長崎紙立博物館
学生の頃すこし不登校だった話を知り合いにしたら、その話はきっと誰かの役に立つ!何かに書くべき!と言われ、書いてみました(笑)。誰かの気持ちが軽くなることがあればうれしいです。
担任の先生に学校を休みたいと相談した。 「そんなの、ちゃんとした理由がないとだめだよ。病気です、とか、精神的な病です、とか。お医者さんの証明がないと休めないよ」 こんな先生の言葉になぜか反抗心が芽生え、もう、絶対に休んでやる!みたいな気持ちになった。 もう絶対休むと決めたので、まずは友人にその報告をした。同じクラスで特に仲の良かった友達2人を体育館に呼び出し、正座の膝を突き合わせた。 私はしばらく学校を休むことになりましたが、心配しないでください。 いざ話すとなると
高校1年生の夏休みが明けたあたりから、私は学校を休みがちになった。 いじめられてはいなかった。高校に入ってからできた友達もいて、勉強も好きだった。部活には入らず、学校に行けばそれなりに楽しかった。でも、なんとなく学校へは行かずに過ごすことが多くなった。 普段通りに朝家を出て、そのまま書店へ行き、本を買って、近くの公園で読む。 家を出ると仲の良い野良犬が待っているので、空き地へ行き一緒に弁当を食べる。 そもそも朝、学校へ行かずに家で絵を描いたりして過ごす。 そんな感じで
私の不登校は、幼稚園の頃から始まっていた。 朝、家を出ると近所に身を隠し、父が仕事に向かうの待った。電信柱の陰から観察し、父がいなくなったのを確認すると、家に戻った。かぎっ子だったからできたことかもしれない。母は亡くなっていたか入院中だったか覚えていないが、とにかく家には誰もいなかったので、子どもの私にとってはそこで成功だった。 幼稚園をさぼったのは、プールのお着替えが嫌だったからだ。男の子と一緒に着替えさせられるのが嫌だった。きっかけは多分それだった。何回くらいさぼったの
地元で一番大きな文具店に行った。紙売り場を見たが、うちにあるような厚さや質感の紙はなかった。とりあえず紙の裏表が分かればと、レジにいた店員さんに聞いてみることにした。 あのー、この紙って扱いありますか?裏表が知りたいんですけど・・・ 父のカードと、紙を店員さんの前に出した。2人の若い店員さんは、それぞれカードや紙を手に、しばらく裏を見たり表を見たりしていたが、結局「裏表は分からない」らしく「この紙は扱っていないけれど、注文があれば似たようなものを探して取り寄せることはでき
近所の家電量販店で、コピー機を買った。これも次の確定申告で経費になると思うと、お金は出ていくけれど、得した気持ちになる。サラリーマンを辞めて3年。少しはフリーランスらしくなってきたかな。 父は「俺は社長だぞ」と言っていた。「従業員はいないから、一人社長だ」と笑っていた。じゃあ私は社長令嬢だね。そう言って笑い合った。 先輩だったんだな。 私は社長ではないけれど、一人で事業をやっているという意味では、父は私の先輩だ。カードが動き出してひと月足らず、父の新たな顔が次々と見えて
仕事仲間にカードを見せた。これ、いくらくらいだと思う?そう聞くと、返ってきたのは「うーん、500円くらいかな。これだけもらってもどうしようもないし」という言葉。 父は全て手作りのカードを1200円で売っていた。手の込んだものは2000円くらいしたような記憶がある。「手作りの価値を分かってねえんだよ」みたいなことを時々言っていた。もしかしたら、高いとか、紙なのに、とか言われていたのかも知れない。 500円という評価へのショックが隠し切れない私を見て彼女は、「インスタグラムと
父のカードを世に出したい。 そう思った私たち姉妹。デザイナーさんからは、さらに 「お父さんが残したものを活かして、新しいものを生み出すのも大事」 とアドバイスをもらった。 私は父のカードを作ったことがなかった。すでにあるデザインをカードという実物に作り上げるのでさえ、できるのかどうか半信半疑なのに、そこから新しいものを生み出すなんて・・・。いったどういう作業になるのか、想像すらできなかった。 「そういうの、得意そうだよね。私は作る方が好きなタイプ」と姉は言う。ならば、
「お父さんはデザイナーだったんだね」 私の父が仕事としていたこと。長崎の町並みや建物をデッサンし、図面にし、カードを作り、売ること。私が「飛び出すカード屋さん」だと思っていた父を、デザイナーさんは「デザイナー」だと言った。 父は、東京にカードの先生がいるようなことを言っていた。茶谷さんという、その先生の名前を私は知っていて、だけど何をしている人なのか、具体的に何の先生なのかはよく知らなかった。 「自分が知りたいことを、よく知っている人がすでにいるなら、その人に習った方が
仕事でデザイナーさんと打ち合わせがあり、その場に、なんとなく父のカードを持って行っていた。そういえばこんなのがあるんですよ・・・とおもむろにテーブルにカードを出した。 「長崎遠景」という名のそのカードは、稲佐山をバックに港を挟んで教会や建物が重層的に立ち上がる、父の代表作だ。濃紺で表現した夜空に、カッターで切込みを入れて星を作る。後ろから光をあてると、星も山も建物もみなほんのりと輝く。私もこのカードが一番好きだ。 「これ、知ってるよ」とデザイナーさんが言った。むかし、地元
2020年、コロナ禍で東京に住む姉が在宅勤務になった。自由な時間が増えた一方で、収入が減るかも知れないと話していたので、私は改めて副業を勧めた。父のカードを作ってネットで販売したらいい、と前から何度か話していたが、姉の反応はいつもよくわからない感じで。まあ、そんなに乗り気ではないのだろうと思っていた。 姉は私よりも父と仲が良かった。離れている分、関係は良好だったと思う。近くにいるといろいろと難しいことは増えてくる。特に親が年を取り、親子の関係性が変わってくるという局面では、
私の父はカードを作っていた。 景色や建物などをスケッチして、方眼紙にデザインを描いて、紙に印刷して、カッターで切って折る。広げるとその景色や建物が飛び出してくる。いわゆる飛び出すカード。 いつからだろう。私が中学生の頃には、父はもう自分の店を持っていて、はじめは靴下とかコーヒーカップとかを売ったり、コーヒーを出したりするよく分からない店だったが、それがいつからか飛び出すカード屋さんになっていた。高校生以降の私の記憶の中の父は、飛び出すカードを作って売っている人だった。 オ