらいのお金を出していたが、

父親曰はく、ゲームなどの遊び道具は買ってもらっていないらしい。

「選択と集中」とでも言うのか。

妥協できる点はとことんケチで、必要な部分にはお金を出す。

僕の父親は2浪したが京大に入ることができたので、おばあちゃんの考えは正解だったんだと思う。

ちなみに僕の父親は公立の学校出身で、近所に住んでいる父親の同級生の方たちも、みんな公立から京大や医大、どこかしら国公立に入った人が多い。

そんな話を知っていたからか、僕は高校生のときに友人らが私立高校に通ったり、公立に通いながら進学塾に行っている姿を見て不思議だった。

「そこまで努力しているのに、立命館、同志社など中堅の私立大学くらいを志望しているのはコスパ悪くないか」と直感で思ったが、そんなことは口が裂けても言えなかった。

話を戻して、おばあちゃんは僕の父親が就職して独り立ちしてからは、

細々と実業をやりながら、少しずつ仕事はクローズさせていった。

僕と出会う頃には働いておらず、ひいおばあちゃんの介護、友人との交流、家庭菜園などをメインに暮らしていた。

おばあちゃんは体にガタが来るまで「自給自足できるものは頑張る」というスタンスだった。

果物、野菜は農協に卸せるんじゃないかと思うくらいの量だった気がする。

車はおろか自転車すら持たず、遠出や旅行などは基本的には出かけない。

小さい世界かもしれないが、近所の人や友人との関わりは大事にしていて、男性(と言ってもジジイ)からプロポーズされることは1回だけじゃない。

一時期、他の兄弟と土地の権利をめぐって争いになったことがあったが、

資産運用で作った種銭と独学した法律の知識を活用して、上手く解決してみせた。

才色兼備とでも言おうか、見た目やコミュ力が高く、クレバーな人間だった。

おばあちゃんなら今の僕の苦難を解決してくれる金言をくれたんじゃないだろうか。

いや仕事なんかどうでもいいから、もう一度だけ会いたい。

会いたいんだよ。

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